第9話 膝から下 4
数匹の猿とともに純が杉の樹から降って来た。猿達は鈍い音を立て背中から地面に叩き付けられ、純は両方の脚でしっかりと地面を踏み付けて限界まで縮めた全身のバネを活かして筋力を爆発させてすぐに立ち上がり、戦闘体勢をとり周囲を確認した。
猿達はうずくまり痛みを存分に味わっている。そう簡単には動きだせないだろう。そして、それを見下ろしている男が一人。猟銃を肩に担ぎ、上下黒のジャージ姿の男。兼之とリンドウの姿はない。
「なんだあ、おまええ」
猟銃の男が大袈裟に首を傾げる仕種を見せた。
純は応えなかった。迷いもしなかった。短く鋭い息を吐き捨てると一瞬で猟銃の男との距離を詰める。握りしめたナイフの柄で猟銃の男の腹を狙う。猟銃の男は慌てて猟銃を取り落として両腕で腹をかばった。その重ねた両腕に拳を打ち付ける純。
「残念」
その拳には力がこもっていない。とん、と相手の両腕を固定させるように軽く押すだけで、くるり、拳をひっくり返す。そこにはぎらりと冷たい光を放つナイフの刃。猟銃の男はナイフを躱すために両腕で純の拳を掴むしかなかった。男の意識を拳とナイフへ集中させる。それこそが純の狙いだった。
「さらに残念っ!」
猟銃の男の懐へ深く踏み込んだ利き脚の膝を男の太腿へと叩き込む。膝の骨が太腿の筋肉をざっくりとえぐる手応え。純は反動で膝を戻し、すぐに地面を強く蹴り込んだ。狙うは、脚へのダメージで姿勢を崩した男の首。きしむ程に腰を捻り、しなる筋肉を十分に弾かせてすねから脚の甲にかけて広い範囲で無防備な男の首に蹴りを入れた。
野球帽が飛ぶ。茶色の髪の毛を暴れさせて男はもんどりうって後ろに倒れ込んだ。純は脚を高く振り抜き、その場で華麗に腰を回転させて再び姿勢を低く落として戦闘体勢を整えた。
「さて、まだ意識があるなら、あなたがどこの誰か聞きましょうか」
右手の逆手に構えたナイフを突き出して、純は男が動きだすのを待った。相手の戦意と意識を根こそぎ刈り取った手応えはあった。山伏として鍛え上げられた純の蹴りをまともに食らったのだ。訓練されていない人間なら顔面の骨も砕け、何日も目が覚める事はないだろう。
しかし、冷たい地面に大の字で横たわる男は違った。
湿った笑い声を立てている。
意識を失うどころか、だらりと歪んだ顎からくぐもった笑い声を漏していた。
「……まだ笑える元気があるんですか」
「はあっはあはああ、おまえ、強いなあ」
大の字のまま、首だけかくんと起こす。純の蹴りで顎が砕けたか、開きっぱなしの口からは血が泡となってだらだらと流れ落ち、それが弾ける音が笑い声に混じって純の耳まで届いた。
「ただの銀行強盗犯じゃなさそうですね」
純は戦闘体勢を解かない。
樹から飛び降りた瞬間から違和感は感じていた。そこにいるはずの兼之とリンドウの姿はなく、禁忌の山にいるはずもない一般人が猟銃を肩に担いで佇んでいた。この男が真樹士の言っていた銀行強盗に違いない、瞬時に判断し攻撃に転じたのだが、相変わらず、この周囲に人の気配がない。この男が目の前に立っているのに、人の気配がまるでしないのだ。
目の前の男は決してヒトではありえない。もっと、邪な何かがあの中に潜んでいる。純の闘争本能が囁いている。
男がのそりと起き上がる。おおよそ人とは思えない動きで。両腕をだらりと垂れ下げたまま腹筋と背筋だけで上半身を起こす。純の重い蹴りを食らった首は力なくうなだれ、しかし充血した目で純を睨み付けている。下半身が盛り上がる。徐々に男の姿勢が立ち上がっていくが、純の膝蹴りによって壊された太腿の筋肉が言う事を聞いてくれずに男はよろよろと立ち尽くす。
「脚まあで、壊してくれやがてえ」
歪んだ顎でせせら笑う。両手を顎に持って行き、なんとか口を閉じようと持ち上げるが血の泡が吹き出るだけでだらしなく舌が顎からこぼれ落ちる。
「うまあくしゃべえれねえだろろお」
動かない純にねっとりとした視線を絡み付かせる。
「せえっかくうヒトのを身体見つけたあてのにい。壊れちまたあ。おまえをお、食ったらあ、強くなれるかあ」
その言葉で、純は男の正体を見抜いた。人の皮を被った猿の主だ。
「なるほど。銀行強盗犯でなくて、サルのヌシ様でしたか」
逆手に持っていたナイフを順手に構え直す。さらに深く腰を落し、真正面から強い視線を打ち付ける。
「だとしたら、僕も全力であなたを仕留めなければならないですね。普通のヒトならばサルのヌシには適いませんけど、あいにく、僕は普通のヒトではないので」
じゃりっ。かかとを上げ、つま先に力を込める。土がえぐれる。
「僕はこの山の山伏です。山の秩序を正すため、あえてヌシ殺しの禁を犯します」
猿の主は純の言葉に静かに耳を傾け、ゆっくりと自分の両手に視線を落とした。そこにあるのは猿の手ではない。人の手。長く細く、力強い指。道具を使いこなせる器用な十本の指。
「けこう、手応えあたあのになあ」
ふっと張り詰めていた空気が緩んだ。ぬるい風が純の前髪を揺らす。
「いま、おまえとやり合うのはあやばいい。もとおヒトを食うて、それからヒトのヌシ様も食うて、それからおまえの皮をもらう。中身はおいしく食う」
地面にうずくまっていた猿達が息を吹き返した。純を避けるように遠回りに、顎が砕けて血の泡を吐き出しながら純に背中を向ける男の足元によたよたと歩み寄る猿達。
「食ってやるからなあ」
男と猿達は森に消えて行った。それを見届けて、純はやっと深く呼吸をする事ができた。肺に積もった重く湿った吐息を吐き捨て、森のミドリの匂いがする空気をいっぱいに溜め込む。
「はあ、やばかった……」
独りきりになり、つい、本音が漏れる。痺れる指先でナイフを腰に戻し、猿の主に握られた片腕の袖をまくりあげた。くっきりと、四本の指の形に皮膚が破けて、ぷつぷつと血が滲み始めていた。純の攻撃があと一呼吸遅れていたら、枯れ枝のようにいとも簡単にへし折られていただろう。
「真樹士さん、相当やばい事になってますよ」
自分自身に言う。猿の主はかなり力を付けて来ている。山の天秤を覆そうと、さらに人を襲うだろう。しかし、下位の猿が上位の人を襲うなど、普通の山の状態ではあり得ない事。それこそ禁忌だ。山の神が許さない。だが、現に猿の主は先代の人の主を食らっている。銀行強盗犯を食らっている。
とにかく、今は山小屋まで避難して、他の山伏達と合流しなくては。純は袖を戻し、男が落として行った猟銃を拾い上げた。弾を確認する。
「撃ってはいない、か」
リンドウと兼之は無事だろうか。
「ジュンさん、あの、大丈夫?」
と、純の心配を感じ取ったのか、森は柔らかくか細い声を聞かせてくれた。
「リンドウ?」
振り返る。秋咲きの桜の影に、真っ黒い髪を斜めに顔にかけたリンドウがいた。顔色は色を失ったように真っ白く、細い身体がなおの事頼りな気に見えた。
「よかった。無事だったんだね」
兼之の姿を探す。
「僕も大丈夫だよ。……カネユキさんはどこ? 一緒にはいなかったの?」
兼之の姿を探せば探す程、森は深い海に沈んだように静まり返り、純は言い様のない淋しさに包み込まれた。どうしようもない違和感が込み上げて来る。いつもとは何かが違う空気が膜を作り彼の皮膚を覆い尽くす。
「カネユキさんは、……あそこ」
リンドウが細く白い指で地面を差した。純にはずっとそれが理解できないでいた。猿の主と対峙していた時からそれは目に入っていたはずだ。しかし、彼の理性がそれを認めてはいなかった。あってはならない物として認識し、それを純自身の思考の枠から追いやっていた。
その、二つの塊を。
そこには、見覚えのある靴を履いた人の膝から下の部分だけが、二本並んで立ち尽くしていた。