再会と初会
〝ねぇ、ヴェーラ。聞こえるかい?〟
────聞こえるよ。
〝それは良かった。気分はどう?〟
────最悪だ。
〝あー、やっぱり?まぁ仕方ないよねぇ〟
────私はどうなった?
〝分からない。君の知らないことは俺も知らない。悪魔ってそういうもんだよ〟
────そうか。
〝そうだよ。あ、でも推測はつくんだよね〟
────聞かせてくれ。
〝百聞は一見にしかずだよ、ヴェーラ〟
────どういう意味だ?
〝こういうことさ〟
気がつくと目を開けていた。
覚醒したばかりの朧気な視界には、薄茶色の何かだけが映っている。視野を覆い尽くしていたそれが木製の天井だと気づいた時、ゴッドブレイカーの声が反響した。
〝おはよう、ヴェーラ〟
仰向いたまま、ぼうっと考える。身体が重い、頭がうまく働かない。それでも努めて言葉を繋ぎ、掠れた声を絞り出した。
「わたし、は………」
「えっ?」
驚きの声に、不思議に思った。契約した悪魔の、低く安定感のある声の質とは違うように感じたからである。聞き覚えはあるが、悪魔のものとは確実に違う。もっと優しく柔らかいものだ。
今、私はどういう状況にいるんだろう────と思った時、突如視界に現れたものがあった。
ライトブルーの双眸だった。
ライトブルー、見覚えのあるライトブルーだとぼんやり思う。落ち着きと透明感を同居させた色合いだ。しかし今、その眼は不安げに揺れていた。
「目……覚めてる?」
先程の素っ頓狂な声と同じ声だ。見たことのある声に見たことのある眼。知っているはずなのに、この人物が誰だか思い至らない。
「起きてるよね──────姉さん?」
全ての靄が消え去った。
「………ジル?」
潤いの皆無な、乾き切った声で呼んだ。
癖毛の銀髪に涼やかな瞳、軟調な声質に『姉さん』という呼び方。
そこにあったのは紛れもない、見間違えるはずもない、大鎌で致命傷を負ったはずのたった一人の弟の姿だった。
「姉さん……!」
目覚めた姉の反応を見、ジルベルトの声が震え、目が潤んだ。
仰向けのまま、状況が呑み込めず困惑するヴェーラを彼は突然抱きしめた。その強さに彼女は呻く。
「生きてる……生きてる…姉さん……」
頭は真っ白だ。何が起こっているのか全く分からない。
それでもこれは現実だ。
心を落ち着かせる香りが漂っている。重い腕を上げ、細い背を抱き締め返す。全てリアルな感覚だ。
自身と同じ柔らかい髪を手に感じた時、天井を映す目から涙が落ちた。
「ジル……生きてる?」
現在どういう状況なのか、ここはどこなのか、なぜ弟が生きているのか。
たった今この瞬間、それらのことはどうでも良かった。
弟が生きている。
温かいその手で自分を抱きしめてくれている。
その事実が生む喜びがただ、ヴェーラの胸に溢れていた。
「ジル………ジル、だよな?」
ジルベルトに負けず劣らず、ヴェーラの声も震えていた。彼は涙声を漏らし、何度も何度も頷いた。
「うん……!僕だよ。僕だよ、姉さん……」
腕の力が強くなった。息苦しくなったが、それも幸福感が打ち消してしまう。頬を涙が伝っていった。
────どれくらいそうしていたかは分からない。
驚喜に浸るその時間に終止符を打ったのは、ため息混じりの少女の声なのだった。
「やーっと起きたね」
驚いてジルベルトは抱擁を解き、扉の方を振り返った。つられてヴェーラも身体を起こす。
その時初めて、彼女は自らの周囲を見た。
寝ていたベッドと小さな机、そして椅子。部屋にあるのはそれだけだった。カーテンや絨毯など最低限のものは揃っているが、どれも質素で安価に見える。
そんな部屋唯一の扉を開け、堂々とした佇まいで立つその人物は、ミディアムロングの金髪をツインテールに纏めた少女だった。
頬を涙で濡らした姉弟を見て罰が悪そうな顔になる。
「タイミング悪かったわね」
少女は後ろ手に扉を閉め、吊り上がった金の目を僅かに眇めた。
当たりの強そうな顔立ちだ。物腰や身体つきから推察するに、歳は十八、十七といったところだろうか。身体つき、そう、身体つき────ヴェーラの視線を引き寄せたのは、露出の多い服装である。肩、腹、腿の肌が見えるという際どい衣装は、同性のヴェーラも目を逸らしてしまうほどだった。
若い瑞々しさを持つその少女の登場に、ジルベルトは涙を拭って笑ってみせた。その少女と彼の関係は掴めないが、少なくとも敵に向かってする仕草ではない。
ヴェーラは無意識に探りつつ、なんとか状況を把握しようとした。
「気分はどう?」
少女が尋ねた。同じような質問をゴッドブレイカーにされたのを思い出しながら答える。
「……悪くない」
「そう」、手短に言い、少女はベッドの端に腰を下ろした。しっとりした髪が揺れる。
「ヴェーラ、だったっけ?」
名を確認され、彼女は唇を引きしめた。しばらくの間の後、ゆっくり頷く。
少女はそこで初めて笑った。活発そうな外見に似合わない、柔和な笑みだ。警戒心潜むヴェーラの目を真っ直ぐ見つめる。気取らない口調で少女は名乗った。
「自己紹介しておくわ────あたしはヘルク。十八歳。ついでに言うと、あんた達の怪我を治した張本人だから。よろしく」
「ああ……よろしく」
反射的に返事をしたが、本当に何が何だか分かっていないのが今のヴェーラの心境だった。ヘルクというこの少女が味方と認めても良いものかどうかも心の中では定まらない。
弟は姉の心を汲み取った。
「まぁとりあえず姉さん、大丈夫だよ。ヘルクさんは敵じゃない。本当に僕らの怪我を治してくれたんだよ」
「あんな怪我を、こんな綺麗に?」
ヴェーラはジルベルトの背に目をやった。感動に打たれている時には気づかなかったが、服が新しくなっていた。ヴェーラ自身の服もだ。闘いで土埃と血に塗れたあの服ではない。
そして先刻、抱き締め返した時の感覚を思い返す。その背に大鎌の傷がないことを確信するのに、それほど時間は要しなかった。
ヴェーラは信じられないと首を振る。
「致命傷だぞ?血もかなり出てた。どうやって治したんだ?」
ヴェーラがそう言うと、ふたりは何故か顔を見合わせた。互いの表情を読み取ろうとするような目をしている。
ややあってヘルクはため息を吐き、前髪を掻き上げて立ち上がった。立ち上がるのも億劫と言いたげな動きである。姉弟の方を向き、顔の前でひらひらと手を振った。
「その話はあと。混乱されると面倒だしさ、あたし呼んでくるよ」
誰を、と尋ねようとしたヴェーラに対し、先手を打ったのはジルベルトだった。
「すぐにわかるから、姉さん」
そう言われてしまうと、もう何も聞くことはできなかった。
ヘルクが部屋を出ていった瞬間、ジルベルトの表情が真剣味を帯びた。ヴェーラははっとして身構える。ヘルクが座っていたあたりに腰を据え、改まって姉に向き直った。
「……ヘルクさん達は敵じゃない。僕の能力が言うにはね」
『敵を判別する能力』。
かなり近い距離にいる相手にしか使用できないなおかつ『敵か否かを判別する』のみの能力故に、限定的な場面でしか使えないが、武器を執って生きていく契約者には必要な能力だ────と、あの森の中ジルベルトは説明した。
ヴェーラは弟の言葉の裏を見抜いていた。
「シュリを敵と判断できなかったこと、か?」
拳を握り、ジルベルトは小さく頷いた。何度か口を開閉させてから顔を俯ける。それでもヴェーラがじっと待っていると、彼は顔を上げて語りだした。
「これはトワイライトに聞いたんだけど、敵の基準は、僕らに危害を及ぼしうるかどうか、らしいんだ。でもあの男は明らかに危害を及ぼしてきたよね。どう考えたって敵なんだよ。それに僕の能力はずっと発動しているセンサーみたいなものだから、発動し忘れみたいなことも有り得ないんだ。…………なのに、敵と分からなかった」
ヴェーラは黙って聞いている。彼は続けた。
「ユスティが間近に来た時にも反応したし、街ですれ違うエクソシストも判別できた。それなのに………」
「反応しなかった、か……」
可能性を考えてみる。
能力の不発はないとのことだ。ということはジルベルトに原因があるとは考えにくい。
つまり────シュリに何かがある?
ヴェーラがその旨を伝えると、ジルベルトは思案深げに目を細めた。
「確かに、その可能性が高いっぽいね。でもどうやって能力から逃れたんだろう」
「どう、かな……」
考えても考えても答えは出ない。沈黙が続いた。
軋みをあげて扉が開かれたのは、煮詰まったヴェーラが額に手を当てたその時だった。
「あの男についてなら知っているわよ」