執行前
「ナユタ。おはよう」
ふと後ろを振り返るとコトが俺の袖をつかんで立っていた。
「おはよ。どうかした?」
コトはこっちを今にも泣き出しそうな目をしながら何か言おうとしている。
それでも、涙を流さないように堪えているからか、コトの口から出るのは言葉になっていない声ばかりだ。
「な、なゆた。ナユタは、ほんとうに、いっちゃうの?」
「うん、そういう決まりだから」
俺はコトが本当に言いたいことを知っている。
そして、それを今日は言わないようにしていることも知っている。
俺が生贄になると決まった日、俺の前に真っ先に現れたのはコトだった。
コトは俺に生贄になることの真偽を確かめ、俺は受け入れたことを伝えた。そのときコトがものすごく怒ったことはよく憶えている。
なんでそんなに冷静なのか、なんで嫌だって言わないのか、色々言っていたが、つまりは生贄にならないで欲しいということを必死に訴えていた。
とにかくコトは怒っていたし、泣いてもいた。
あの日、コトは泣き疲れて寝てしまうまで俺を説得しようとしていた。でも本当はコトもどうにもならないというのは分かっていたのだろう。
その日以来、コトは生贄のことに触れるのをやめた。
「コト、ウチに行こう」
こんな人目につくところでは話にくいだろう。そう思ってコトを家に誘った。
コトはうつむきながら頷いて、俺の手を握った。
* * *
俺が生贄に選ばれたのは両親がいないからだ。
生贄は村の子どもでなくてはならないのだが、通常は誰が選ばれても親や親類縁者が許さない。
村の寄り合いでの決め事は多数決によるため、その気になれば生贄を決められないことはないが、決めた人間はその子の親から一生恨まれ続けることになる。
誰だって恨みを抱えて生きていたくはない。
つまり、俺のように両親がいない子どもというのは生贄にするには丁度良いのだ。
両親は去年竜に襲われて死んだ。
俺も今日の夜には竜に食われるだろう。
生贄になることを告げられたとき、俺は運命だと思った。
両親が死んだときからこうなることは避けられないと薄々気付いてはいた。
それでも逃げることもせず、今日まで生きてきたのは俺が生贄になることで誰かの命が救われると思ったからだ。
竜に生贄を捧げるのは十年に一度。少なくともコトに生きていて欲しいという俺の願いくらいは達成できるだろう。
コトは幼馴染で、両親の仲が良かったことから小さい頃からよく一緒に遊ぶ仲だった。
引っ込み思案なところがあるコトを村の外へ連れ出して、知らない場所を探索した。
あの頃はとにかくコトと森や山を駆け回るのが楽しくて仕方がなかった。俺はコトに見たことがない物や景色を見せたかったし、コトは俺に色々な表情を見せてくれた。
コトを見るたびに、俺は生贄になることを決めてよかったと思えた。
俺が死んでもコトなら強く生きてくれるはずだ。
でも、もしもこれが逆だったならどうだろう。コトが生贄として死んで、俺が残されたら。
とても生きていける勇気はなかった。生きる代わりに後悔を背負い続けるくらいなら、自分が死んでしまったほうがずっと良い。
残された命はほんのわずかだ。それでも、不安も恐怖も感じなかった。
* * *
「さっきは、その、ごめんね。あのままだったら泣いちゃってたかも」
コトは家まで移動する間に落ち着いたようだった。
どこか沈んだ空気は拭い去れないものの、懸命に明るく振る舞おうとしているのがわかった。
「いや、良いんだよ。コトがしたいようにすればいいし、泣きたいなら泣いても良い」
すこし嘘をついた。
本当はコトが泣いているのは他の人に見られたくなかった。
自分だけが知っている秘密というほどでもないが、少なくとも誰もが見て良いものとは思えなかった。
「私ね、ナユタがいなくなっちゃうとは思ってないから。ナユタは明日も、その次の日もずっと生きてるって信じてるから」
そう言うコトは俺をまっすぐに見つめて左手を両手で包み込むように握った。
「うん。ありがとう」
それしか言葉が出なかった。
例えそれが嘘だとしても、肯定するしかなかった。
俺はこれまで生を諦め、死を受け入れてきた。そうすることでしか今日まで正気でいられなかっただろう。
それでも、コトは生を諦めることを許さなかった。
「あとね、これ。お守り」
コトはそう言うと左手の薬指に指輪をはめた。
「ナユタ、生きて」
ああ、なんて残酷で優しい人なんだろう。
コトは今まで生贄のことには触れないようにしていた。
だが、それはコトが抱える不安の裏返しだったのだろう。
口に出したくもないこと。それでも忘れられないこと。
コトは今日まで悩み続けたのだ。
死ぬことで何かを成し遂げたような気になっていた俺とは違い、コトは俺の運命に向き合い続けた。
これはその答えだ。死を前にする者に安易な死を選ばせない厳しさと大切な人へのとめどない愛情、そのすべてがこの指輪には込められていた。
「コト。必ず生きてコトの前に帰ってくるから。そのときは精一杯幸せにするから。だから、待っていてくれますか」
「はい」
こらえていた涙が溢れ出していた。




