ナツメ
春の訪れは村に新たな風を吹き込んだ。
「知らない顔だな、誰だろう」
村長の家の前を通りかかったときのことだった。村長と見知らぬ女性が話しているのが目に止まった。
女性は色が白く線は細い。身長はその時の俺と同じくらいで、女性の平均よりやや高く見えた。眼鏡越しに垣間見られる切れ長の目は知的に見え、肩にかかった金髪は透き通って見えるほど艶があった。
女性がちらりとこちらを見た。
村長と何度か言葉を交わし、こちらへ向かってくる。
「こんにちは。この村の子かな?」
「はい」
近くで見ると金髪の女性は一段と華やかに見えた。服装は襟付きの白いシャツに黒のニットを羽織っているだけで、決して鮮やかとは言えないのだが、それでもこの女性から湧き出る人を引き付ける何かが十分なほど華やかさを演出していた。
女性はただこちらに微笑みかけただけなのに、口元をわずかに上げた表情は妙に色っぽく感じる。
「オクトーバー・シティというところから来たナツメといいます。よろしくね」
「ナユタです。初めまして」
「よかったら、この村を案内してもらえないかな。遭難して帰ってこれなくなったら大変だ」
「良いですが、どうして俺に?」
「子どもは色々なことを知っているからね。それに、その靴を見る限りでは随分と色々なところを歩き回っているんだろう?」
確かに俺の靴は野山を駆け回っていたせいで革は今にも穴が開きそうなほどすり減っていた。今まで指摘されたこともなかったし、他の村の住人も大差ないから気にも留めていなかった。
しかし、目の前の金髪の女性が纏っているニットには毛玉の一つも付いておらず、靴はすり減っていないのは当然のこと、よく磨かれてつやつやしている。
目の前の女性の身なりは別世界の人物だと感じるには十分だった。
この人は何者なのだろう。疑問は尽きなかった。
このナツメという人の素性はわからないが、村長と話していたくらいだからおかしげな人ではないのだろう。あまり気は進まなかったが、俺は村の案内をすることにした。
「ナツメさんは、何をしにこんなところまで来たんですか」
村を回る道すがら、このどこのものとも知れない美女にいくつか思っていることを訊いてみることにした。
「研究だよ。私は学校で先生をしていてね、研究のためにあちらこちらを回っているんだ」
「研究って何の研究を?」
「竜の研究さ。竜には分かっていないことが多いんだ。何せ危険な生き物だからね、誰も関わりたがらない」
竜を見たことはないが、よく話には聴いていた。
村長たちが言うには、この世界の空はすべて竜に支配されているらしい。まだ村長が小さかったころ、人は様々な獣とともに暮らし、空を駆け巡ったそうだ。だが、竜が突如として勢力を伸ばし獣や人間と敵対するようになってからというもの、空は竜のものになった。
「危険と分かっていて、竜の研究をするんですね」
「ああ。どうしてもしなくてはならないね。だって、こんなにも広い空を竜が独り占めしているなんて許せないだろう?」
「命が惜しいとかは思わないんですか」
「思わないよ。竜に殺されるならそれまでだと思ってる。そういう運命なんだ」
そう言うナツメさんは強がりを言っているようには見えなかった。「運命」という言葉を研究者が使うのは意外に思えたけど、そう思うだけの何かがあったのかもしれない。
「そのわりには楽しそうですね」
「何事も楽しまないと損だからね。それに私は竜を知りたいから研究者になったんだ。今のこの状況は楽しくて仕方がないね」
ははっ、と上着のポケットに手を突っ込んで空を見上げるその姿は初めて飛び立とうとする若い鳥のようだった。強大な自然を目の前にしても怯まず、一歩踏み出し飛び立とうとしている。「私は飛べる」という確信を持って。
「ナユタくん」
目の前の女性は金髪をなびかせて振り向いた。一本一本の髪が流れ、ふわりと肩にかかる。
「なんですか」
「よかったら、暇な時に私の研究室を訪ねてくるといい。何かおもしろいことを教えてあげよう」
「なんですか、それ。すごく怪しいんですが」
怪しい、と思うものの気にせずにはいられない。目の前に佇む女性の言葉にはそういった魅力があった。会った時から感じていたが、この人には独特の雰囲気がある。百人の中に紛れていても思わず目にとめてしまう、そんな雰囲気だ。怪しい存在なのだが、どうしても興味をそそられてしまう。
「魔法に興味はないかい?」
ナツメ先生が静かに笑った。
*
先生が言うには、魔法とは自然界と契約を交わすことによって使用できる力のことであるらしい。
「難しい理論は後回しにして、まずは魔法を使えるようになろう」
俺はナツメ先生の研究所に来ていた。南北に「く」の字に伸びる村の南端にあり、空き家になっていた民家を改装したようだった。床は全面板張りで、部屋の中央には大きな机があり、その奥には黒板が掛けられている。片隅にはソファがあり、寝床にしているのだろうか白いシーツがくしゃっと丸まっていた。
なにより目にとまるのが部屋中に散らばる本や紙だ。本当に最近ここに住み着いたのか疑わしいほど散らばっており、よくもここまで散らかしたものだと感心すら覚える。
「ここで魔法を使うつもりですか」
俺は唖然とした。先生が「何が問題なのか」という顔をしたからだ。
「どんな魔法を使うつもりか知りませんが、こんなところで使ったら危ないでしょう」
「そうか?私は構わないのだけど」
先生は紙に何か文字を書き始めた。俺は見たことのない文字だった。
先生は文字を書き上げると、そこにナイフを突き立てた。
「よく見ておきなさい、これが魔法だ」
変化はすぐに現れた。部屋中に散らかっていた紙や本がひとりでに動き始めたのだ。紙は宙を舞い机上に束になっていく。本は壁の脇に整然と積み上がり、くしゃくしゃになったシーツは四角四面に折りたたまれる。散らかっていた部屋は、さも初めから整理されていたかのように振舞った。
「これを見せたくてな、わざと散らかしたんだ。なんてだらしない女なんだろうとか思っただろう?魔法が使えればこの通りだ」
言葉が出ない。「ははっ」と乾いた笑いが漏れるばかりだ。
「こんなこと、本当にできるのか」
身体が震えていた。魔法を教えると聴いたときは、どんな怪しげな呪術的な儀式を教え込まれるのかと思ったが、目の前で起きた現象は呪術のような人の負の感情を集積させたものとは一線を画していた。
「なんて合理的な技術なんだ。これが使えたら生活が一変する」
「だろう?都市では多くの人々が魔法を使って生活している。魔法が登場した以降の生活水準は飛躍的に上昇したと言われているけど、この村を見ていたら頷かざるを得ないな。それくらい魔法は多くの可能性を秘めているわけさ」
先生がいた街では、多くの人々が魔法を使い生活を豊かにしているそうだ。幼い頃から魔法教育を受けた人は自然に魔法を扱うらしい。
「俺も魔法が使えるようになりますか」
「もちろん。魔法は言葉のようなものでね、幼いころに憶えてしまったほうが呑み込みが早いけど、ある程度成長してからでも憶えることは可能だ」
「俺に魔法を教えてくれませんか」
「いいよ。一応、先生だからね」
こうして、俺はナツメ先生に魔法を教えてもらうことになった。
「魔法にはいくつか道具が必要だ。まずは術符で、これは自然界との契約書みたいなものだ。何にどういう働きをしてほしいのか、術符という形で記すことで自然界に我々の意思が通じるわけだ。だが、術符を書くだけでは魔法は発動しない。そこで魔具を使う。魔具は使用者の魔力を燃料にして術符に書かれた魔法を発動させることができる。つまり術符を書き、魔具を介することで初めて魔法が使えるというわけだ」
ナツメ先生が本や紙を動かしたとき、紙に書いていたのは術符で、紙に突き刺したナイフは魔具ということだった。魔法を使うには、まず術符がかける必要があり、俺はナツメ先生に教えられながら、魔法言語を憶えていった。
「よし、その術符にこのナイフを突き立ててご覧。あの本を手元に引き寄せることができるはずだ」
俺が初めに教えてもらったのは、物を触れずに動かす魔法だ。原理はナツメ先生が俺に見せた魔法と同じだが、俺が扱うのはずっと簡単なものになる。
「じゃあ、いきます」
床の上に置いた術符めがけてナイフを振り下ろす。ナイフは術符を貫き、わずかに床に刺さる。
ナイフが術符を貫いたことを確認し、対象である本をじっと見る。
かたっ。
本が少し手前に動いた。
「ダメか」
すると、本がゆっくりと宙に浮いた。ゆっくりとこちら側に向かってくる。
「おお」
本はゆっくりとだが、俺の手元に収まった。
「成功だな」
それが俺にとって初めて魔法を使えた瞬間だった。
実用性を考えれば、自分の足で本を取りに行った方が早いだろうが、俺は何よりも魔法を使えたという事実が嬉しかった。
まったく未知の技術を使えたというだけで、気分は高揚し、魔法とはなんと素晴らしいものだろうかと思えた。
「まあ、初めはこんなものかな。徐々に複雑な魔法も使えるようになるだろうし、威力も回数をこなせば増してくるはずだ」
「練習あるのみ、といったところですか」
「そんなところだね。術符に関しては教本を渡すから、それで憶えるといい」
俺はそれまで教育というものを受けたことが無かった。そのため、ナツメ先生との出会いは新鮮なものだった。ナツメ先生と出会っていなければ魔法とも出会っていなかった。この出会いは俺の人生を大きく変えるものになる。
魔法のおもしろいところは、自分が学んだことや練度が目に見えやすいところだ。一つの術式を憶えれば、その分魔法の幅が広がる。魔法を使えば使うほど、魔力を自由に使えている感覚を得ることが出来た。
「だいぶ上達したんじゃないか?家でもよく勉強しているようだし、君みたいな生徒ばかりなら教師は楽かもしれないな」
「先生、この村には俺ともう一人子どもがいるんだけど、その子にも魔法を教えてあげてくれませんか」
「構わないよ。これも仕事の一環だ、喜んで教えよう」
その次の日、俺はコトを研究所に誘った。
そのうち、コトも頻繁に研究所に顔を出すようになり、一緒にナツメ先生から魔法を習うことになった。コトも俺と同じようにナツメ先生と魔法に興味を持ったのだろう。研究所を初めて訪ねた日にはコトとナツメ先生は姉妹のように仲良くなり、魔法も遊ぶように扱い始めた。
俺とコトは魔法を少しずつ使えるようになることが楽しくてならなかったが、先生もまた、俺たちに魔法を教えることに楽しさを見出していたようだった。「君たちは本当に良い生徒だな」と言って俺たちを見る先生は穏やかでありながら、どこか嬉しそうに見えた。
「先生は、この村に来る前も先生してたんだよね」
春の花々が散り始めたころ、コトはナツメ先生の過去について尋ねた。気にはなっていたが、今まで訊けていなかった。なんとなく気後れして訊けずにいたのだが、コトが深刻そうな顔をまったくせずに何気なく訊くものだから、悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。
「なに、大したことはないよ。ただの研究者さ。自分が研究したいことを研究して、君たちみたいな若い人たちに教える、今とあまり変わらないかな」
先生が足を組み替える。椅子がギギッと鳴った。
先生の目はまるで遠い過去を見ているかの様だった。ついこの間のことだろうに、遠く離れたところにいるというだけで、それほどまでに身近でなくなってしまうものだろうか。
「じゃあ、先生はどんな先生だったの?今と同じ?」
先生はぎゅっと瞼を閉じ、机の端のほうに目をやった。
「うーん、どうだろうね。当時の生徒からはあまり良い先生とは思われていないかもしれないな」
「どうして?私は先生好きだよ?」
「ありがとう。でも、大学で研究者をしていたころの私はあまり余裕がなかった。本当は学生たちを導いてあげるべきだったけど、それができていなかったんだ」
いつも独り超然と振舞っているように見える先生だったが、過去の話をしているときはいつもと違って見えた。これほどまでに寂しげな姿を見せることは今までなかったし、普段の先生からは想像し難いことだった。
「大学に限らず、都市に住む子供たちは皆、魔法を使いこなせるようになることを求められる。でも、魔法は誰もが等しく扱えるようになる代物ではない。人によって威力も性質も大きく違うんだ。世間がそのことをよくわかってくれたら、学生たちはもっと生きやすくなるんだろうけどね、実際は努力によってある一定水準までは魔法が使えるようになるという意見が根強い。そして、学生たちの魔法能力を引き上げることは私のような研究者や教師にも求められる。求められる以上、学生たちに鞭を打たざるを得ないのが我々教師の悲しい実情だ」
俺は初めて先生が魔法を使っているのを見たとき、こんなにも素晴らしい能力があれば世界はもっと良くなると思った。
先生が語る魔法学校の話はそんな期待とは違うもののようだった。あれほど可能性のある能力だからこそ、使える者と使えない者がいた場合、使えない者の立場は相対的に低くなってしまうのかもしれない。
「俺、魔法って素晴らしいものとばかり思っていました。これさえあれば、毎日が楽しくなるって」
「まあ、多くの人にとってはそうなんだよ。でも、一定数は必ずいるんだ。魔法の神様に嫌われた子が」
ああ、先生はそういう子を何人も見てきたんだろう。その度に悩み、心を痛めてきたんだろう。
先生は強い人だと思う。でも、それ以上に優しい人だ。
「じゃあ、なんで俺に魔法を教えようと思ったんですか。魔法を知ることが必ずしもいいとは限らないと分かっていたのに」
「本当はナユタ君に会ったとき、魔法を教えようとは思ってもいなかった。でも、君と話していて思ったんだ。この遠く離れた村の子どもに魔法を教えたらどうなるんだろうって。そしたら、君たちはあっという間に魔法をおもちゃにしてしまった。ようやく思い出したよ。魔法を知ることそのものは悪くないって」
先生は魔法によって傷ついてきた人たちを見てきて、人に魔法を教えるということに躊躇いを感じていたのだろうか。
「もったいないですよ。こんなに日常を変えてくれる力を秘密にするなんて。俺は魔法を教えてもらえて良かったと思っています。例えこれから先、魔法を使えるがために悩んだとしても、知らないで一生を過ごすよりずっとましです」
「そうだよ先生。私ももっと魔法を知りたい。もっと色々できるようになりたい」
先生はしばらく無言で机の端に目を注いでいた。横に流した前髪がはらりと目にかかり、ゆっくりと呼吸をする。
ふっ、とため息をついてこちらの方を見遣る。じっと俺とコトも見つめたあと、二度頷いて椅子から立ち上がった。
「心配しなくても大丈夫だよ。私は君たちにちゃんと魔法を教える」
先生は顔にかかった髪を払い手を振り上げた。机の上に転がっていた紙とペンが手元に飛んでいく。
「君たちにとっておきの物を授けよう」
手元に収まった紙に何やらさらさらと書き込んでいく。書き終えると、紙を摘まむようにして持ち上げ、もう一方の手で指をパチンと打つ。
音を鳴らした指にはめられた銀の指輪が光を放つ。光を呼応するように紙が燃えていく。燃えた紙は炎の渦となり渦は球体となり収縮していく。収縮した炎はパン、と弾けて消えた。あとには小さな二つの透明の球体が残り、床に転がった。
「これは魔水晶といって、私の発明品だ。この魔水晶持ち続けることで、持ち主の魔法特性に合わせて色が変わる。もしかしたら、普通に魔法の学習を積むだけでは見つけることのできない適性を教えてくれるかもしれない」
俺とコトは差し出された魔水晶を一つずつ受け取る。
「魔法は適性の有無で上達効率が大きく違ってきてしまう。自分の得意分野を教えてもらうことは、進むべき道に悩んだときに助けになってくれるはずだよ」
この透明な球体には先生の愛情が込められている。先生が見てきたであろう多くの教え子たちの挫折の上にこの魔水晶があり、魔水晶は先生の想いそのものだ。
もっと上手くならないといけないな、そう心の裡で呟き、俺は魔水晶を握りしめた。