第6話 地球外知的生命体と錆びた自転車と山桜と
解像度が粗い古い映画のように薄暗い部屋は空気さえも流れる事がなく、澱み腐りかけている重たい臭いに満ちていた。ポスターに塞がれたガラス窓一枚隔てた外は、夏の熱気に焦がされた空が深まる秋に冷やされ心地よいゆるぎとなって町を包んでいる。
しかし、自分の手が届く範囲にすべてが整っているこの男には無関係だった。手足よりも融通が効くコンピュータ。食べたいものは少し転がって背筋を伸ばせばそこにある。小型の冷蔵庫にはいつもペットボトルの炭酸飲料が冷えている。少しごねて叫べば何でも買って来てくれる母親もいる。彼には部屋を出て外の空気に触れる理由も必要もなかった。
「思った通りだ」
独り、誰に言うともなく呟く。
「新しいヒトのヌシ様は相当のオタク野郎だな」
いや、聴衆は彼のパソコンの側に横たわる美少女フィギュア達か。
「宇宙人の電波探ししてやがる」
もう朝日が昇る時間。そろそろ人の主も目を覚ましていったんネットを断ち、パソコンを再起動させるはずだ。侵入も潮時か。
「ハハッ、このブライズ様の手にかかればヒトのヌシのサーバーなんてちょろいもんさ」
電子の秘境、座王連峰の山のサーバーに侵入する奴などいないと油断しているのか。それとも、自分が書いた防壁プログラムが完璧だと思い込んでいるのか。人の主のパソコンは容易にハッキングができた。
まずは小手調べだ。ハードディスクからデータを数点コピーするにとどめておく。自称スーパーハッカー、ブライズ様はヒマワリと名付けられたフォルダを見つけた。
「ヒマワリ? 今度のヒトのヌシ様は花の栽培が趣味か?」
フォルダを展開。画像データだ。画像ソフト起動。さて、どんな花の画像か。
まだ太陽は座王連峰より顔を出していない。空気も夜の冷気にさらされたまま少し湿り気を含んでいる。もう夏の面影はない。移り気の早い秋が冬に変わろうとしている空気だ。
「先輩、やはり奴は山に逃げ込んだみたいですね」
まだ着慣れていない感のある制服が妙にツヤツヤとした若い警官が帽子をとって額にまとわりつく汗を拭った。いくら夜明けの空気がひんやりと肌に心地よいと言えども、夕べから自転車で走りまくっていては額に玉の汗も浮かぶ。
「まいったな、こりゃ」
ベテラン警官が頬のしわをより深くする。ポケットから携帯電話を取り出し、一つため息をついてからコール。
「あー、もしもし。私だ。厄介な事になった」
若い警官は座王連峰の入り口でもある参道脇のガードレールに鼻先を突っ込む形で停まっていた軽自動車を改めて覗き込んだ。事故を起こしたとは言え、エアバッグが膨らんだ形跡があるくらいで車内にドライバーが怪我をした痕跡はない。それどころか、ご丁寧にカギをかけて乗り捨てていったくらいだ。おそらくドライバーは無傷。確かに厄介な事になりそうだ。
「ああ、発見した盗難車は参道入り口に乗り捨ててあった。ああ、足跡は山に向かっている。普段はヒトの出入りがない山だ。身を隠すにはもってこい、ああ、ああ。……ああ、銃もない。金もない」
昨日、閉店間際の小さな信用金庫に猟銃を持った男が押し入った。ボストンバッグいっぱいの札束を要求したが、こんな田舎の信用金庫には彼のバッグをいっぱいにするだけの現金はなかった。店内の防犯カメラには嫌に軽そうなボストンバッグを軽々と片手で振り回して逃げて行く犯人の姿が映っていた。
犯人は非常線をかいくぐり、自転車の警官達から逃げ回り、ついに行方をくらましたかと思うと、明け方、参道の入り口で事故を起こした逃走車が発見されたのだった。
「おおい、山脇。私は一度駐在所に戻るよ。県警が応援をよこしてくれるそうだ」
「ぼ、僕はどうしたらいいんですか?」
よっこらせと自転車にまたがったくたびれたベテラン警官を、まだまだ新米警官の山脇はただただ見送るしかなかった。
「見張っとけ。頼むぞ」
錆びた音を立てて遠ざかる自転車。ぽつんと残される新米警官と事故った盗難車。銀行強盗犯は猟銃と少々の札束とともに山に消えた。主の許しがなければ決して踏み入ってはいけない、禁忌の山へ。
ふわり、煙はひもが解けるように森の空気に溶け込んでいった。山伏の中で唯一の喫煙者、兼之は山小屋の屋根裏部屋から通じているとっておきの場所で煙草を燻らせていた。屋根に手摺を据え、板を運んで足場を組んだ兼之の憩いの場。山小屋の喫煙所。
「おやおや、これはこれは」
煙を空に吐き、携帯灰皿に短くなった煙草を落し、ふと山小屋の屋根から二つの人影を見つける。純と、そしてリンドウだった。陽の光が眩しい時間に彼女が外に出て来たのは初めてだ。少し観察しようかとあぐらを組み直し、新しい煙草を一本くわえる。
と、純の様子が変わる。急にきょろきょろとして、真っ直ぐに屋根の上を見上げてこちらを見つけた。純は兼之と視線を合わせ、にこりとして自分の鼻を突ついた。気付いたのは煙草の匂いのせいか。山伏の中でも優秀な逸材とは言え、いったいどんな鼻をしているのか。兼之は肩をすくめて純の視線に応えた。
純はリンドウに何か話し掛けていた。森の方を指差し、そしてこちらを見上げる。兼之は純の唇の動きを読んだ。
カネユキさんは、樹のお医者さんなんだ。彼ならきっとわかると思うよ。
純もあれに気付いたか。さすが有望な若者。物事の変化に敏感だ。山伏としてまったく、山にふさわしい男だ。兼之は至福の一服を終え、二人の元へ屋根を降りる事にした。
「はるか昔、侍がまだいた頃の時代だ」
兼之は二人を従えて山の入り口へ案内した。
「侍が戦で死を迎えた時、君主がいれば立派な墓に埋葬される。しかし、広い範囲での戦の場合は、無縁仏になる事も珍しくない。戦で傷を負い、山で誰に知られる事なく死んでしまう。すると身元が解らないまま山に埋葬されるんだ」
リンドウは長い黒髪を片手でおさえ、形の整った大きな目をくるくるとさせて物珍し気に森を見回している。兼之はちらりと彼女を伺い、そして純に視線を持って行く。純は小さく頷いて応えた。
「なんか、今日は気分がいいそうなので、ちょっと森を案内しようかと思ったんですよ。そしたら、あれに気が付いて」
「ああ。身元の解らない侍を埋葬する時、墓に桜の樹を植えるんだ。春になり、緑の森にぽつんと桜の花が咲く。そこに侍が眠っている事をみんなに伝えるために。そして侍の事を供養するために」
リンドウが純の言葉を継ぐように笑顔を作って小首を傾げる。わざと乱れるように伸ばしている黒髪が風に揺れる。
「そして、あれだ。私も気付いたよ。まあ、確かにたまには聞く話だがな」
兼之と純とリンドウは一本の桜の元に立ち止まった。満開の桜の元に。
「春と秋の環境は気候的にもよく似ている。だから桜の樹が秋に花を咲かせる事だっていままでなかった訳ではない。でも、ここまで満開だなんてな」
秋空の下、桜の花びらがひらひらと風に揺れる。リンドウの前髪の上に一枚の桜色したかけらが舞い落ちた。彼女は細い指でそれを摘み、秋の高い空を眺め、兼之に淋し気な笑顔を見せた。
「この桜の樹の下にも、お侍さんが眠っているんですか?」
「かも、知れないな」