最終話 2 フィジカルな感じ
ここはいつも昼も夜もない。明るくもなく、暗くもなく。太陽が昇る寸前の曇った空か、太陽が沈んだ直後の生まれたての夕闇か。空一面がぼんやりと発光しているように足元の影が四方八方に薄く短く生えている。
山のあちら側。実際の物理的な地形上では、座王山脈の向こうはいわゆる日本海側に通じる山々になっている。政府発行の地図でも太平洋側と日本海側を結ぶ国道のトンネルが何本も貫いている。だが、道以外の場所を歩いて渡ろうとする事は霊的に不可能だ。運がよければ山のあちら側にたどり着けるかもしれないが、運が悪ければ、あるいはほとんどの場合はどこにも行けず、山の物の怪のご馳走になるだけだろう。
真樹士は熊の主と歩いて山を渡った。隣をのそのそと歩く黄金色に毛色が輝く大きな熊の揺れる肩に手を添え、独り言を呟くように熊に問いかけていた。
「ねえ、ヌシの寄り合いの時、先代のヒトのヌシとサルのヌシに何があったか、見てました?」
熊は低く喉を鳴らす。
「見てないかー。今の状況から想像はできるけど、ウラがとれないんだ」
熊が歩みを緩めて真樹士の方を覗き込む。
「え? ウラがとれるってのはー、えーと、説明が難しいよ。状況証拠って言っても意味わかんないでしょ? 聞かなかった事にして」
また肩を並べて歩く真樹士と熊。
「でもおかしいよな。もう山の神様に声かけられてもいいはずなのに、なんで姿を現さないんだ?」
山のあちら側は時間の流れも違う。ぼんやりと薄明るい山を歩き始めてまだ数分しか経っていないが、現世の山では真樹士と熊の主の存在が消えてからかなりの時間が経過しているはずだ。山のあちら側はとても緩やかに時間が流れ落ちる。
「やっぱり山の神様に何かあったから山のリズムがおかしくなったのかな」
熊が立ち止まり、前足で薄く発光する地面をほじくり返した。子供の頃、カブト虫の幼虫を探して掘り返した腐葉土の香りが思い起こされる。掘り返された土は黒くふかふかとしていて、なんとなく食べたらおいしそうな感じにも見える。
「いい土じゃないですか」
熊は軽く首を傾げて真樹士を見つめる。
「おかしいって、何がおかし……、あっ。そうか、腐葉土ができる訳がないか」
山のあちら側は見た目は下界とまったく変わりがない。しかしそこはすでにこちら側ではない。植物も形がそこにあるだけで成長もせず、花も咲かず、微生物すら存在しない。時間の流れも限り無く緩く、ほぼ静止した時間が立ち込めている世界のはずだ。こんな風に葉が落ち、腐り、微生物に分解され、土に返る事などあり得ない。しかし、いま熊が掘り起こした土は間違いなく腐葉土だ。森に時間が流れ、生き物が活動している証拠だ。
「で、クマのヌシ様としての考えを教えてくれません? 俺は山に入ってからいろんな事がありすぎて山の神様とまだ交信していないんだよ」
先を歩く真樹士を熊が追い掛ける。大きな身体を揺らして少しだけ真樹士の先に出て、腕組みをして空を仰いでいる人の主に振り返りながら喉を鳴らす。
「へいへい、すみません。確かに、ヒトのヌシ不在の期間が長過ぎました。サルが調子にのるのも仕方ないかもしれない。でも、俺にも俺の都合ってのがあったの。ヒマワリも結婚式を上げておきたいなんて言ってたし」
真樹士の顔を覗き込む熊が少し甲高い声を上げた。
「でしょー? ありがとう。落ち着いたらヌシの寄り合いを開いてみんなにお披露目しようとは思っていたよ」
熊がまた足を止める。低く唸り、真樹士を呼び止めた。
「……あ、そうか」
真樹士は熊の主に向き直り、一つ頷いた。
「あり得るな。いや、きっとそうだ。なるほど、そう考えると山の異変も納得がいく」
熊も真樹士に頷き返す。金色のたてがみがふわりと柔らかそうに揺れた。
「ああ。でもそうすると、どうやって山の神様を探そう? どこをほっつき歩いているかわからないぞ」
熊が立ち上がった。両前足をだらりと垂らし、少し胸を張るように上体を反らせて大きく空気を吸い込んだ。
「わ、待って」
慌てて真樹士は耳を塞いだ瞬間、森の木々が揺らぐ程の雄叫びが山々にこだました。耳を塞いでいても轟音が腹の底に響いて来る。熊の主が山を揺るがす雄叫びを終えるまで、真樹士は頭を抱えるように耳を塞いでうずくまるしかなかった。
やがて重低音のボディーブローは止み、まだ耳鳴りがしんしんと残っているが、真樹士は立ち上がって太陽も月も星もない空を見上げた。熊の主もそれに習う。