第8話 冷えたペットボトルとぬるいペットボトルと
生きた心地がしない。
彼女の人生においてそんな慣用句を実際に使った事はなかった。大きな怪我も病気もトラブルもなく、平々凡々に暮らして来た向日葵にとって、今この時間はまさに生きた心地を実感できる瞬間だった。
山伏達と暮らす山小屋の扉をくぐる。まだ数日しか生活していない我が家。それでも、慣れた木の匂いのするこの空間に身を置くだけで気持ちの有り様が違う。
生きて帰ってこれたんだ。
まだ山に入って数日。それなのに、自分が生きて再び山小屋に戻れた事がこんなにも嬉しく感じるだなんて。向日葵は改めてここが異世界なのだと理解した。ここは、ヒトの住む世界ではない。ここは山なのだと。
妖怪ヒタヒタを追い返した後、山伏長の現治朗が側にいると言うのに背後が気になって気になって仕方がなかった。風にひるがえる木の葉のかすかな物音でさえヒタヒタの濡れた足音に聞こえてしまう。山のルールが思い出される。背後から声をかけてはいけない。確かに、ヒタヒタを知っている以上、背後から声をかける事、そしてかけられる事が場合によっては命に関わる事だと理解できた。
真樹士の話では、ヒタヒタは一度撃退してしまえば向こうの方から怖がって襲い掛かってこないらしい。そもそもヒタヒタが地上に現れるのは大きな地震が起きた時とか、何らかの災害や災厄が起きた場合くらいだとか。
それでも自分が生きている証である落ち着かない呼吸、早い鼓動、背中を伝う汗、それぞれを感じる事が嬉しく思える。つい一週間前までの、自分は明日も当たり前に生きていると言う安全が懐かしくさえ思い知らされた。
留守番の修司が煎れてくれたお茶をすすっていると、木漏れ日の溢れる窓から見える風景が一瞬だけ暗くなり、大きな羽音とともに真樹士が空から降って来るのが見えた。
「って、マキシくん?」
真樹士はステップを踏むようにとんとんっと前によろけながらもなんとか踏み止まり、空に向かって軽く手を振って山小屋の入り口に向かって来た。向日葵は何事かと窓から身を乗り出して天空を仰ぐ。空には大きな鳶がくるりと円を描いているだけ。
「みんな無事かっ?」
真樹士は部屋に飛び込むなり叫んだ。
「ゲンさん、みんなと連絡は取れてる?」
彼は向日葵の姿を見つけると少しだけ表情を緩めて、彼女の頬をそっと掌で撫でた。向日葵は右手に拳を作って見せて微笑んでやる。
「よくやった。ヒタヒタを殴った女はおそらく世界で君だけだよ」
頬から暖かな掌が離れる。真樹士は現治朗に向き直り、羽織っていた革のジャケットを脱ぎ去る。長袖のTシャツをそでまくりしながら現治朗の言葉を待った。
「テツヘイ、サタロウ、タクヤの組とは連絡が取れた。あと1時間もすれば戻って来れるらしい。しかし、カネユキ、ジュン……」
少しだけ言いにくそうに現治朗の言葉が濁る。
「それとリンドウの組とはまだ携帯が繋がらない。どこか、谷間にいるのかも知れないな」
「……リンドウ? 彼女が山に入っているのか?」
真樹士の声が曇る。
「ヒタヒタが山にいるって時にお散歩か。カネユキさんとジュンが一緒だから大丈夫だとは思うけど、嫌な胸騒ぎがするよ」
「すまない。止めるべきだったんだろうけど、リンドウ自身が自分が何者なのか思い出す何かのきかっけになればと思って……」
「いいって、ゲンさんがよしと思ってやった行動はそれでよし。問題は、それを知った今、俺達が何をすべきかだよ」
真樹士は自分の父親程の年齢の男に軽く説教をするように人差し指を振るった。現治朗は現治朗でそれに違和感を覚える事なく素直に頷く。
「シュウジさん、冷えたペットボトルあればなんでもいいからちょうだい」
真樹士はぱんと大きな音を立てて自分の頬をはたいた。
「ヒマワリ、最先端の山を見せてやるよ」
「オンラインモードでシステム起動」
真樹士の声に反応し、寝室の彼のパソコンが小さな何かを高速回転させる音を立ててディスプレイに明かりを灯した。ぱきゅっとペットボトルの蓋を捻り、真樹士は一息で三分の一ほどよく冷えたウーロン茶を喉に流し込んだ。
「システムチェック。ああ、こんな時にまだ覗いていやがるか。……ダミーも起動。宇宙人を探してくれ。あとでおしおきしてやる」
妙に聞き慣れない言葉に思わず顔を見合わせる向日葵と現治朗と修司。宇宙人を探す? おしおき?
「アクセスポイントのRの1から8までサーチ」
真樹士の声に応えるようにパソコンは小さな電子音を奏で、液晶ディスプレイ画面は波打つ海のようにその色を変えて行く。宇宙人に関してつっこみをいれとこうかと考えていた向日葵は、真樹士の音声入力を邪魔しないよう自然と息を潜めてしまっていた。
真樹士は山伏達の装備の一つ、センサーがまるで鬼の角のように伸びる仮面を取り出した。ただ、山伏達のように顔面部分に数字は書き込まれてはいない。そこには真樹士がマジックで書いた文字「MASTER」。
「ヘッドセット、リンク。センサーグローブとの誤差を修正」
鬼の角のヘッドセットを左右に少しだけ振るってすっぽりと頭に覆う。そして手探りでテーブルに置いたグローブを探し、銀色の鋲のような突起とそれぞれの指にシルバーのリングをはめたようなセンサーグローブをぎこちなく装着した。
「先にグローブをつければいいのに」
思わず呟いてしまう向日葵。
「うるせって」
ベートーベンの力強い楽曲をいままさに奏でようとするコンサートピアニストのように真樹士は中空で両手を大きく開いた。それに呼応してディスプレイが明滅する。真樹士のヘッドセットの視界も落ち着いた深いグリーンに染まる。
「俺の視界とディスプレイの画面表示は違うけど、ディスプレイは第三者に分りやすいように表示されてるから、何か気付いたら何でも教えてくれよ。俺に気付かない何かがあるのかも知れない」
液晶画面は細かいワイヤーフレームの洛朱九崚を映し出していた。テレビで見た事がある九つの峰の全景をよく表現できている。
「リサーチ。ジュンの携帯の電波だ」
真樹士の両手が宙で踊る。どこか厳しい言葉の手話のように、見えない何かを手刀で斬るように鋭角に動き交差する。
液晶画面の九つの峰が分断され、一つの山の形がクローズアップ。
「三の峰だ。そんなに遠くはないな」
と、現治朗。向日葵は真樹士の手の動きを目で追い、それに連動するディスプレイと交互に見つめた。
画面のワイヤーフレームがさらに細かくなり、山肌のテクスチャーが貼付けられて半透明の3D映像へと切り替わった。幾つかの数字データが表示される。
「カネユキさんの携帯の電波も拾ってくれ」
即座に数字データがもう一つ現れる。二つとも重なる程すぐ側にある。
「十五分前まで電波が拾える場所にいたのに、ちょうどアクセスポイントの死角に入っちゃったか」
数字データをよく見ると、GPS表示の緯度と経度、そして時刻表示のようだ。確かに今からちょうど十五分前の数字。
「ゲンさん、この辺に何かあったかな?」
真樹士の手話のような両手の動きが少し丸くなる。緩やかなカーブを描いて大きなツボを磨いているような手付きになった。するとディスプレイに新しいウインドウが一つ現れて、山間の映像が表示された。
「さあ、単なる谷間だとしか思えないな」
「だよね」
山に設置された定点カメラのリアルタイムでの映像がズームされる。映像の角度は違うが、メインウインドウのCGと同じ場所を映しているとよくわかる大きさに拡大された。
「……ここは、秋咲きの桜だ」
修司が思い出す。確か、ジュンとリンドウがカネユキに秋に咲く桜の事を聞いていたはずだ。
真樹士の両手が居酒屋ののれんをくぐるように動いた。リアル映像の画面がぴらりとめくれるように映し変えられて別な角度からさらにズーム。真樹士は素人カメラマンがよくやるように両手の人差し指と親指でフレームを作り顔の近くに持って来ていた。
「マキシくん、その手の動きにはどんな意味があるの?」
我慢しきれなく、ずっと気になっていた事を向日葵は口に出してしまった。
「センサーグローブの動きをこのヘッドセットが拾って、俺の網膜に直接投影している画面とアイコンを操作しているんだ。モニターにはアイコンが表示されないから、俺が踊っているみたいに見えてけっこうおもしろいだろ?」
「夜一人でやってたら何か間抜けだね」
「システムの開発者としてもそう思う。最初はけっこう恥ずかしかった」
湯上がりの火照った頬を冷ますように両手をひらひらと扇ぐ。テクスチャーがさらに拡大され、カネユキとジュンの携帯の電波が動いた軌跡を現し、真樹士が片手を遠くを見やるように額に持って行くとその軌跡がさらに伸び始める。
「移動速度が変わらなければもう電波の谷間を抜けて携帯が通じる領域に出てもいいはずだけど、まだ繋がらないか。たぶん桜の所で立ち止まっているな」
携帯電波の移動速度から予想の行動範囲がテクスチャーの色を変えて表示される。しかし、時刻表時をいくら切り替えても兼之と純の携帯電話の電波は山に現れない。じっと動かないでいるのか、それとも、動けないでいるのか。
真樹士は両手でひょいと中空に何かを置く仕種をした。今メインで開いているウインドウが少し小さくなり裏に送られ、いつのまにか開いていたもう一枚がズームされる。ぴたり、真樹士の両手のグローブが止まる。
「……これはこれは。なんでこうも次から次に厄介な事になるかな」
手探りでよく冷えたペットボトルを掴む。液晶画面のウインドウが真樹士の手の動きを正確にトレースして揺れ動く。ヘッドセットをくいと持ち上げて隙間からペットボトルを口に運び、ごくごくと喉を鳴らして半分くらいまで一息で飲んだ。
「山に逃げ込んだ銀行強盗犯の話はもう知っているよね?」
ペットボトルを置く真樹士の手の軌跡通りにウインドウが動く。
「どうやら、いまジュン達と一緒にいるのかも知れない」
ウインドウには三つ目の携帯電波の予想移動図が示されていた。純の物でもなく、兼之の物でもなく、見知らぬ携帯番号が明滅して彼等の電波信号を追い掛けていた。
閉め切った部屋の空気はエアコンの力によってよく冷やされていたが、決して新鮮なものではなかった。室内の空気は外気に触れる事なく狭く暗い部屋を巡回し、またエアコンに吸い込まれて強制的に冷やされて閉め切った部屋に吹き込まれる。
小さな冷蔵庫を開ける。ぎゅうぎゅうに押し込まれた炭酸飲料のペットボトルが雪崩のように転がり落ちて来た。そのうち一本を手に取る。狭い庫内に何本も押し込みすぎていたせいか、あまり冷えてはいないようだ。
「ちっ。もっと大きいのにしてくれよ」
ペットボトルの事か、それとも冷蔵庫の事か。その男は嫌に濡れた音のする舌打ちを一つ残して苛立たしく冷蔵庫の扉を叩き閉めた。何本かの炭酸飲料がこぼれ出たまま転がっている。
「せっかくおもしろくなってきやがったのに、ちっとも冷えてねえ」
液晶画面をぐいと手前に引っぱり、ペットボトルをこじ開けて冷えてないせいかやけに甘ったるい炭酸飲料を一気に煽る。液晶画面には、遠い宇宙のどこかにいる知的生命体からのラブレターを探す民間団体のサイト。もう一つの小さなウインドウには一人の女性が海を背景にワンピースの水着姿ではにかんでいる画像。人の主のハードディスクから盗んだ向日葵の画像。
「何がヒマワリだ。何が地球外知的生命体だ。このブライズ様の目を節穴だと思っているのか?」
誰に言うとなく芝居めいた抑揚をつけた台詞を吐き捨て、ペットボトルの残りを飲み干す。そして、湿ったげっぷを一つ。
「スーパーハッカー、ブライズ様の実力を見せつけてやるぜ。待ってな、人の主様よ!」
もう一つ画像を開く。適当な成人サイトから勝手に拝借してきた画像に、向日葵の首から上を貼付けたコラージュ。
「いま、伝説が始まる!」