絶望の最後
「自分………自分は……そんな…?」
シュリの様子に変化があった。ヴェーラに触れられた、その状態のままぴたりと止まっている。
大鎌が手から滑り落ちた。
赤い空を映した目は酷く虚ろで、何物かを見ているようで見ていない。首が折れそうな程に空を見上げ、ただ震える声を漏らすのだった。
「自分は、自分は、何を……何を?」
唇を微かに動かし、肩を震わせ、遂にシュリは膝をついた。彼自身はきっと、その事にすら気付いていない。
同じ言葉を繰り返し、時々呻く。
それはまさに、狂者と表すに相応しかった。
〝『最も思い出したくない場面を引き出す能力』、恐ろしきだねぇ〟
最も思い出したくない、忌み嫌う場面を、体験したそのままに思い出させる特殊能力。
景色も匂いも感覚も────そして激しい感情さえも。
全てをありのままに、むざむざと思い出させる能力。
相手の心を壊してしまう危険性を併せ持ったそれこそが、ヴェーラの契約で得た力だった。
「ジル、逃げるぞ!」
相手が無防備とはいえど殺す気にはならなかった。
攻撃の瞬間に能力が解け、反撃を食らうのを恐れたのかもしれないし、記憶に溺れる彼に哀れみの念を抱いたのかもしれない。それはヴェーラ自身にも分からなかった。というよりは、直観的な判断という方が正しい。
「……うん!」
ヴェーラは最後の気力を振り絞り、弟の手を強く引いて逃げ道を示した。疲れと勢いによろめいたジルベルトだったが、走る姉の背中を直ぐに追う。
シュリとの距離は一瞬で開いた。もしここで彼が記憶から解放されても、追いつかれるまで俊刻の猶予はある。
大丈夫、大丈夫だ。自分にしっかり言い聞かせる。
ある程度の距離まで来ると、建物の屋根へ跳ぶために膝を曲げた。怪我はしていないはずなのに、そこすらも刺されたような痛みが生じる。
「死ぬわけにはいかないんだよ……」
口の中だけの言葉はきっと、追いついたジルベルトにも届いていない。彼は言葉を発する気力も潰えているようだったが、その眼は確かに生存への道を見つめていた。
まさにその瞬間だった。
「あ………」
飛来した禍々しい大鎌の刃が、ジルベルトの背に深々と突き刺さったのだった。
どうしてこんなことに。
どうしてこんな目に。
──────昨日、親友を喪ったばかりなのに。
弟に致命傷を負わせた敵がいることも、自分の傷の痛みのことも頭から吹き飛んだ。
生きる糧、生きる希望を死なせはしないと、毒々しい色の血を流す彼へ向けて身を翻した。
駆け寄った後どうするかなどということには、考えが至らなかった。
────そして、シュリがそれを許さないということにも。
「が……っ!」
能力を破り解放されたシュリは今、生き残った契約者を固い床に打ち倒し、組み伏せ、その喉を片手で押さえつけていた。
窒息する強さではない。だが呼吸の苦しさははっきりとわかる。シュリの手を掴んだが、引き剥がす力などとうに無かった。
絞める力に、怨みの言葉も出てこなかった。
「あなたの能力、自分が見てきた中で一番衝撃的でしたよ。自分自身を見失いそうになりました」
シュリは勝ち誇るでもなく悠然と言った。喘鳴で苦しむヴェーラとは対照的に、薄ら笑顔を浮かべている。
「自分にここまで抵抗したこと、できたことには素直に敬意を表しましょう。ですが後一歩及ばず、でしたね」
その台詞の大方は聞こえていなかった。ヴェーラの視界にもやがかかる。完全に気道を塞がれているわけでなくても、空気の少なさに力が抜ける。絞めあげる手を阻もうと試みた手が滑り落ちる。
聴覚さえも消えゆこうとした時、弱々しい声がはっきりと聞こえた。
「姉さん……」
意識が消える直前でも、その声が誰か判別することは容易だった。ヴェーラは空を向いたまま、小さく声に応えた。
「はぁ……っ、ジル…か……」
遠くに感じる心の中に、穏やかな安堵が広がっていく。生きていてくれて、良かった────そう伝えたくても、伝える術は残されていなかった。
シュリがジルベルトの方を向いた。少し驚いたような表情を見せる。
「まだ生きていましたか。エクソシストの武器による傷は治りが遅いはずですが」
そしてヴェーラに視線を戻した。
「少しの間でしたが、楽しませていただきましたよ」
ヴェーラは目を閉じた。諦めがじっくりと心を蝕む。悪魔の声が聞こえた気がしたが、風の音と言われても納得出来る程に小さなものだった。
「では、さようなら」
かかった力が一段と強まり、息が完全に止まった。
声を出すこともできない。目を開ける体力もない。
決めたのに。最悪の死を迎えた彼女を弔う為に、復讐を必ず遂げると決めたのに。ひとつ残った弟の命を守ろうと決めたのに。
人の道を外れてでも、そのために生きようとしたのに。
生きれなかった。
──────────もういい。
呼吸が楽になったことに気付いたのは、鈍っていた感覚が戻ってきたからだった。気付いてしまうと、喉に激しい痛みを感じた。首を押さえ、何度も咳き込む。
そこにシュリの手は無かった。
不器用に息を吸い、ヴェーラはそっと目を開けた。シュリは彼女に跨ったままだ。
が、彼自身の背後に向けた顔には、静かで冷たい微笑があった。
微かに動いた彼の唇から、その台詞を読み取った。
「いいことを思いつきました」
────いいこと?
目を細めて空気を取り入れ、やがて明瞭さを帯びてきた頭に疑問が浮かんだ。
結果、『いいこと』の内容は分からなかった。
その代わり分かったのは、この騒ぎを感知し多くの人間が駆けつけてきたことだった。
重なる足音、叫ぶ声、武器を抜く音、緊迫感。
シュリさん。大丈夫ですか。契約者ですか。
切れ切れの言葉が聞こえた。
どうやら袋小路の入口に固まっているようだった。
音が耳に入ってから、来た人間というのがエクソシスト達であることを理解するのに些かの時間を必要とした。
ここまでの絶望を味わう人間なんてそうそういないだろうな。
と思う間に、また首に手が添えられた。添えられていた。それは本当に、掴むだとか押さえつけるといったものではなく、ただ触れているだけのような、優しく軽いものだった。
自分自身がそれを不思議に思っているとかどうかもよく分からない。
ぼうっと虚空を見つめ、また目を閉じようとした時、突如響いた誰かの大声が耳朶を震わせた。
間近で起こったその声に驚いて目を開く。
やはりシュリがのしかかっている。顔だけをエクソシストに向け、鋭く険しい雰囲気をまとっている。
大きく息を吸い込んで叫んだのは、悠々とヴェーラの命を奪おうとしていたシュリその人だった。
その声音が含む感情は、現状とは完全に裏腹なものだった。
危機感のある、焦燥含む声なのだった。
「手伝ってください!自分一人の力では、とても……っ!ここに、契約者が……ぐっ!」
先程までの冷たい笑みは消えていた。今そこに浮かぶのは、耐え難いものを抑える必死さと、色濃い焦りだった。
ヴェーラは激しく混乱した。
その手に少し力を込めれば、いとも簡単にこの命は消えるはずだった。
「なんで────」
掠れた声が無意識に漏れた。それさえも喉に引っかかり、胸を押さえて激しくむせ込んだ。
シュリはヴェーラに一瞥をくれた。そして言った。
「答えることはできません。おやすみなさい」
最後に見たのはシュリの笑みだった。それがどんな意味のものなのかなど、考える暇もなかった。
喉首の血管が圧迫される感覚があった直後、ヴェーラの意識は深い闇へと落ちていった。