レース・ノワエ
真っ赤な髪に真っ黒な瞳。
はっきりとした声を放ったその女性は、悠然と頬笑みを浮かべてそこにいた。
その背後にヘルクが現れたことから、彼女が呼んできた人物なのだとヴェーラは知る。
未だかかる頭の霞を振り払うようにきつく目を瞑り、彼女は唾を飲み込んだ。
今しがた弟と能力の話をしていたばかり尚且つその会話に割って入られたのだ。契約者と見破られていても不思議ではない────と。
しかし予想に反し、女性は微塵の負の感情も感じさせない様子だった。ヘルクを従え部屋に入ると、ひとつしかない椅子を引き寄せて腰を据える。ヘルクがその背後に立った。
「おはよう、そして初めまして。目覚めて早々ごめんなさいね」
純黒の目を妖艶に細め、リーデルはヴェーラの視線を捉えた。
目には感情が表れるものだ。喜び、悲しみ、怒り、恐れ、そして敵意。ヴェーラは女性の目の奥底を見ようとした。が、そこにあるのは揺らぎもしない真直さだけ。
彼女の行為を知ってか知らずか、少し間を置いた後その女性は口を開いた。
「わたしはリーデル・ケイン・シッチベレン。遠慮なくリーデルと呼んでちょうだい。よろしくね、ヴェーラ」
ヴェーラは頷いた。ヘルクの時よりもしっかり「よろしく」と答える。彼女らを信じたわけではなく理解ができたわけでもないが、状況を受け入れることはでき始めていた。
そして同時に話を切り出す余裕もできていた。誰かが声を発す前に、ヴェーラは急いで場を制した。
「────あの男のことを知っているとは、どういう意味なんだ?」
二度、リーデルは首を縦に振った。次に大人らしいウインクを見せる。ヴェーラの眉がひそめられた。
「あなたは真面目で正直ね。悪いんだけど、順を追って話させてちょうだい。ややこしくなるからね」
ヴェーラは了承した。ベッドの上で背筋を伸ばす。その近くにいたジルベルトも、身動ぎをして襟を正した。
「さて─────まずは大前提から、ね」
ヘルクはやはり腕組みをしたまま、リーデルの言葉を待っていた。口を挟む気はさらさらなさそうだ。
そんな彼女をリーデルは指で指し示した。笑みを崩さないリーデルに、ヘルクはすっと目を上げた。
「──────実は彼女、契約者でーす」
友達に恋人ができたことを暴露するような軽い口調。ヴェーラは耳を疑った。
だが直後、それが正しいとすると色んなことに合点がいくことに気付いた。
「いや……なるほど、そういうことか……」
契約者としての能力を使ったのなら、ジルベルトの怪我が完治しているのも、ヴェーラ自身が回復しているのも頷けるのだ。
「ご明察」。リーデルは指を鳴らして身を乗り出した。
「ヘルクの能力は治癒。弟くんの大怪我も、あなたの傷もぜーんぶこの子が治したんだから」
自分の娘が偉業を成し遂げたとでもいうような大仰な言い様に、ヘルクは床を見詰めてため息を吐く。「それ言ったし」と口の中で呟いたのはリーデルに届かなかったようだ。
「ねぇ、ヘルクさんにリーデルさん。それだけじゃ姉さん絶対信じないから、さらっと角とか出して貰えないかな?」
唐突に割り込んだジルベルトは困ったような微笑みを浮かべていた。表情を読んだのか性分から考えついたのかは分からないが、その鋭さと的確さにヴェーラは安心感を覚える。
リーデルとヘルクは快諾した。
「それもそうね。了解よ」
「仕方ないね。りょーかいだよ」
────先に証明したのはリーデルだった。
背の側へ向けて生えた真っ黒な角は途中で軽く湾曲し、なめらかなフォルムを描いている。赤い髪の隙間に覗く目は今や、紛うことなき真紅に染まり切っていた。
自信ありげに眉を上げるこの女性の変身にヴェーラが驚いたのは当然である。
「あんたも契約者………だったのか……」
契約者なのはヘルクだけだと思い込んでいた。自らが契約者だという口振りでもなかったし、疑いたくなるような要素も無かった、ように見えた。
リーデルはくすくすと含み笑った。さながら悪戯の成功した子供のようである。
「そう、わたしも契約者。契約者じゃないなんて一言も言ってないわよ?」
「────で、あたしもこの通り」
肩を竦めて両手を広げたヘルクは確かに契約者だった。波打つ角にやはり赤の目。
信じざるを得なくなった。
「任務完了ね。ここにいる皆契約者、つまり仲間なんだから、緊張しなくてもいいのよ」
自身と弟が契約者であることが知られていたこと、それなのに妙に距離を詰めてくること。
ヴェーラは青い目に困惑を浮かべ、天井を仰ぐしかなかった。
かくしてふたりが契約者の証を解き、この話に終止符が打たれた後、リーデルは芝居がかった仕草で咳払いをしたのだった。
「────さ、茶番はこれくらいにして。本題に入りましょうか」
黒に戻った目が鋭さを帯びた。リーデルとヘルクのペースに呑まれかけていたヴェーラは己を取り戻す。
そんな彼女を安心させるかのように微笑みかけ、赤髪の契約者は優雅に足を組みかえた。
「さっきも言ったけど、今までの流れをざっと話すわね。一回、黙って聞いて欲しいの。質問には後で答えるから」
衣擦れの音が聞こえるほどの静寂が訪れた。ちらりと弟を見ると、柔和な笑みはすっかり消え、相手をじっと見詰めている。
把握出来ない状況の中、知った表情に落ち着かされる。
沈黙を了解と受け取り、語りだしたのはヘルクだった。
「買い物に行こうと思って、あたしはいつもの道を通ってたの。そしたら何か血の匂いがするわけ。用がなければ入らないような路地からね」
リーデルが頷いた。ヘルクは続ける。
「で、なんかあったなと思って見てみればあんた達がぶっ倒れてたのよ。見た目で契約者だって分かった。角は勿論だけど、ジルは大量出血で血塗れ、ヴェーラは満身創痍でぶっ倒れてる。一般人な訳が無い。咄嗟に能力使ってなきゃ、あんたら絶対死んでたよ………それだけなら良かったんだけどね」
不穏な物言い。ヴェーラとジルベルトは視線を交わした。
ヘルクが言うのは、シュリとの戦闘直後のことで間違いない。ジルベルトは背を斬られるという怪我を、ヴェーラは首を絞められるという苦痛を受けた。だがあの時、シュリに加えて数人エクソシストもいたはずだ。それを躱しての救出など不可能に近いが────ここまで考え、結論を出すのを諦めた。
ヘルクはあっさり言い放った。
「あんたらが倒れてた近くに、八人のエクソシストの死体があった。明らかに斬られて死んだ、ね」
姉弟は絶句した。
当たり前のことだった。
「……なぜ?」
質問は控えろというリーデルの言葉も忘れ、ヴェーラの口から言葉が漏れた。そんなことは知らない。何があったらそうなるというのか。
様々な予想が脳裏を掠めるも、直ぐに否定の言葉が現れる。
ヘルクはゆっくり首を振った。
「わからない。最初はあんたらがやったのかと思った。でも治癒して、リーデルに見てもらったら……」
リーデルが言葉を継いだ。
「わたしの能力────読心で見たところ、あなた達の記憶にそんな事実はないと分かった。気を失ってから後はわからないけど、無意識に人を殺すなんてないはずだから、やったのはあなた達じゃないと証明されたの」
記憶も読める、読心能力。
心に留め置き、ヴェーラは唇を引き締めた。
「あなた達が意識を失うまでの経緯は分かっているわ」
そこでリーデルは微かに身を乗り出した。
核心を言う心の準備が表れたのだと、次の台詞で姉弟は知った。
「契約に至る過去、天使に対する復讐心も……知ってしまったの」
ヴェーラもジルベルトも驚かなかった。記憶を読めると聞いた時点でそのような気はしていたのだ。予想通りだった。
黙する姉弟。リーデルもヘルクも何も言わなかった。
「わたし達も天使を殺したいと思っているの」
そして切り込んだのはリーデルだった。
ヴェーラははっと顔を上げた。
出かけた言葉を、リーデルが手で制する。ヴェーラは大人しく口を噤んだ。
「わたしもヘルクも天使に大切なものを奪われたのよ。奪われた後、全てがひっくり返ってしまうくらいのものを」
なんと言うべきか分からなかった。具体的なことは知らずとも、その感情は伝わってくる。
自分自身も、同じ境遇なのだから。
「あたし達はそんな人────天使を殺したい、許せないと思っている契約者を集めてチームを作っているわ。あたしとリーデル含め四人なんだけどね。そしていつかは」
天使を殺すの。
一言一句例外なく重なった声。
誰が聞いても分かるほどに、声音の決意は固まっていた。
「なるほど、な……」
ヴェーラの返事は掠れていた。
それとは対照的な声を発したのはジルベルトだった。
「────そのチームへの勧誘かな?」
「そうよ」
一片の動揺もなく、リーデルは首肯した。
天使を殲滅するための契約者集団である。
有り得ない話ではない。が、百パーセントの信頼もできない。下手に信じれば裏切られる。
ジルベルトが姉に判断を委ねているのは目線で分かった。
敵か味方か、まだ決定はできない。弟の能力、彼の言葉もあるが、念には念を、シュリの一件が解決するまでは頼らない方が良いだろう。失ってからでは遅すぎる。
たとえリーデルとヘルクが敵だったとしても、今すぐ殺す気はないと見える。武器を持っていない今、姉弟を殺すのは簡単だろう。
落ち着いて、総合的に考える。
ヴェーラは結論を出した。
「しばらく、傍で様子を見させてほしい。そのチームとやらの活動を傍で見たい。それから決める」
それでも良いか?
ジルベルトも納得したらしかった。姉に向けていた目をリーデルに移す。
注目の的は迷わなかった。
即断即決に快く、晴れるような笑顔を浮かべて強く大きく頷いた。
「いいに決まってるじゃない──────わたし達『レース・ノワエ』について、しっかりじっくり勉強なさい」