契約者
鬱蒼とした森を進む。頭上に茂る葉のせいで、燃えるような夕焼け空は見えないでいる。
見えたところで、見たくないけども。
滾る感情を抑え込むように、衣服の前を掻き合せる。
〝かなり心が不安定だね。大丈夫かい、ヴェーラ〟
頭のどこかで声が響く。契約したばかりの悪魔の言葉は未だ、信じることができなかった。
────信じられるわけがないだろう。ほんの少し前に全てを裏切られ、ほんの少し前に全てを失ったというのに。
だからきっと、悪魔の心配するような言葉も本心ではないだろう。
「大丈夫だ」
低く、声に出して言ってみる。その声に反応したのは悪魔だけではなかった。〝そうなんだね〟と彼が呟いたとほぼ同時に、肩を並べて歩いていた弟が姉の表情を窺い見た。
「悪魔?」
ヴェーラは視線を一寸先の地面に固定したまま、小さく頷いた。「そっか」、ジルベルトは弟らしく口を引き締める。
「そう言えば、姉さんの悪魔の名前ってなんだったっけ」
独り言のように問われ、ヴェーラは一泊間を置いた。
「神の破砕者、って名乗られたよ」
「へぇ。いい名前だね」
最低限に舗装された小道を、木の根や雑草が侵食している。つまずかないようそれらを無意識に避けながら、ヴェーラは尋ね返した。
「お前と契約した悪魔はなんて名乗った?」
「黄昏、だって。お洒落だよね」
「ゴッドブレイカーよりかはセンスが良いよ」
〝えー、酷いんじゃない?〟
沈む姉弟とは裏腹に、ゴッドブレイカーは面白がるような声音で言った。
あの出来事が起こる前のヴェーラなら、『人が落ち込んでいる時に不謹慎だ』と思っただろう。が、今やそんなことはどうでもよかった。
そんな平和な考えを覆い潰してしまうほどの、復讐心と絶望感がただ胸に渦巻いていた。
左の腰にしっかりと携えられた、長剣の柄に手を触れる。
私を裏切った全てを、この手でいつか────
壊してみせる。
悪魔というものは、己と契約した人間の思考なら手に取るようにわかるらしい。ヴェーラの決心もゴッドブレイカーには筒抜けだった。
〝復讐、ね。綺麗な響きだよね。俺の一番好きな言葉かもしれないなぁ〟
ヴェーラは対応しなかった。黙々と足を進め、ジルベルトと並んで森の出口をただ目指す。
と、その時。
「待って」
鋭い制止の声が入った。ジルベルトだった。その表情はかなり険しく、立ち止まって何かを感じ取ろうとしている。
どうしたのか聞こうとした時、彼女にも原因がわかった。
「────でさ、契約者が襲ってきてさぁ」
誰かいる。距離にするならそれはかなり遠いだろう。が、人間の数倍の身体能力を持つ契約者たる姉弟の耳には、男の話し声がはっきりと届いていた。
余裕そうな男の話はまだ続く。
「路地裏とはいえ白昼堂々襲ってくるから、余程腕に自信があるんだろうなーって思ったわけよ、でも戦ってみるとクソみたいに雑魚かったんだ、その契約者。笑いもんだよな」
二人は動かず視線を交わした。
相手がエクソシストであることは、会話の内容から読み取れた。契約者を『雑魚かった』と言えるような者などただの人間ではない。その上、冗談でもなさそうな口調である。
────どうする?
ジルベルトは視線で尋ねた。ヴェーラは目を閉じ、相手の数を探ろうと試みた。
相槌を打つ声がひとつ。最初の男よりかは少し高く、若い声だ。
「すごいですね。さすがは先輩です」
少なくとも二人はいる。足音を聞こうと耳を澄ます。
────二人分のリズム。
確信し、ヴェーラは弟に向かい指を二本立ててみせた。直後、真上を指し示す。
指の先には、空を覆い隠すほどに茂った木の葉。と、自由奔放に伸びた太い枝。ジルベルトはそれを視認し、計画を理解したようだった。
やるぞ。
そして、二人は跳び上がった。人間を超過した身体能力により、軽く枝まで到達する。
ヴェーラは枝に着地すると、気配を殺してしゃがみ込んだ。隣の枝には同じようにする弟の姿。
どれだけ息を殺していても、これほど葉が密集している場所に突撃したのだ。
葉が身体に当たり、ざわざわと大きな音を立てた。
若い方のエクソシストが怪訝な声を上げた。
「……先輩。今、向こうの方の葉がざわっとしませんでした?」
「動物が木から落っこちたんじゃねぇか?」
「ですが。この辺りに契約者が潜んでいる可能性があるんですよ。だから僕達は見回りに来ているのに」
ヴェーラは息を詰めた。声が近づいているのが分かる。草むらを掻き分ける音も届く。こちらに向かっているのは間違いなかった。
「……どの辺でしたっけ。先輩、わかります?」
それなりに近づいところで足音はぴたりと止まった。が、話し声はまだ聞こえる。集中すると溜息の音までわかる距離だ。
「もうちょい先じゃあなかったか?」
「ですかねぇ」
ヴェーラはジルベルトを見た。ジルベルトもヴェーラを見た。「大丈夫だよ」、目で告げて頷く。
ゴッドブレイカーの声が響いた。
〝もうそろそろだよ。準備しといた方が良いんじゃないかな〟
草を踏む音が大きくなる。契約者でなくても聞こえるだろう。
ヴェーラはそっと目を閉じた。
────戦う。
前頭部から、角が生える感覚があった。自分で自分の姿は見えないが、きっと目が赤くなっているのだろう。
人間ではない風貌になっているのだろう。
本格的に力を発揮する時、角と赤い目を発現させる契約者は人間とは呼ばれない。
それでも復讐を果たせるなら。
────そうしてエクソシストは姿を現した。
草むらを通り抜け、道に立った若い男と中年の男。双方、エクソシストの制服を着用し、腰に剣を携えていた。
そして次の瞬間、中年の男の首は有り得ない方向にねじ曲がった。
一瞬の出来事だった。
「な…………」
若い男は絶句した。
命を懸けて戦う者としては絶対的で致命的な隙だった。
────こんな隙を無駄にはできない。
筋肉にまみれた中年の身体が傾く。それを契機にヴェーラは木から飛び降りた。
振り下ろされた抜き身の剣が、エクソシストの首を襲った。
「契約者……っ!」
彼が驚く時間は僅かだった。危機に気付くと瞬時に抜剣、数歩引きつつヴェーラの一撃を受け止めた。
「貴様!」
中年の絶命とヴェーラの襲撃を結び付けることは、混乱したエクソシストにとっても容易いことだった。
怒りに燃えるエクソシストは大振りに斬り掛かる。
「死ね、契約者ぁぁぁあっ!」
「死ぬのはお前だ」
鍔迫り合いが繰り広げられる。ヴェーラは踏み込み、横に薙ぐ。エクソシストは剣を跳ねあげ、蹴りを入れる。腕で受け止め、足首を掴む。振りほどこうとするのを腕力で押さえ込み、力を込めて捻りあげた。
「が……!」
エクソシストは呻き、瞬刻怯んだ。
それが敗因となった。
軌跡を描いたヴェーラの剣が、エクソシストの左胸を深々と刺し貫いていた。
「………………悪いな」
ヴェーラの言葉が届いたかどうかは定かでない。剣を引き抜かれた彼が地面に伏したその時には、既に死体となっていた。
〝へぇ、お見事。いい人間に出逢えたんだね、俺〟
背後でジルベルトが下り立つ気配がした。言葉の端々まで無感情に、彼は言った。
「お疲れ様、姉さん」
「ああ。お前も、な」
ジルベルトは両の五指に絡みついた長い糸を巻き取りコンパクトにしてから、胸ポケットにしまい込んだ。契約者としての能力を使い上手く操作し、中年の首をへし折った糸だった。
彼は二人分の死体を見た。表情は恐ろしいほどに変わらない。それでも姉は、内心の動揺を押し殺していることが分かっていた。
「……アレ、早く貰った方が良いんだよね」
エクソシストの身体から溢れ出た血が地を濡らしていく。赤い地面を踏んで、彼はヴェーラの前を過ぎる。ぴくりとも動かなくなった中年の脇にかがみ込むと、その首筋に手を当てた。
「君は僕の糧になる……でも、ごめんね」
ジルベルトの眉がひそめられた。不快というよりかは未知の感覚に驚いているような様子だ。
〝君もやった方が良いよ?復讐を成し遂げるなら尚更、ね〟
「……ああ、そうだな」
ヴェーラも弟に倣うことにした。殺めたばかりの男の脇に立ち、蒼白な顔を見下ろした。驚きと怒りが残ったままの死に顔を眺め続けることが出来なくなり、一度瞑目する。
「姉さん」
目を開いた。声を振り向くと、心配そうに佇むジルベルトの姿。
ヴェーラは頷くしかなかった。
血が及んでいない地面を選んで膝をつく。弟と同じように首筋に手を伸ばした時、自分の手が震えていることに気付いた。首を振って、心を無にする。
「無駄にはしないから」
右手の指先が白い肌に触れたその瞬間。熱いものが腕を伝って身体へと供給され始めた。
腕の血管を熱湯が通るような感覚。確かにこれは眉をひそめるのも頷ける。気持ちいいような、悪いような、『感情を奪う』ことは正しく伝えられない感覚だった。
契約者は悪魔と契約し、願いを叶える為の特殊能力をひとつだけ得る。その対価が問題だった。
他人の感情を奪わなければ、いつしか無感情になってしまう。そして奪える感情というのは、死んだばかりの人間からしか奪えない。
だから感情を保とうと思えば、人を殺し続けるしかない────。
では感情を捨てれば良いのではないか。契約者を研究していた人間はそう言った。しかし世界はそれほど甘くなかった。
感情は、契約者の戦う力の元となるのである。
故に感情がゼロになれば超人的な身体能力を発揮することも、この対価で得た能力も使うことができなくなるのだ。
戦う必要がある契約者は、人を殺し続けるしかない。
ヴェーラやジルベルトのような契約者は。
感情を吸収しつくしヴェーラはゆっくり立ち上がった。身体の奥でふつふつと燃える何かが確かにあった。
人を殺せば殺すほど、この道は戻れなくなる。
そんなことは分かっている。ここから先は迷えない。
────それでも。
私はこの道を進む。
戻らない親友のために、愛する弟のために、私自身のために。