第7話 ヒタヒタ 1
山際の色が変わった。山伏長の現治朗は空を見上げて白髪混じりの短い髪をかきあげた。薄く色を重ねていく青い空が水面に揺れる風景のように山に滲んでいる。森の上空を巻く風が濁っているのか、風の空気を構成する物質に異質な不純物が含まれているような違和感が漂っている。
「ゲンさん、どうかしました?」
向日葵が同じように空を仰いだ。切りそろえられた柔らかい前髪が耳に垂れる。
「ん、いや。何か空が重たいなと思ってね」
現治朗は腕組みをして、しかしすぐに腕を解いて顎をさする。そしてすぐにまた腕を組む。実の娘よりも若い女性と二人きり。いったい何を話せばいいのか。真樹士も人が悪い。あいつ、知ってて仕込んだな。
「雨、ですか?」
ぐるり、向日葵は周囲を見回した。空に雨を降り落としそうな灰色の雲はなく、森の散歩道はややひんやりとした空気が足元に溜まっている感じはするが、山歩きに汗ばんだ頬に心地いい感触の風が吹いているだけだ。
「いや、風だな」
いったん会話が途切れる。そういえば、子供達とはしばらく会っていない。妻に先立たれ、親戚に娘と息子を預けて完全に山に入る事を決意したのはまだ娘が中学生の頃だったか。
その頃、山には六人の男しかいなかった。
元料理人の修司。沢歩きの釣り師、鉄兵。静かな語り部の左太郎。樹木医のくせにヘビースモーカーの兼之。現治朗。そして、先代の人の主。その後、老人の枠に足を踏み入れている山伏達に若い力の純が加わり、生意気な盛りの卓哉が山に入る。世代交代の波がこんな山にまでやってきたか。そうかと思えば、人の主が代替わりの更新をすると言い出した。新しい人の主は自分の息子程の若い男で、女人禁制の山に女房まで連れ込んで来た。確かに、新しい時代の風か。
「……ゲンジロウさん?」
気が付くと向日葵がこちらを覗き込んでいた。
「ん、いや。風が変わったかな、とね」
「なんか冷たい風ですね。やっぱりもう秋ですもんねー。それにしても、マキシくん、私を置いてさっさと町に降りちゃうなんて。欲しい雑誌あったのにな」
ふくれる向日葵。彼女のお守役を人の主から直々に仰せつかっている現治朗は一応真樹士のためにフォローをいれてやる。
「ん、いや。そんなおもしろい用事ではなかったみたいだよ。マキシくんは警察に行ったんだ。ちょっとふもとで事件があったみたいでね」
「事件って、銀行強盗の犯人ですか?」
「ん、おや、知っていたかい?」
現治朗は少し意外に思った。特に伏せていた訳ではないが、テレビもラジオもこの事件についての情報はほとんど掴んでなく、正直なところ山伏達も現状を把握しきれていない。
「猟銃を持った銀行強盗犯が山に逃げ込んだ。一応ネットで情報収集しています」
「別に隠していた訳じゃないが、そうか、ネットか。いまではインターネットで何でもできる時代なんだな」
「まだ料理は人間様が自分でしないといけませんけどね。シュウジさんのごはん、インターネットであの味は出せませんよ。まさか山に入ってあそこまで本格的なフレンチを食べられるなんて、正直びびりました」
「ん、私も驚いた。あんなの食った事なかったからな」
風がひゅるりと音を立てて現治朗と向日葵の頭上を通り過ぎた。そして、ある音が現治朗の耳に届く。水に浸した薄い布切れをゆっくりと岩肌に貼り、剥がす音。
「……ヒマワリさん。落ち着いて話を聞いてくれよ」
「……? はい?」
「山の掟の話は聞いたかい? 山の中で真後ろから声をかけられても決して背後を振り返ってはいけない」
向日葵はすぐ隣に立つ現治朗の顔に異様な緊張感を感じ取った。山のルールに関しては純にちょっと前に聞いた事を思い出す。
「落ち着いて私の話を聞いてくれ。決して後ろを振り返ってはいけない。そして、生きてマキシくんに会いたいなら彼に電話するんだ。いますぐに。後ろを振り返らずに」
真樹士は新米警官の煎れたお茶をすすった。
「いやいや、『牛の首』の話を聞いた事がないとなると、まだまだ警官として経験が足りないな」
ベテラン警官は煙草を吹かし、真樹士に付き合って山脇をからかう。
「ああ。あんな恐ろしい話は俺も聞いた事がない。山脇、おまえはまだ若いんだ。知らない方が身の為だ」
「別にいいですよ。そんな怖い話ならむしろ聞きたくないです」
特にふくれつらを作るでもなく、山脇は淡々と町の地図を広げて事件のあらましを真樹士に説明し続ける。
「話を戻します。犯人はこの地点で車を乗り捨てました。あれから8時間近く経ちます。犯人が逃げ込みそうな無人の山小屋とかありませんか?」
真樹士は思わずにやついてしまう。なかなか勤勉でまじめくさってる奴だ。純と同じく可愛がりがいのありそうな奴だ。
「ない訳でもないが、そうか、8時間か」
真樹士は駐在所の窓から重たい空を眺める。気のせいか、風の気配が違う。この荒れ始めた山の中を一般人が8時間も彷徨っている。せっかく新しい玩具を手に入れてにやついた顔も自然と引き締まってしまう。
「……あなた達に隠し事はしたくない。正直に言おう」
ベテラン警官も緩んだ頬を引き締めて煙草を灰皿に添えて、呼吸を置いた真樹士に膝を近付けた。山脇は始めから真面目な顔つきでずっと真樹士を見ていた。
「ここんとこ山の様子がおかしい。その中、何の訓練も受けていない人間が8時間もうろついている。すでにナニモノかに食われていたとしても、俺は不思議に思わないよ」
山脇はまだ記憶に新しい山での事件を思い出した。先代の人の主と身元不明の人間が一人、何か大型の生き物に捕食され死亡した事件を。
「脅す訳じゃないが、……いくら事件だからと言って、今の山の状況では警察官達の山への立ち入りを許可する訳にはいかない。彼らの安全のためだ。うちの山伏達で捜索するよ。6人しかいないからそんなに期待しないで欲しいけど」
ちょうど真樹士の言葉を打ち切るように彼の携帯電話が陽気な音楽を鳴らし始めた。視線を地図上から携帯電話へ移す真樹士と山脇。
「……奥様から。でてもいい?」
黙って頷く山脇。ベテラン警官はあとは任せたと言わんばかりに煙草をつまんで駐在所の外に視線を向けた。
「はいはいー、マキシだよ。……あ? マジ? いいか、ヒマワリ。俺の言葉をよく聞いて理解しろ。黙れ。……聞け。たとえ、何があっても、絶対に後ろを振り返るな。まずは目を瞑れ。隣にゲンさんがいるんだろ? なら安心だ。よし、目を瞑ったか? 始めるぞ」
ふうと真樹士は大きく息を吐き捨て、携帯電話を包み込むように両手で覆い、こちらを覗き込む山脇に告げた。
「悪い、緊急事態だ。ヒタヒタが現れやがった。山に逃げ込んだ銀行強盗犯はもうこの世にいないと思っていい」