天使の存在
森の中で一泊し、翌日着いたのは帝都ミリューだった。
石畳が敷き詰められ、石造りの家々が立ち並ぶ落ち着いた雰囲気のこの街を、姉弟は差し当たりの拠点として決めていた。
「どっか寝れる場所を確保しないとだね」
弟の意見に姉は同意する。
「宿の問題が解決しても仕事の問題があるからな。金がないとやっていけない」
「十九歳と十七歳だってのに、どうしてこんな心配しなくちゃいけないわけよ、ほんと……」
ぼそぼそと不服を漏らす姿は純粋無垢な青年に見えた。つい先日、人を殺したとは誰も思わないだろう。
「とにかく、何か食べようか。昨日の夜から何も食べてないから腹がやばい」
「…………ほんとだ。今気付いた。空腹通り越して何も感じないんだけど、僕」
「極限だな。死ぬぞ」
大通りを見渡すと、所々に屋台がある。野菜、果物から今にも折れそうな剣まで。商業栄えるこの街には相応しい光景だ。
「あ、あれ美味しそう」
そんな弟の台詞がきっかけとなり、姉弟はその屋台で食事を済ますことにした。
節約のためと最も安いセットを買い、大通りのベンチに腰かける。
「あ、これ美味しい」
「うっ、甘い……」
「姉さん甘いの駄目だもんね。大丈夫?」
「甘いもんだと言ってくれなかった店に対する怒り以外は大丈夫だ」
「可愛いとこあるじゃん、姉さんも」
「一回死ぬか?」
軽口を叩きあい、穏やかな時間を過ごして昼食を胃に収めた。ヴェーラの苦手な甘いものでも空腹には逆らえないものである。
緩い時間に終止符が打たれたのは、ヴェーラがベンチから立ち上がり、包み紙を手の中で丸め、ごみ箱を目で探した時のことだった。
大通りの向こう側に小さな人集りができているのに気付いた。
何かショーをやっているという人集りではない。有名人か誰かが居て、それに人が群がっているという方がしっくりくるものだった。耳を済ませても、周囲の音が煩くて人集りの声は聞こえない。
屋台で買った飲物を飲み干さんとしているジルベルトに、ヴェーラは群衆を指し示した。
「あれなんだと思う?ジル」
「ん?」と彼は身を伸ばして示されたものに気付いた。使い捨てコップを握り潰し、重そうな腰をあげる。潰してから立ち上がるまで、視線は人集りに釘付けだ。
「なんだろ。あー、人垣で全然見えない」
目の上に手をかざし日光を遮るも、原因違いでは意味が無い。ややあって彼はあっさり諦めた。
「うん。分からないね」
そういう頃には、人集りは何故か移動していた。ヴェーラ達がいる方向に大通りを直進している。この時になると、ようやく話す声が聞こえてきた。全体は聞き取れないが趣旨は掴み取れる、といった程度だ。
────そして、ヴェーラの身体を冷たいものが流れていった。
「てん、し……」
「え?」
様子が一変した姉を、弟は怪訝そうに見た。掠れる声では言っていることが分からなかったらしい、もう一度聞き返す。
「天使だ、ジル……」
そうしてジルベルトも事の重大さを理解した。彼の心臓が早鐘を打ち始めたその時には、人の塊────天使を囲んだ人の塊は、ふたりの契約者の目前まで来ていた。
「私などがユスティ様と会えるなんて……!」
「ユスティ様、なんて神々しいんだ……」
「宜しければ握手をお願いできませんか!?」
人々の興奮した声がはっきり耳朶を打つが、二人にはどこか遠くのもののように聞こえていた。
そして次に上がった声に、彼らの心臓は縮み上がった。
「順番、順番!えへへー、こんなに慕われると照れちゃうよぉ」
可愛いらしく子供らしい無邪気な声音。声だけ聞けば、十歳くらいの女児を、無害な女児を誰もが思い浮かべるだろう。その想像はある意味で正しく、ある意味で間違いである。
「天使ユスティ……」
人垣から抜け出したその子供は、絹のような金髪を持っていた。ほっそりした腰まで届くその髪の先は真っ直ぐに切りそろえられ、遊ぶように揺れていた。金の瞳も、小さな体躯も、純粋な声も、全く普通の女の子である。
だが、普通とは一線を画すものがあった。
────背から生えた、真っ白な一対の翼だった。
これが天使である所以のひとつ。柔らかな羽根から構成される翼は、彼女の身体の三分の二はある。
────その全てが、ヴェーラとジルベルトの感情を動かした。
「もー、皆焦りすぎだよ!わたし、今日はそんな予定も詰まってないから大丈夫だよ?」
輪を外れ、ユスティは楽しそうに跳ね回った。白い羽根が小さくさざめく。
エクソシストを働き蜂とするならば、天使は女王蜂ということになる。この世に何万と存在するエクソシストを束ねる者達。
それが天使だ。
そして契約者達が天使に恐れ戦く理由はもうひとつあった。
契約者もエクソシストも優に超える、異常な身体能力である。
たった七人しか存在しない天使達と、生きている全てのエクソシストが戦った場合、勝つのは百パーセントの確率で前者である。
この予測に反対の声は皆無だった。
「────慌てることじゃない。とにかく座れ」
先に我を取り戻したのはヴェーラだった。ジルベルトを振り返った時には、いつもの冷静な表情に戻っている。が、目の奥に宿る激情の光を弟は見逃さなかった。
「あぁ……うん、それもそうだね。調子狂うなぁ」
促されるままに、彼は腰を据えた。
二人の心に巣食うのは、少しの恐れと激しい怒り。それだけだった。
自然に見えるよう意識して座り、ヴェーラは密かに拳を固める。握り拳が震えている。
それだけの力があるならば、今すぐにでもこの忌まわしい少女の細首をねじ切ってやりたい。
────私と弟、そして彼女を裏切った者のひとりなのだから。
今は無理でも、いつかはきっと────
「姉さん」
ジルベルトが不安そうに、ヴェーラの眼を覗き込む。彼女は首を振った。
「分かってる。その時は今じゃない」
「うん」
かくして、ユスティとそれを追う人間達は離れていった。近いと言える範囲にいたのはほんの数分に過ぎないが、姉弟には数十倍に感じられた。
無邪気に笑うユスティを見て、ヴェーラの決意はさらに固まることとなった。
剣柄に手を置き、天使の姿をじっと見送る。