第10話 携帯とヒグマと虫と悲鳴と
真樹士の携帯電話が再び陽気な音楽を奏でたのは、山伏達が山小屋に戻り、完全装備で武装して折り返し山に入って行ったまさにその時だった。携帯電話を耳に押し当て、森に染み込むように姿を消す山伏を見送りながら顔を曇らせて行く。
向日葵は真樹士の深刻で険しい表情を初めて見たような気がした。いつも、どこかしらに楽しみを見つけて逆境そのものをプラスに受け止める彼が、ただ携帯電話の声を聞き入る以外、何の選択肢も選べないで戸惑っている。
携帯電話の相手は純か。向日葵の方をちらりと見やり、聞き取れない小声で何やら指示を出す。やがて勢いよく電話機を折り畳み、思い直して開き液晶を睨みつけ、苛立たしげに舌打ちを一つ、また折り畳む。
「……マキシくん、どうしたの?」
張り詰めた冷たい空気に耐えきれず、向日葵は真樹士の肩に手を添えた。
「どうしたらいいかわからないんだ。今の現状をみんなに知らせる事は簡単だ」
携帯電話を再び開く。
「でも、そうする事によって、間違いなくみんなに混乱を呼び寄せる。今の山の気配はあまりにも異様だ。瞬時に冷静な判断ができなければ、カネユキさんの二の舞いになる」
そして握り拳を作るように携帯電話を閉じる。
「カネユキさんの、二の舞い?」
「……ああ」
真樹士は窓の外に視線を移す。すでに山伏達の姿は見えない。
「サルのヌシと遭遇して、どうなったかはわからないけど、ヒタヒタにやられたらしい。……死んだよ」
急に部屋の温度が数度低くなったように感じられた。とっさに兼之の顔が頭に思い浮かべられない。シンダヨ。その言葉の形が、言葉としての意味が思い出せない。
「シンダ?」
その言葉を自分の口で発してみても、その具体的な姿が覗いてこない。
「……うん。ごめん、質問は終わりだ」
向日葵と視線を合わせようとせずに真樹士は寝室のパソコンに向き直った。
山伏長の現治朗を先頭に、鉄兵、左太郎、卓哉の四人が純とリンドウの元へ向かった。山小屋には真樹士と向日葵、そして山小屋番の修司が残る。敵は猿の主と山猿達。それだけではない。普段は山の神の裁定により影を潜めている物の怪達も我が物顔で山を徘徊している。
問題はまだある。考えられない事だが、人を食らった猿の主が人の力を得つつある。人の皮を被り、人になりすましてふもとの村にでも降りられたらその影を捕らえる事すら難しくなる。
真樹士はパソコンを起動し、いくつかのアプリケーションを開きながらヘッドマウントディスプレイを取り出した。
「ヒマワリ、相手してやれなくてごめんな。一段落着いたら、ゆっくりお茶飲みながら説明するよ」
「説明の前に、マ、マキシくん、ちょっと、あれ見てよ」
黙って真樹士の動きを見守っていた向日葵が、口を両手で塞ぎ一歩二歩と後ずさりながら震えた声を出した。真樹士は彼女の怯えた表情を見やり、軽く首を傾げた。何事かと、向日葵が見つめる窓へ視線をやる。
彼女が見つめる先は寝室の窓。いつからそこにいたのか、窓には一頭の真っ黒いヒグマが部屋の中を覗き込むようにへばりついていた。濡れた鼻先がひくりと動くと、熊の吐息で窓が一瞬白く曇る。
「……この大事な時に、なんだよ」
真樹士はそれが日常であるかのように、普段と変わらない動作で椅子を立ち窓に寄って躊躇う事なく窓を開け放った。
「ちょっ、マキシくん!」
向日葵の悲鳴をよそに真樹士は、人懐っこい隣の家の飼い犬が紛れ込んできたかのように、窓から身を乗り出してヒグマのほっぺたをくしゃくしゃと撫で回し始めた。思わずぺたりと座り込んでしまう向日葵。
「忙しいんだよ。遊んでいる暇はないぞ」
そいつはやけに人懐っこい隣の飼いヒグマか。目を細め、大きな口を半開きにして牙と舌を覗かせて、ヒグマは真樹士の胸に顔を押し付ける。
「ヒマワリ、いい加減慣れろよ。俺はヒトのヌシよ。山の生き物はみんな知り合いだ。なあ」
「いや、熊は、ちょっと……無理っす」
向日葵はまだ立てない。自分の身体の何倍もあるヒグマから遠ざかるようずるずると後ずさる。
「見た目で判断するなよ。で、何か用か?」
ヒグマは真樹士の言葉を理解しているかのように、彼の顔を大きくざらついた舌で舐め回した。真樹士の首ががくがく揺れる。
「今からか?」
今度は真樹士のシャツの襟元を軽く噛みだす。
「わかったよ。クマのヌシ様とも久しぶりだ。すぐ行くよ」
その巨大で毛むくじゃらな体格とは裏腹に子犬のように鼻を鳴らす熊。
「その代わり少し待ってろ。こっちも片付けなければなんない事が山積みなんだ」
くるり、相変わらずヒグマの頬をかき撫でながら向日葵に向き直る真樹士。その表情からは先程までの迷いも戸惑いも消え失せていた。
「ヒマワリ、ちょっと出かけなきゃなんない。悪いけどシュウジさんと留守番を頼むよ」
「お留守番?」
「うん、いや、留守番だけじゃないな。ちょっとした仕事も頼むよ」
「お仕事?」
ヒグマがまたも子犬のように鼻を鳴らした。くぅん。
薄っぺらい人工的な暗闇の中、液晶ディスプレイのやけに冷たく無機質な光が一方的に語りかけて来る鬱陶しい占い師のように眩しさを投げかけて来る。
「いったい、何だって言うんだよ」
ブラインドを閉め切り、空気が濁る程に引きこもったままの男はディスプレイに組み付くまでににじり寄り、苛立たしい音を立ててキーボードを打ち鳴らしていた。
何の前触れもなく、人の主のサーバーに繋げていたハッキングの枝が電子的に完全に消滅した。そればかりか、いつのまにかネットの履歴ファイルが改竄されている。人の主へのハッキングを成功した証拠と呼べる要素すべてが完璧に消されていた。
「この俺様が逆ハッキングをかけられていたってのか?」
誰に言うとなく刺のある言葉を吐き捨てる。人の主に対してハッカーとして成す術がまるでない。過去の履歴もなく、いくつかのアプリケーションもインストールした覚えのないソフトウェアとコンフリクトを起こして起動されない。普通にネットに繋いでサイトを回る事ができるのに、何故か人の主や山伏関連のページには飛ぶ事ができない。
「このブライズ様が、手も足もでないだとっ?」
ぱちっ。
小さな音が頭上で弾ける。しかし男は気にする事なくパソコンにかぶりついている。ふと、部屋が急に明るくなった。電気の光が目に痛い。何事かと男が天井を見上げる。
スイッチにもリモコンにも触れていないのに部屋の電気が灯っている。部屋に白い蛍光灯の明るさが突然に溢れ出し、液晶ディスプレイの微弱な明るさだけを頼りにしていた為、何度瞬きさせても目の焦点が合わない。天井が揺れているように見える。
「なんだ?」
いや、違う。本当に揺れているのだ。白いはずの天井が、さまざまな色に染まって蠢いている。さまざまな色はさまざまな色だが、すべて地味な保護色系で統一されている。まるで地面や樹の表面や枯れ葉で覆われているように見えた。
そして、自称スーパーハッカーのブライズ様は気付いてしまった。それが、何であるか。
アブ。アブラムシ。アリ。イナゴ。イモリ。カ。ガ。カゲロウ。カタツムリ。カナブン。キリギリス。クツワムシ。クモ。コオロギ。シミ。セミ。ダニ。チョウ。テントウムシ。トカゲ。トンボ。ナメクジ。ノミ。ハエ。ハサミムシ。ハチ。ヒル。ヘビ。ミノムシ。ミミズ。ムカデ。ヤモリ。
わきわきと乾いた音を立てて、あるいは、ぬたっと湿った音を立てて、天井を覆い尽くしていたありとあらゆる生き物が男の上に降り注いだ。
自称スーパーハッカー、ブライズ様はその瞬間にある噂を思い出した。
ヒトのヌシのサーバーに手を出したハッカー達は、何故かその後ネット活動を引退する。
そうか、こういう事か。
そう思いながら、ついに耐えきれず母親に助けを呼ぶために叫び声を上げた。