プロローグ
雪の降り積もる峠を越えると湖が見えた。
この湖を見ると心が落ち着く。雄大な湖の持つ力がそうさせるのだろうか。
とにかく、今日はこの湖を見ておきたかった。
再び見られるか分からないこの景色を胸に焼き付けたかったのだ。
自然を目の前にすると世界には抗い難いものがあると思いしらされる。
大いなる流れの中では自分の力なんて小さなものだ。
この景色も今日で見納めかもしれない。
己の身体にしっかりと刻み込まれた死の呪縛を思うと、目の前の自然がより一層大きなものに感じられる。それも抗いがたい運命を一身に受け、今まさに暗澹とした未来へと導かれている最中だからだろう。
ひとしきり湖を眺め、来た道を戻る。雪なりの音を聴きながら坂を下り続けると、コイト村の家々が見えてきた。
村に戻ってくるといつもの日常があった。
雪をかく人、薪を割る人、道端で話をする人たち、どれも見慣れた光景だ。
「おう、ナユタ。おはよう」
「おはよう、おやっさん。今日も元気そうだね」
「お前も若いならシケた顔してないで、もっと元気そうにしとけよ」
他愛もない会話をしながら、家に向かう。
家の前には黒の外套を着た男が立っていた。
「やあ、遠いところをご苦労様。待ったかい?」
「いや、さっき来たところさ。風情のある町だね」
男は客人だ。トーマスという。遠い街から俺に会いにわざわざやってきたのだ。
「風情? 三日も暮したらそんなこと言えなくなるよ。それに、ここは町というより、村だろ?」
「とにかく、ここまで来ることができただけで、僕は感激しているよ。なにせ、片道五日の旅だ。山の中で凍死するかとも思った」
まあ、とにかく中へ。そう言って客人を迎える。
俺とトーマスは暖炉の前に陣取り、さっそく話を始めた。
「トーマス。君はどうしてここまで来たんだ? いや、大方の予想はつくが、ここまで来る理由がわからないんだ」
「それは実に簡単な質問だよ。君に興味があるからさ。もちろん、きっかけは大学で君のことを博士から聞いたからだ。でも、僕をここまで動かしたのは好奇心以外の何者でもない」
トーマスは興奮しているようだ。顔が赤らんでいるのは、暖炉のせいだけではないだろう。
「要するに、野次馬根性ってことかい」
「ひどいなあ!僕は君がどうしてこんな状況に身を置くことになったのか、それまでの過程が聴きたいだけなのに!」
トーマスのことは博士から聴いていたから、悪い人間ではないと思っていたが、評判通り素直そうな人間だ。
「あまり身の上話は好きではないんだが」
「そこはここまで来た僕を立ててくれよ。君の話が聴きたいんだ」
「どこから」
「初めから」
俺はため息を一つつき、記憶の糸をたどり始めた。