最終話 1 あれは人間じゃない、情報だ
カーテンが引かれる。夕焼けの陽の光が音を立てているように見えた。部屋の濁った暗闇を斜めに切り裂いて、生き物の呼吸のような、擦れてはいるが暖かな音に見える。両手ですくい取れそうな暖かさだ。
「ふう」
窓を開け放つ。澄んだ空気とどろっとした空気が混じり合い、風が生まれた。頬を撫で、前髪がさらりと揺れる。
自称スーパーハッカー、ブライズと名乗っていた男は、たったいま引きこもるのをやめる決意を空と風と夕焼けの光に誓った。どこから入り込んだのか、大量の昆虫や爬虫類をやっとの事で掃き出して、湿った臭いのする空気を入れ替える為に、何年振りになるだろうか、窓を開けた。
夕焼けの赤は、こんなオレンジ色した赤だったのか。いや、黄色い赤か。そもそも一色じゃない。色の境目も見つけられず、視線で撫でているうちにいつのまにか色彩が波打つように変わって行く。暖かな空気が柔らかい。風にあたる事がこんなに心地いいものだったか。もう覚えてもいない。
人の主。そう、主。
主に逆らおうとした事が誤りだったのか。ネットの世界は一日毎に新たな技術が生み出され、伝説が語られる。やれ、四次元事象をエミュレートした新たな記憶テーブルが作られた。やれ、ネットワークの防壁を多層構造化に成功させたエンジニアがネットを騒がせたと思えば、70秒後にそれを破ったハッカーが現れた。やれ、人工知能の開発中に被験者である人工知能が観察者であるニンゲンをチェスに誘った。
やれ、新たな人の主の候補者が、山と言う霊的な現象をデジタルの世界で再現し、大規模なサーバーを展開させて文字通り解析した。
自分もそれに名を連ねる、つもりでいた。しかし蓋を開けてみれば、なんて事はないただの「その他大勢」にすぎない事がはっきりした。自分の能力に対する過剰評価からの自惚れ? そんな上品でキレイな言葉では表せない。もっと解りやすくストレートな言葉がある。無知。無能。いくらでもある。
ブライズは自身が生まれ変わった気がした。初めてネットしたあの日と同じだ。コンピュータに電気を流し、液晶ディスプレイが明滅したあの瞬間。自分は世界と繋がり、世界が自分に流れ込んだあの瞬間。
何でもできる気がした。事実思うがままに何でもできた。自分のこの指先が世界をコントロールしているとさえ錯覚した。
だが、叩き付けられた現実はどうだ? 自分は人の主の掌で踊らされていたに過ぎないのだ。何一つ、自分では達成できなかった。すべてシミュレートされ、コントロールされていた。何もできず、何をされたのか知る術もなく、哀れな悲鳴をあげただけだった。
「もう、ハッカーはやめるか」
スーパーハッカー、ブライズは今日をもって歴史から消える。本日からは生まれたままの佐々木太一として、新しく生まれ変わるのだ。今日が、もう一度やってきた自分自身の誕生日だ。
「生まれ変わったんだ、俺は」
夕焼けも祝福してくれている。
「……さてと」
手がパソコンに伸びる。
「明るい部屋もいいもんだな」
パソコン起動。即ネット接続。
「さっそく報告だ」
いつものハッカー仲間が集う掲示板へ。
ニンゲン、そんなにあっさり生まれ変われるものではない。