第三話 偶然の発端と開発
発端は8年前に遡る。
昭和九年(1934年)三月、神奈川県辻堂海岸。現在の汐見台公園のある辺りの砂浜で、とある実験が行われていた。今でこそ砂浜の背後に見事な防潮林の松林が広がっている場所であるが、実験当時は4年前に植林されたばかりの松林の背はまだ低く、遮る物のほとんど無い海岸を海から陸に向けて強い風が吹いていた。
実験を行ったのは近くの平塚にある海軍火薬廠研究部の者達だった。彼らは噴進式信号弾の発射試験を行うためにこの海岸に来ていた。指揮を執っていたのは村田海軍造兵中尉である。この後日本の固体ロケット燃料の開発を主導していく事となる英才であった。
この日、村田らの意図した実験自体は残念ながら失敗した。3発発射した試験体は強風に煽られて姿勢を乱した結果、二発は背後の松林に、一発は海中に突っ込んでしまったのだ。
だが実験の様子を撮影していたカメラは試験体が海中を突き進む様子をしっかりと記録していた。
三日後、村田の元上司である千藤造兵中佐は横須賀の料亭で一人の男と夕食をともにしていた。千藤は村田と同じく火薬の専門家である。現在は横須賀工廠に勤務するかたわら東大工学部の講師もしていた。
一方相手の男は千藤と同期の大八木造兵中佐であった。呉の海軍工廠水雷部に所属する魚雷の専門家である。今日は開発中の酸素魚雷の件で偶々横須賀工廠を訪れており、旧交を温めるために千藤を夕食に呼び出したのだった。
お互い近況を報告しながら酒を酌み交わし良い加減に酔いも回った頃、千藤が話題を変えた。
「平塚の奴らに聞いたんだが、つい先日若いのが実験で失敗した話は笑えたよ。まったく縁日の花火でも少しはマシだろうに」
そう言って千藤は村田が先日行った噴進式信号弾の実験の顛末を大八木に話した。
「おい千藤、ここは小松みたいな上品な料亭じゃないんだぞ。誰が聞いてるかわからん様な所で気軽に話してもいいのか?軍機じゃないのか?」
「別に構わんさ。信号弾なぞ決戦兵器でも何でもない。信号拳銃とかは輸出もしてるんだ。陸さんの研究に対抗してお茶を濁してるだけさ。隠すことなんて無い」
千藤の言う通り、陸軍も2年前より噴進技術の研究を行っており、それに引きずられる形で海軍も研究を始めた所であった。しかし陸軍と違い海軍は噴進技術をどのように軍事利用するかの方針が未だ定まっておらず研究規模も細々としたものだった。
「それで海に落ちた信号弾はどうなったんだ?」
「そのまま100mほど海中を突っ走っていったそうだよ。まぁ元々海に向けて発射するつもりだったから松林に飛び込んだ奴と一緒にちゃんと回収したらしいがね」
魚雷の専門家である大八木は信号弾が水中を100mも進んだという話に興味をもった。
「水中で火が消えないのか?」
「あぁ火薬ってのは組成の中に酸素を元々持っているから燃焼に空気は必要ない。水中でもしっかり燃えるよ。もちろん濡らしてしまうとお陀仏だがな。お前も大学で習ったろう?」
「あぁ確かそうだったな。馬鹿な質問だった。しかし水中でそんなに早く進んだのか?」
「目測だが50ノットは出ていたらしい。確か記録フィルムも撮ったそうだ。興味があるなら平塚工廠に話を付けておくから明日にでも寄ってみろ。どうせ横須賀の用件は済んで明日は暇なんだろう?」
翌日、平塚火薬工廠を訪れフィルムを見せてもらった大八木は、村田らに実験結果を口外しないように念押しすると実験の資料とフィルムを借り出し、その日の夜行列車に飛び乗って呉に帰って行った。
そのフィルムには目測100ノット近くの高速で水中を進む試験体の様子が鮮明に記録されていた。
大八木はフィルムの映像から噴進式魚雷の可能性を閃いたのである。
彼の所属する呉海軍工廠水雷部は昨年ついに水上艦用の酸素魚雷の開発に成功していた。それは既に九三式魚雷として採用されており、目下は潜水艦用の酸素魚雷を開発中であった。しかし酸素魚雷はその高性能と引き換えに面倒な運用と極めて高い価格が泣き所であった。
酸素魚雷は空気の代わりに純酸素を用いる事で航続距離と威力を大幅に伸ばせるとともに、排気のほとんどが水に溶け易い二酸化炭素となる事から航跡が目立たなくなるという利点があった。
しかし純酸素は反応性が高く非常に危険な物質である。主機の始動時に爆発する危険があるため安全性の確保で開発は難航した。海外では開発が断念され、当時の日本海軍部内でも開発中止の声が出ていた程である。最終的に始動時は空気を使用し徐々に純酸素に切り替えるというアイデアで安全性を確保したが、慎重な取り扱いが必要なのは変わりない。また、酸素製造装置が必要であったり、製造や整備の際は入念な洗浄や調整が必要であったりと、運用面でも色々と課題を抱えた魚雷であった。
更に価格の問題もあった。
魚雷とは本来非常に高価な兵器である。その構成部品に主機や各種制御装置を持つため、どうしても高価に成らざるを得ない。例えば八九式魚雷の価格は約2万円である。大卒サラリーマンの初任給が月給数十円、少佐の年俸でも二千円程の時代である。このことから「魚雷一本、家一軒」と言われた程だった。当時の2万円は現在では1億円ほどの価値が有る。実際は家どころか豪邸を建てられる程の価格であった。
酸素魚雷はこれに気室(高圧酸素タンク)や安全装置が追加されるため更に高額となった。中でも気室が問題であった。日本には溶接で高圧に耐えうる気室を製作する技術が無かったため装甲板と同じ材質の金属塊から削り出しで製作する必要があった。当然そのコストは恐ろしい程になる。その結果、酸素魚雷の価格は4万円にもなってしまったのである。
このような運用が面倒で高価な兵器では、いくら高性能でも用兵側の配備は限られてしまう。更に手間と価格に見合った目標以外への使用を躊躇うだろう。このため大八木は酸素魚雷を補完する様な、より手軽で安価な魚雷を模索していたのであった。もし噴進式の魚雷が実現できれば、高速という利点以外にも、主機や気室が不要なそれの価格はかなり安くなるはずであった。
大八木は帰りの夜行汽車の中で寝る時間も惜しんで意見書を書き上げると、呉に着いたその足で上司に上申した。酸素魚雷の運用や価格は艦政本部でも問題視されていたため、大八木の企画はすぐに認められ噴進式魚雷の開発が正式に開始されることとなった。
大八木は早速、平塚海軍火薬廠と打合せを持った。
「村田君、瓢箪から駒とはこのことだが、君のあの発射実験から正式に噴進式魚雷の開発が決まった。これから宜しく頼む」
「大八木中佐。承知しました。失敗が発端であるのは本官としては少々不本意な気分ではありますが微力を尽くします。発射薬については小官にお任せ下さい。この前の実験は黒色火薬でしたが……まぁ花火と一緒ですね。今ちょうど全く新しい発射薬を開発中です。年末までにはご用意できる見込みです」
「ほう、それはどういう物だね?」
村田は火薬の専門家というよりは研究者である。そういった者達の中には専門分野を尋ねられると際限なく話すという特性を持った者もいる。大八木は村田の押してはいけないスイッチを押してしまったようだった。村田は分厚い黒縁メガネを指でクッと押し上げると、堰を切った様に説明を始めた。
「先日の黒色火薬は古くからある火薬でありまして木炭と硫黄と硝酸カリウムで出来ています。非常に安定していて扱いは楽なのですが燃焼の制御が難しい上に推進剤として使用する場合は推力重量比が悪くて正直向いていません。一般的な火器の装薬はニトロセルロースを基剤でありまして黒色火薬よりはマシなんですが、今考えている新しい火薬はニトロセルロースとニトログリセリンの二つを基剤にしようとしています。燃焼が緩やかで制御しやすく重量あたりの発生ガスも多いので大きな推力重量比を期待できます。それに火薬の成形形状にも考えがありまして、燃焼面を色々と変えることにより……」
「分かった分かった、ちょっと待ってくれ。君が何か凄いのを考えているのは理解した。後で報告書にまとめてくれ。それと発射薬の開発については平塚工廠と村田君に一任するから、必要な機材があればどんどん言ってくれ。本件に関して金は呉廠の方から出るから安心しろ」
いつ終わるとも分からない新型火薬の説明を勢い込んで始めた村田の話を何とか止めた大八木は、また変なスイッチを押さないように火薬の話は慎重に避けながら噴進体の仕様や目標性能を詰めることにした。
「まず、魚雷を一から作ると時間がかかり過ぎる。そこでこいつを基に噴進式魚雷を開発しようと思う」
そう言って大八木は机の上に図面を広げた。それは二年前の昭和七年(1932年)に制式化された九一式魚雷の断面図であった。水上艦用や潜水艦用よりやや小ぶりな直径45cmの航空機用の魚雷である。
「これは九一式魚雷だ。もちろん開発した成瀬中佐の了解は取ってある」
大八木は、噴進装置の推力がどのくらいか分からないため、まずは小ぶりな航空機用の噴進式魚雷から開発する事を考えたのだ。航空機用の魚雷は隠密性・長射程を必要としないため噴進式であってもなんら問題はない。
それに小型とはいえ九一式もやはり空気魚雷であり価格は2万円もする高価な兵器である。噴進式魚雷の開発に成功すれば、海軍はそのまま九一式と置き換える予定であった。潜水艦用や艦船用はその成功した技術を転用して将来開発することとした。
開発にあたり、九一式の技術を最大限流用するため、制御装置・操舵機類は九一式と基本的に同一とし、気室と主機を新開発の噴進装置に置き換えた構造とする事が方針として決定した。当然、外形寸法は九一式と同一とし重量は九一式を超えないものとする。価格は九一式の半額の1万円以内に抑え、取り扱いも安全・簡便となる様に心がけるものとした。
そして肝心の目標性能は、雷速100ノット以上、航続距離2000m以上を目指すとされた。
噴進式魚雷の要は当然、噴進装置内の火薬である。これまで予算不足で研究が滞っていた村田ら平塚海軍火薬廠研究部は、呉廠から潤沢な予算を得たことによりボトルネックであった火薬の圧縮成形工程を大型の装置を導入する事で克服した。そして大八木に約束した通り、その年の11月には安定したダブルベース火薬の開発に成功する。
噴進式魚雷では、この新しい火薬を直径15cm、長さ2mの円筒状に成形して筒状のケースに収めて一つの噴進装置とし、これを魚雷内に4本装備することとなった。
弾頭部は九一式そのままとし、魚雷後部にあったジャイロ・深度計・操舵装置類は弾頭部の直後に移設され、リンクを介して縦舵・横舵を操作する。そして気室・主機・スクリューが取り払われた跡地に噴進装置が設置された。
燃焼ガスは魚雷後部に開けられた4つの穴から噴射される。縦舵・横舵が高温のガスに晒される事となるが、海水で冷却されることと燃焼時間が短いことから実用上は問題なしと判断された。
開発は順調に進み、昭和十年(1935年)四月には最初の試作魚雷が完成した。そして炸薬の代わりに同質量の重りを入れた実験弾頭を装備して、呉の大入にある魚雷試験場で最初の駛走試験が行われた。
既に実績のある制御装置に簡素で安定した噴進装置の組み合わせである。試験は特に問題もなく終了し、雷速・航続距離が目標性能を満たして関係者を安堵させた。懸念の価格も1万円を切る目途がついており、取り扱いも簡便そのものである。
今より高性能の兵器が半額以下で手に入るのである。艦政本部は喜びすぐに制式採用を決定した。尚、同年に制式化された潜水艦用の酸素魚雷である九五式魚雷と区別するため、こちらは九五式航空魚雷と呼ばれる事となる。
海軍は既に生産された九一式を九五式に改造し、今後生産する航空魚雷は九五式に一本化する事となった。太平洋戦争の終戦までに九五式航空魚雷は約5000本ほど生産された事から海軍の予算は終戦までに5千万円以上は節約されたと言われている。実に零戦1千機分に相当する。海軍が喜んだのも無理もない話であった。
この後、九五式航空魚雷は着脱式尾部安定板やロール制御機構の搭載、弾頭重量の増加などの改良を加えられ太平洋戦争を迎える事となる。
そして大戦中は、その高い雷速により命中率の向上と雷撃機の被害低減に大きく貢献したと言われている。
辻堂でのロケット発射試験は史実でも行われましたが、全て松林に突っ込んでしまったそうです。本作では試験体の一発が松林でなく海に突っ込み、その話が呉工廠水雷部に伝わった事で話が始まります。
潜水艦用の魚雷開発は次回となります。