赤の魔女
竜を目の前にして私は立ちすくんでいた。
大切な人がいなくなってしまう。竜の生贄として。私の元からいなくなってしまう。
ナユタは一人だった私は外の世界に連れて行ってくれた。私はナユタがいたから広大な世界を知ることができた。ナユタは私にとって世界そのものだ。「ずっと一緒にいる時間が続けばいいのに」私はそう願った。
私のたったひとつの願い。それが今目の前で打ち砕かれようとしている。
私は無力だ。ナユタのために何もしてあげることができなかった。ナユタが苦しんでいるのに、私はナユタを救うことができない。
ナユタを救いたい。どんな手を使っても良い。ナユタがいない世界を生きるくらいなら、例え私の命と引換えだとしても構わない。力を。ナユタを救える力を。
私は一冊の本を取り出した。バーデンにもらった物だ。本当に彼が言った通り、「最低の状況をなんとかする」力があるのかは分からなかった。でも、私にはこれしかない。なにもせずにナユタが消えるのを見ているだけは嫌だ。
今日、ここに来るのが遅くなったのは、この本を読んでいたからだ。
バーデンに本を貰ったものの、怖くなって触ることすら憚られていた。何かとてつもないことが起きるのではないか、そう思うと中々本に触れる勇気が持てなかった。
でも、昨日の夜になって、私には何もできないという無力感から、この本に頼ろうと思った。私には何もできないけど、この本なら何とかしてくれるんじゃないか、祈るような気持ちで本を手に取った。
この本には術符が記されている。それも非常に長い術式だ。これ程の魔術を私が使えば、私自身も何かの傷を負わざるを得ないだろう。
「それでも」
ナユタ。待ってて。必ず助け出してあげるからね。
本に記された起動術式の詠唱を始める。
詠唱を始めると、次第に周りが暗くなり、まるで世界でひとりぼっちになったようだった。何もない暗闇でただ一人、術符を唱える。
「本当にいいの」
目の前に女の子が現れた。それは私自身だった。
目の前の私は心細そうな表情でこちらを見ている。
「いいの」、と私は答えた。すると、もう一人の私は優しげな目をして頷いた。
「強くなったね」
もう一人の私はそう言い残して消えた。
もう一人の私が消えると、今度は背の高い女性が現れた。
女性は私よりもずっと大人に見える。髪はくすんだ赤い色で、ゆるゆると腰まで伸びている。
なんて綺麗な人なんだろう。
だけど、どこか哀しげな眼をしているように見える。
女性は私に語りかける。
「どうして力が欲しいの」
その声はすごく冷ややかで、何もかもに興味を失ってしまっているようだった。
少し喉が震えて声が出しにくい。
でも、言わないといけない。
「大切な人を助けたいの」
赤い髪の女性はうつむいて何かを考えているようだ。
「いいの? 呪われた力よ」
「いいの。たとえ私の命と引き換えでも助けるって決めたから」
女性は少し顔を上げて上目遣いにこちらを見た。
目と目が合う。私の身体が強張るのが分かる。
「わかったわ。でも、あなたは呪われた魔女の運命からは逃れられなくなるわよ。それでもいいの? 」
「大丈夫。魔女だろうと呪われていようと、ナユタのいない人生に比べたらなんてことないもの」
「一途なのね。好きよ、あなたみたいな人」
女性がふわりと浮かんで私に近寄る。
華やかな香りが私を包む。何の香りだろう。
ぼうっとしていると、女性の顔が目の前に近づいていた。
唇と唇が重なる。
「私の名前はグロリア。魔女よ。また会うことになるわ。そういう呪いなのだから」
目の前にいたはずのグロリアは一瞬にしていなくなり、目の前には小さな火が暗闇の中でぽつりと光を放っている。
火はどんどん大きくなり、それとともに辺りは光に包まれていく。
いつしか辺りに光が戻り、元の世界が広がった。
目を落とすと、さっきまで右手に持っていたはずの本は小さな火となり消えていた。
私が火を握ると、拳に熱が広がった。熱は全身に駆け巡り、強い力を感じる。
「これが、魔女の力」
なんとなくだけど、身体に広がる熱はグロリアのものだと思った。あの赤い魔女の持つ溢れんばかりの力が身体の隅々まで血液のように巡っているのだ。
いつもと違うのは身体の熱だけではない。どこか、私ではないような感覚が身体に広がっている。
魔女としての本能とでもいうのだろうか。目の前の敵を倒す術が身体に染み込んでいっている感覚だ。
これが呪いなのかもしれない。
どうしようもなく抗いがたい、魔女としての運命を、たった今私の身体は背負ってしまったんだろう。
一歩、前へ踏み出す。
「ナユタを」
思いっきり踏ん張って足に力を込める。
「ナユタを返せ」
跳び上がった私の身体は竜の元へあっという間に辿り着く。
熱を帯びた拳が竜の顔を貫く。竜が真横に吹き飛ばされていく。
吹き飛ばされた竜の体は祭壇から落ちていく。地面に叩きつけられ、巨体の周りには土煙が上がる。
さすがに竜だけあって頑丈だ。相当の威力を持って吹き飛ばされたというのに、どこにも傷は付いていない。
竜が体制を整える前に、私は祭壇を降りて竜との距離を詰める。
起き上がった竜は向かってくる私に狙いを定め、炎を吐き出す。
「ナユタ、もう大丈夫だからね」
拳が熱を持つのがわかる。
私に襲い掛かる火球に向かって拳を突き出しイメージを拳に伝える。
「貫け」
拳の先に術式が展開され、弓から放たれた矢のごとく火柱が出現する。
私の前に現れた火柱は竜のブレスをかき消し、竜に襲いかかる。瞬時に危険を察知した竜は飛び上がって火柱を避けた。
大きな翼で空を舞う竜の動きを目で追う。
竜は飛んだ勢いに任せてこちらに突っ込んでくるようだ。竜が羽ばたく度に空気が揺れた。
竜が重力に身を任せて落下してくる。翼を畳んだ竜の落下速度は高速化魔法に匹敵する速さだ。もしかしたら、並みの高速化魔法より早いかもしれない。
「どうしようかな」
その気になれば避けることはできそうだけど、わざわざ無防備に向かってきてくれるのをみすみす逃したくはない。
「よし、いけるよね。グロリア」
魔女の呪いが染み込んだ身体はそれ自体が魔具であり、術符であり、魔法だ。魔法をイメージして、身体を巡るあの赤い魔女の力を開放させれば、イメージ通りの魔法が使える。
ただ、できるのはあくまで私がイメージでき、なおかつ赤の魔女が秘めている力だけだ。赤の魔女は火の魔法が得意だ。特に私の身体を火で強化させるのが得意みたいで、火に触れていると生命力がみなぎっていくようだ。
得意ということは、威力が大きくて早く発動できるということだ。
「つまり、こういう時にうってつけってことかな」
赤竜が上空から突っ込んでくるのを見極めて、寸前でかわす。赤竜の攻撃を避けた私は、すれ違うようにして跳躍する。
狙うのは腹部だ。竜の背中は鱗がある分、硬い。狙うなら柔らかい腹部だ。
「よっと」
右足に込めた熱量が竜の腹部に放出される。足の感触でまともに当たったのが分かる。足を竜の腹にめり込ませながら、身体を回転させる。
歯を食いしばりながら、右足に推進力を加える。燃え盛った右足はさらに竜の腹を抉り、弾き飛ばした。
竜が背中を地面に打ち付けながら転がっていく。
何度か地面に身体を打ちつけてから、なんとか両翼で地面にしがみついてこちらの攻撃に備える。その目は獰猛な爬虫類の目そのものだ。
「私を殺すつもりだね」
そのつもりなら、かかってきたらいい。
私は負けないから。
竜が叫び声をあげる。耳が割れそうなほど大きい。
竜が地面を蹴ったのが分かった。
「速い」
竜はあっという間に私の前に現れ、翼で殴りかかろうとしている。
「物理攻撃が得意なのはお互い様かな」
次々と繰り出される竜の攻撃を腕でガードしながら応戦する。
普通なら、竜に殴りかかられたら即死していると思う。これが魔女の持つ力なんだろうか。魔女なのに肉弾戦が強くなるのは引っかかるきもするけど、得意なのは仕方がない。この力をフルに使うとしよう。
打ち合いが続く。この赤竜、竜なのにパンチは速いし、蹴りは重い。竜と言えば炎のブレスが恐ろしいと思っていたけれど、こんなにも格闘慣れしているとは。
「貴様、魔女に魂を売ったな」
「そうみたいだね。お陰であなたと戦えてる」
「人とは業が深いものだな」
竜が蹴りを放つ。腕でガードできたけど、それでも威力を殺しきれずに吹っ飛ばされる。私の身体が宙に浮いたのを狙って、翼での一撃で追い打ちをかけてくる。
「業? 違うよ」
襲いかかる翼をいなしながら竜との距離を詰める。竜は攻撃をかわされたせいで態勢が十分ではない。
「愛だよ」
アッパーが竜の首元にヒットする。燃え盛る拳が竜の表皮をじりりと焼いたのが分かった。
首を殴られ、竜の身体は伸び切っている。ここぞとばかりに、拳を腹に打ち込んでいく。打ち込むたびに竜の白い腹が黒く染まり、焦げた匂いが辺りに広がる。
グワ、と竜の唸り声が聞こえた、と思ったのと同時に右側に衝撃が走る。
竜の蹴りが入っていた。竜が身体を捻り、私を吹き飛ばすために渾身の蹴りを放ったのだ。
「くっ」
地面に叩きつけられ、痛みが全身に広がる。
すぐさま、顔を上げ、竜を確認する。
「まずい」
竜はブレスの態勢に入っていた。今にも炎を放ってきそうな勢いだ。
こっちも火炎魔法を打ち込まないといけない。痛みが残る身体を急いで起こす。
ダメだ、間に合わない。
そう思った時だ。
グッ、と再び竜の唸り声が響く。今度のは、さっきのよりくぐもった声だ。
竜の動きが止まった。
何が起きたのかは分からない。でも、私の身体はほとんど反射に近い速度で竜に向かって走り出していた。
さっき込めた火炎魔法を右の拳に込める。
「うおぉぉぉ!」
竜の腹に拳が入る。私が首から下げている指輪が光ったのが分かった。
拳がめり込んだ腹から爆発が起きる。爆風で竜の身体は弾け飛び、私の身体は熱風で包まれる。
竜が身体を燃やしながら地面に落ちていく。炎は竜を飲み込むように燃え盛り、おぼろげに映る竜の鱗は黒く変色していた。
さらに、燃えゆく竜の背中にはナイフが刺さっていた。
それはナユタのナイフだった。




