第9話 膝から下 3
兼之はリンドウの言葉で初めてヒトの気配に気が付いた。誰もいない部屋なのにテレビが付いていたような、耳の中でちりちりと聞こえない音がこだまする感覚に似て意識する事によってかえって聞こえにくくなる、そんな気配が森の中に潜んでいる。
「リンドウ、少しだけ桜の影に隠れていてくれるかな?」
木々が騒がしい。樹の幹にではなく、すべての枝、すべての葉に目玉が埋め込まれて、その目玉がこちらを睨み付けているみたいに頭上から冷たい視線が降り注ぐ。葉と葉が、枝と枝が擦れあうかすかな音が重なりあう。岩肌に濡れた落ち葉が叩き付けられる湿った音が耳の裏に響く。
純はどうしているだろうか。兼之は周囲を、頭上を、ぐるりと見回す。リンドウは兼之の言葉に従って桜の幹の影に姿を隠したようだ。
一際強く打ち付けて来る視線。兼之の真正面の森が音を立てずに揺れる。歩み来る禍々しい存在を森が忌み嫌うように木々が道を作り出した。
そこに一人の男が立っている。
「やあ……。ヒトって、すごいな……」
上下黒いジャージ姿の男は穏やかな口調で兼之に語りかけて来た。毎朝の散歩で顔見知りになったジョギング仲間の挨拶のようなリズムだが、あまりに悪意に満ちた音を絞り出す喉の動きに、兼之は自然と後ずさってしまった。
「……コトバ。ヒトがヒトであるには、コトバってのが大きいな」
片手には猟銃。もう片手に何かが入った底の形が変形したボストンバッグ。頭にはメジャーリーグの野球帽を目深にかぶり、無精髭を生やした細い顎がやけに深く印象に残る。そして、それ以上に違和感を感じさせるのが、異様な程に真っ赤に充血した両目。その男はくいとあごを突き出して、赤い両目で沈黙を続ける兼之を睨み付けながらゆっくりと一歩ずつ近付いて来る。
「形、色、匂い、味。それらとは違う、表現ができる言葉。ああ、言葉が使えるようになって、一気に頭が冴えて来たんだ」
「何を、言っているんだ? 君は何者だ?」
兼之が一歩下がる。そして男は二歩寄る。二人の距離は徐々に縮まっていた。
何故この深い森に一般人がいる? 現在の山は禁忌状態、人の主によって立ち入りは禁じられているはずだ。猟銃を持っているとは言え、狩りのためにこの神聖なる山に立ち入るのは言語道断だ。じゃあ、この目の前に立つ男は何者だ?
兼之の背筋に冷たい汗が滴り落ちる。濡れた足音が背後に落ちる。この圧迫感、この閉塞感、この恐怖感、山に何が起きていると言うのか。
「いままでわからなかった事が、物を食べるみたいに理解できた。ヒトはずるいな、言葉とはこんなに素晴らしいものだったのか」
兼之は今朝のラジオのニュースを思い出す。山のふもとで銀行強盗がいまも捕まらずに逃げている事を。禁忌の山に踏み入っていたのか。
「さっきから、君は何を言っているんだ?」
兼之が脚を止める。
「せっかくヒトの言葉が使えるようになったから、言葉を使っているだけだ」
男も止まる。重く濡れた布を柔らかく叩き付けるような足音も止む。血を流しているかのように充血した目。大きく口を開けて吐息とよだれを吐き捨てて、ぱくんと歯茎を見せて空気をかじるように閉じる。
「オマエ、ヒトのヌシの山伏だろう? わかってるんだ」
男が猟銃を持つ片手を振り上げた。兼之は電気が全身を走るように緊張したが、その男は猟銃の銃身を掴んでただの枝切れでも振り回すかのように兼之を指し示すだけに猟銃を使った。
「今までわからなかった事がわかるようになる。それってすごくいい事なんだな」
「何を言っているのかわからないな。用がないならどこか他の土地に行ってくれ」
兼之を包み込む冷たい緊張感はいまもなお続いている。この違和感はなんだろうか。目の前のこの猟銃を持った銀行強盗からだけでなく、背後からもさざ波のように黒くて手触りが違う空気が流れて来ている。その背中の冷たさに、初めて兼之はさっきまで耳にこだましていた音の正体を思い出した。
ヒタヒタだ。
背後に潜む山の妖怪。濡れそぼった足音だけを響かせる、決して振り向いてはいけない妖怪。そいつが、いままさに、背後にいるのか。
「おお? やっと気付いたか。俺はずいぶん前から知っていたぞ」
猟銃の男は大きく歯茎を見せながらケラケラと乾いた音を立てて笑った。
迂闊。
目の前に現れた異様な男に気を取られすぎたせいか、自分自身に襲い掛かっていた恐怖の本質を見失っていた。この男の異常さが恐いのではない。自分が怖いと思う事がこの男の恐ろしさを引き立たせ、その怖さがどこからやってきたものか見定める事を忘れて目に見える事象に頼り過ぎていたのだ。本当に恐れるべき相手は後頭部にいる恐怖を植え付ける妖怪であり、この目の前に立つ男ではない。
「こいつをどうすればいいか、ヒトのヌシのじじいが知っていたなあ。だから、俺も知っているんだぜ」
猟銃の男が歯茎を見せたまま言う。自分の後頭部の辺りを猟銃で差し、空気を吐き出すようにまた笑い出す。
ヒトのヌシ。確かにそう言った。兼之は真樹士の事を思い浮かべたが、すぐにそれは違うと言う事を思い知った。
理解できた。目の前に立つこの男の正体が。
「サルの、ヌシか?」
真樹士が言っていた。先代の人の主は猿の主に食われて死んだ。猿の主は人になるために人を食った。そしていま、目の前に人の皮をかぶった猿の主が立ちはだかっている。
「こいつはよお」
猟銃で後頭部を差したまま言う。
「姿を見てしまうと襲いかかってくるんだろ?」
猿そのものの顔が歯茎と牙を剥き出して笑う。
「じゃあ、他の奴がこいつを見るとどうなるんだろうなあ?」
スローモーションのように、兼之の目の前でその男はゆっくりと身を屈めた。兼之に最も無防備な後頭部を見せ付けた。
兼之は見た。
そこにはぽつんと、空間に染みのように黒く歪んだ丸い塊があった。堅そうには見えない。でも、そんなに柔らかそうにも見えない。片手で握り隠せるくらの大きさの染みが水にとろけるように揺れている。波紋が広がるみたいに黒い染みは大きくなり、どす黒い表面にさらに二つの黒い点がこちらを見つめているのがわかった。瞬間、薫製のゆで卵が割れるように柔らかく亀裂が入ると、いつのまにかそいつは、兼之を飲み込める程大きな口を開けた巨大な空間の染みになっていた。真っ黒く真ん丸い点が最後まで兼之の硬直した顔を見つめていた。