第9話 膝から下 1
「おわっと」
突然、真樹士が聞いた事もないリズムの声を上げた。向日葵も現治朗も修司も、何事かと鹿の角が生えた鬼の仮面を装備した人の主に振り返る。真樹士は目にしただけで痒くなりそうな白と黒のしましま模様の蚊を追い払うように両手をはらはらと振り回していた。
「どしたの? マキシくん」
向日葵が思わず真樹士の肩に手をおいて尋ねた。
「んいや、なんでもない」
真樹士のヘッドセットに投影された、見た事もない格好で寝そべる向日葵の裸体の画像。幸いにも彼のヘッドセットと向日葵達が視ている液晶ディスプレイとはダイレクトにリンクされていない。向日葵が異常な反応を示さない所から推測すると、この画像は真樹士のヘッドセットのみに割り込みをかけられたのか。
「この忙しい時に、邪魔すんなよな」
心当たりはある。ここ最近ちょくちょく山のデータベースを覗きに来ているハッカーだろう。向日葵の画像をわざと盗ませてプレゼントしてやったってのに、こんなコラージュを作りやがって。しかも、それを俺に見せつけるとは、いい度胸を通り過ぎて単なるお調子者か。
「ゲンさん、中継アンテナを操作して、なんとかあの谷間に指向性電波を飛ばせないかな?」
山には全体的に携帯電話が通じるよう、そして峰々ごとに階層ネットワークを構築するために中継アンテナを張り巡らせている。その一部はワイヤーによってモノレールの要領で移動が可能となっている。それに強い指向性電波を送信することで山全体を電波的にカバーしていた。中継アンテナの位置を変えればなんとか純達とも連絡がつくはずだ。
「そうだな、やってみる。なんて連絡する?」
「ヒタヒタと強盗に気を付けてって。リンドウからも目を離さないように」
真樹士は両手をやたら早く動かし始めた。高速手話選手権の練習のように、せわしなく両手が交差し、何か証券や株の取り引きをしているようにも見える。しかし、向日葵が見る限り液晶ディスプレイに何の変化も見当たらない。
「シュウジさん、みんなが帰って来たらすぐにフル装備で動いてもらわなければなんない。悪いけど、みんなの装備の準備と、おにぎりでも作ってやってもらえるかな?」
「いいよ、腹も空かしているだろうな」
真樹士は現治朗と修司が部屋から出て行く気配を感じ取った。しかし、もう一人、一番この場にいて欲しくない人物の気配が残っている。
「ヒマワリはお手伝いしないの? おにぎりは得意技でしょ?」
「あ、うん。……いいけど、さっきから何慌ててんの?」
さすがに気付かれているか。
「こうして見るとヒマワリってきれいだなって思って」
「はあ?」
「落ち着いたらこのヘッドセットかぶらせてあげるから、とりあえず今はシュウジさんの手伝いをお願いできるかな?」
「……うん、わかった」
どこか釈然としない響きの声。女のカンで何か不自然さを感じ取ったか。やや間を置いてからぺたぺたと小さな足音が遠ざかり、扉を閉める木の音がする。
真樹士が視ているヘッドセットの画面は、視界2メートル前方の距離に約80インチの画面が広がっているように見える。そこに横たわる生まれたままの姿の向日葵。他の誰にもこの画像は見えていないとしても、どことなく背徳的な匂いがしてどうにも落ち着かない。
「とりあえず、保存しとくか」
真樹士はこれはこれでこっちに置いとく事にして、純と連絡が取れるまでに片付けなければならなくなった仕事に手を付けた。
山のふもとの駐在所へネットを繋ぐ。新人警官の山脇が仕事が早い優秀な人間ならばすでに向こうで県警のデータベースともネットされているはずだ。そして同時にこの向日葵の画像を送りつけてきたルートを割り出す。せっかく自由に泳がせてやっていたのにこんな大胆な悪戯をしかけてくるとは。きついお仕置きをしてやらないと。
「何がスーパーハッカー、ブライズ様参上だよ。放置プレイに気付けっての」
真樹士の視界は複雑に切り分けられていた。テクスチャーが貼られた3D画像にリアルタイムで山の映像が重ねられている。繰り返し予想移動ルートの軌跡を描いている数字データは三つ。画面隅っこにはアクセス履歴が次々に処理されていく小さなウインドウが開く。そこへ視点を置くとウインドウは拡大されて、直にスーパーハッカーブライズの元へと導いてくれるだろう。
と、画面中央に新しいウインドウが開いた。見覚えのあるふもとの駐在所の座敷きが見える。山脇が慌ててパソコンの前に座り、カメラの角度を調整しているのか彼の指先が画面を覆った。
『は、はい、呼びましたか?』
息が弾んでいる。
『うわ、何ですか、そのヘルメット。かっこいいっすねー』
さらに息が弾む。
「いいだろ。ヘッドマウントディスプレイだ。あとで被らせてやるから、これから送るデータを解析して欲しい」
銀行強盗犯の携帯電話情報と、割り出したブライズのアクセスポイントをメールに添付する。同時に、ちらりと、視点でいくつかのアイコンを操作して向日葵のコラージュ画像を画像処理ソフトにかける。
『あー、きましたきました。これは何のデータですか?』
山脇の声に反応して彼が映るウインドウが大きくなるが、真樹士はそれを画面左上に小さく固定した。山の3D映像で純達の位置情報の予想地点に変化がない事を確認してから、向日葵の画像の解析を始める。
「一つ目は銀行強盗犯と思われる人物の携帯電話情報だ。山のアンテナにひっかかったんだ。20分くらい前までは移動していたが、今はちょうど谷間にさしかかったせいかアンテナの圏外にいる」
『見つけたんですか? さすが人の主様っすね』
画像をカラートーンの色調のかすかな差異から分析し、基の女性の画像と、貼付けられた向日葵の部分とを分離する。
「ああ。県警のデータベースと電話会社に問い合わせれば持ち主がわかるだろ? そうすれば犯人の身元も割り出せる」
『早速手配します。で、もう一つは?』
向日葵の首から上の画像を消去。みだらな格好をして寝そべった何かの雑誌かどこかで見覚えのある女性像ができあがる。女性の趣味に関しては、真樹士はスーパーハッカー、ブライズ様を肯定してやる事にした。
「山のサーバーにちょっかいだしているハッカーのアクセス情報だ。電子情報保護法違反で書類送検も可能だけど、ちょっとお仕置きしてやりたくてね。こいつの個人情報の一切合切をもらうよ」
『ええ? やばくないっすか?』
山脇がそんなわかりやすいリアクションを取っている間に、真樹士は強引に繋いだ駐在所の端末から県警にネットし、山脇のパソコンに送り込んだアクセス情報に関するブライズの個人情報をそっくり戴いていた。
「大丈夫。もう終わった。銀行強盗犯の身元が判明したらこっちにもメールしといてくれ。頼むぞ」
何かを言いかけた山脇の顔がウインドウごと閉じる。真樹士は胸の中の澱んだ空気を一気に吐き捨ててヘッドセットを脱いだ。網膜に投影される映像は容赦なく脳に大量の情報を送りつける。見たいものだけを見て、重要度の低いウインドウを視覚的に無視するよう訓練しないとあまりの情報量に仮想酔いしてしまう。仮想酔いがひどくなればヘッドセットを脱いでいても視界があまりに狭く感じて真っ直ぐに歩けなくなってしまう。
「急に忙しくなってきたな」
真樹士はまだ冷たいペットボトルのウーロン茶を一気にあおり、両方の親指でこめかみをほぐしながら窓を開け放った。やや温度の低い乾いた風がふわりと流れ込む。秋の風の匂いは熟成されたワインと似て土の香りがする。
人の主は秋風を指に絡め取るように腕を振るった。すると、どこからともなく一匹のトンボが旋回しながら舞い降りてきた。
「頼むよ、ムシのヌシ様」