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第7話 ヒタヒタ 3

 貝のようにまぶたを堅く閉ざす。しかしそれで視界が完全に暗闇で埋め尽くされる事はない。陽の光がまぶたを透かして網膜をかすかに照らす。

 やがてちかちかと幾何学模様のようなパターンが粗い解像度で現れる。閉ざされたまぶたの中で焦点を合わせようとしてもするりと逃げられ、ぼんやりとしたフォーカスで幾何学模様はじわじわとスクロールし始める。

 携帯電話のノイズの向こう側に真樹士の呼吸を感じる。すぐ近くに現治朗がいる事も解る。彼が小枝を踏み折る確実な存在の音がする。そして、ヒタヒタとか言う物の怪。落ち葉が積もる柔らかい土の上を、濡れた足音を立てて向日葵の背後をうろうろとしている。それなのに落ち葉は音を立てない。

 なるほど。真樹士の言う通りだ。

 この妖怪は人を怖がらせる音を立てるだけの奴。

 だからと言って……。

「マキシくん、やっぱ、怖いわ」

『そりゃ怖いよ。昔話に登場するレベルのモノノケだからな』

 何か話していないとヒタヒタの発する音に取り込まれてしまいそうだ。そいつは今まさに向日葵の背後を右へ左へ、粘性の高い液体をスプーンですくって投げ飛ばすような音を立てている。風邪を引いた大きな犬がノドを鳴らしているような呼吸音が漂ってくる。

 恐怖。

 自分の命がナニモノかによって奪われるかもしれない。思えば、そんな静かな圧迫感は生まれて初めての体験だ。自分よりも大きな生き物が、今にも襲いかかろうと吐息がかかる程に接近している。息をするのさえ冷た過ぎる水を飲むように喉が引き締まる思いがする。

 目を閉じたまま、振り返り、このバケモノに触れる。その気になれば二秒とかからない単純な作業だ。だが、その二秒間さえ身体を自由に動かす事ができない程に恐怖が心を束縛している。

 人の想像力はなんて豊かな事か。向日葵は思い知る。

 たかがこんな小さな不快音が、目をつぶったまま背後を振り返ると言う簡単な動作さえもできない程の恐ろしい姿を脳裏に描き出してしまう。耳にまとわりつく音から恐怖を想像し、恐怖を浸透させ脚を震わせ、虚像を作り出し、自らの妄想に潰されてしまう。すべて、自分自身の想像力の仕業だ。

 そう思えば向日葵の脚の震えが少し緩くなった。結局のところすべての起因は自分自身ではないか。怖い怖いと思う心がさらに恐さを膨らませ、その膨張が心の隙間を埋め尽くして理性的に考える余力すら追い出してしまう。はち切れんばかりに膨れ上がった心ではもはやまともな判断などできやしない。まさに、幽霊の正体見たり枯れ尾花、か。

「ね、マキシくん」

『ん? なに?』

 朝食のテーブルで新聞の向こう側から聞こえてくるみたいな、わざとらしく、しかし穏やかで暖かみを持った声。その暖かさに触れ、向日葵の心の中で何かが吹っ切れた。

「なんか、私、ムカついてきた」

『……なんで?』

「濡れた靴下で廊下を歩き回るような奴に、何で私がこんなにビビらなきゃなんない訳?」

 声にリズムが生まれる。そうだ。怖かったら恐怖を溜め込まずに吐き出せばいい。声にして胸から外にばらまいてしまえばいい。暗い夜道、バカみたいに歌を歌って帰るように。

「そうよ。なんでこの私がビビらなきゃならない訳さ?」

『あ、いやー、そんな事俺に言われても、ねえ?』

「目をつぶったまま、コイツに触っちゃえばいい訳よね?」

『そ。ヒタヒタは自分を畏れない奴にはからきし弱い、町のチンピラみたいな奴だからな』

 利き腕の右手に持っていた携帯電話を左手に持ち変える。真樹士に話しかけていくうちに恐怖に縛られて強張った心の形がほぐれて緩む。凍てついた気持ちが溶けて柔らかく弾む。

「殴っちゃだめ?」

 右手を開いて閉じてニギニギとし、きゅっと小さな拳を作り上げる。

『……あー、いやー、聞いた事ないけど、いいんでない?』

「ありがと」

 ふう、と大きく胸の中に溜まった最後の恐怖のかけらも吐き捨てる。バケモノは今まさに向日葵の後頭部辺りで舌舐めずりをするような、みずみずしい果物を口をすぼめてすすり食べるような音を立てている。

 いい子だから、動くなよ、ヒタヒタちゃん。

 向日葵の心は決まった。

 落ち葉の上、一歩強く踏み込んだ。かさりと乾いた音が森に吸い込まれる。踏み出した右脚に体重を乗せ、膝を少しだけ曲げる。左脚は太腿をやや前傾姿勢の胸につけるまで上げる。くるり、勢いよく振り返る。堅く閉ざした瞼に太陽のまぶしさが溶け込み、そこにいるであろう影の朧げな輪郭を描き出す。

 そこにいるのね。

 振り上げた左脚を降りおろす。落ち葉が弾け飛ぶ音。森の土の柔らかいけれども堅い感触。胸を張るように反り返った上半身が矢を射る弓みたいに弾力を取り戻す。しなるムチを振るうように、右腕で、打つべし!

 生暖かいぬるま湯で膨らませた水風船に触れたような、張りのある膜に握り拳が包み込まれる。その途端、ぱちん、とシャボン玉が耳元で弾け破けるようなかすかな音が聞こえ、拳にまとわりつく生温い感触が消え失せる。それと同時に心の中に清々しい風が吹いてくる。重苦しい青紫色だった思考の空間がまるで太陽の光に照らされるようにオレンジ色が溢れてくる。ひなたぼっこしている猫の丸っこい匂いがする。

 向日葵はしばらく右ストレートを打ち込んだ姿勢を崩さなかった。心地よい余韻を十分に楽しんだ後、ぱちっと目を開ける。さっきまでの明るい森の小道があるだけで、恐怖の素となった怪しい物音の気配はどこにもない。

 一足先にヒタヒタの呪縛を打ち破り、じっと彼女を見守っていた現治朗と視線がぶつかった。にこっと、握り拳を解いてピースサインと笑顔を作る向日葵。

 現治朗は思った。

 なるほど。人の主がパートナーとして選ぶだけの事はあるな。

 

 真樹士は携帯電話をぱくんと閉じて、すっかり温くなったお茶を一気に煽った。

「どうなったんですか?」

 山脇は真樹士の言葉を待たずに訪ねた。

「なんか、やばそうな雰囲気でしたけど」

「うん、とりあえずの危機は回避できたっぽい。ただ、山が異常な事態に陥っているってのはこれで決定的だ」

 真樹士は湯飲みをテーブルに戻して立ち上がり、駐在所の窓から山の方を見やった。山脇もつられて山を見る。緑色をしたその偉大な姿は悠然とそこにあり続けているが、人の主の言葉が山脇の心に重くのしかかり、禍々しい気配を拭い去る事ができない。

「ヒタヒタって言う厄介な妖怪が出現したみたいでね」

「ヒタヒタ?」

 山脇は真樹士の言葉を繰り返した。その言葉の響きからはまったく姿形が想像できない。首を傾げて真樹士の言葉の続きを待つ山脇。

「災害とか災厄とか、そういった死者が多数うろついたり、うろつくような気配がする時にでる掃除屋の妖怪だ。うろつき回る死者を消して歩く妖怪なんだが、生者も見境無くデリートしまくるんだ」

「幽霊を食うんですか? そいつは」

「死者と幽霊は違うよ。死者は死者。幽霊は目撃者の頭の中で構築される像だよ。ここんこはめんどいからまた機会があったら説明するよ」

 真樹士は若い警官へのレクチャーを切り上げてベテラン警官に向き直った。

「すみませんが、俺がいいって言うまで警察の人も山には入らないでください。マジでやばい。俺でも何が起きているんだかまるでわかんない」

 真樹士は言葉を続けながら駐在所の外に飛び出した。そして何かを探すように高い空を見上げ、両手を大きく振り回した。

「山脇くんって言ったな?」

「あ、はい。なんですか?」

 真樹士は手を振るのを止めて山脇の方を見た。山脇は思わず居住まいを正して正座する。

「パソコンは使えるよな? ネットに繋いだ状態で待機していてくれ。あとで連絡するから」

 一陣の強い風が巻いた。砂利を敷いた駐在所の駐車場に砂粒が舞い上がり、もうもうとした砂煙りが駐在所の中にまで侵入してきた。思わず顔を両手で覆って目を伏せてしまう山脇。真樹士の声は聞こえ続けるが、そちらに顔を向ける事ができない。

「すみません、俺はもう行きます! とにかく、誰も山には入らないように手配を! 俺の名前使ってかまわないから」

 砂煙りが落ち着き、山脇が顔を上げるとそこにもう真樹士の姿はなかった。埃が喉に入った山脇は咳き込みながら駐在所の外に出た。人の影もまばらな田舎町の午後、開けた目の前の通りに人の主の姿はどこにもない。

「ほんとに、厄介な事になったな」

 ベテラン警官が空を見上げて言った。山脇も高い空を見やる。

 見た事もないほど大きな鳶が、その脚に何かを掴んで広い大空に優雅な弧を描いていた。


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