第二話 必中の秘密
伊62が使用した新型魚雷は正式名を「九九式魚雷」という。
英艦隊を葬った様子から分かる通り、その特徴は驚異的とも言える雷速であった。しかし従来の魚雷とあまりにも異なる速度故、開発した日本海軍でもまだ運用や戦術が定まっていなかった。
「どうして、たった1射線の魚雷で命中したのでしょうか?襲撃手順も自分が潜水学校で学んだものと異なります。宜しければ理由をお教えください」
艦橋上の見張所で当直の見張りと共に立っていた木梨は足元のハッチを通してその声を聞いた。現在、伊62はペナンに向かって水上航行中である。
どうやら海軍潜水学校を出たばかりの中尉が先任に質問しているらしい。きっと彼は学校では優秀な生徒であったのだろう。もしかしたら教本に書いてある事なら自分より知っているのかもしれない。木梨の襲撃が教本通りで無い事に少々わだかまりを持っているのか上官に対して些か攻撃的な物言いをしている。
「よろしい中尉。ではおさらいだ。まずは学校で教わった襲撃手順を言ってみろ」
指導せずに質問に付き合うとは、全く先任は相変わらず教育好きだな。木梨は内心で苦笑すると見張りを継続しつつ会話に耳を傾けた。
「はい大尉!襲撃の要は敵針・敵速・彼我の距離を正確に把握する事と学びました。このため、まずは潜望鏡で複数回に渡って敵を観測し角度変化から値を推測します。それを元に敵の回避運動も考慮して射法計画を策定、方位盤に諸元を入力して発射します。必中を期するには1500m以内から少なくとも2射線は発射しろと教わりました。また襲撃後は速やかに退避潜航し無音、懸吊して艦の安全を図れとも教わりました」
中尉のハキハキとした声が聞こえる。きっと今は誇らしげな顔をしているのだろうな。先任、未来の潜水艦長をあまり凹まさない様にお手柔らかに頼むよ……木梨は少し中尉を憐れんだ。
「よし、では敵針・敵速・彼我の距離を正確に把握する理由は何だ?」
「魚雷が命中するまでに敵も移動するため未来位置を正確に予測するためであります」
「敵の空母に一発かました時の距離は3000m、最初の駆逐艦を殺った時の距離は1000mだった。教本にある八九式だと到達時間はどのくらいだ?」
「八九式魚雷の雷速は45ノット、おおよそ秒速23mでありますから3000mで130秒、1000mで43秒かかります」
中尉は換算表を丸暗記しているのかスラスラと答えた。通常の魚雷の雷速は、どの国のものでも45ノット前後である。日本海軍の誇る酸素魚雷でも50ノット弱に過ぎない。艦船に比べれば高速ではあるが、こうして見ると魚雷と言うものは随分と脚が遅い兵器である事がわかる。
「優秀だな中尉。敵速を15ノットと仮定すると、その時間で敵はどのくらい移動する?」
「3000m先の敵は1000m、1000m先の敵だと330m移動します。敵も回避運動を行いますから必中を期するために正確に敵針・敵速を測定した上で回避範囲を包むように複数射線の発射が必要となります」
「中尉、結論が早いぞ。それでは我々が装備する九九式の速度はいくらだ?」
「200ノットであります、大尉」
そう、九九式魚雷の雷速は驚くべきことに200ノットに達する。従来の魚雷とは次元の異なる速さであった。当然それを生かす戦術を用いてしかるべきであった。
「先程と同じ条件なら、九九式だと何秒かかる?」
「はい……あー200ノットだと……おおよそ秒速100mですから3000mで30秒、1000mで10秒になります」
はじめて中尉が言い淀んだ。流石に教本に載っていない事はすぐには答えられないらしい。九九式については教本に記載されていない。未だ九九式の運用は固まっていないため潜水学校でも教えられないのだ。
「その時間で相手はどのくらい移動する?条件は同じ15ノットだ」
「3000m先の敵はおおよそ230m、1000m先だと77m移動します」
この敵の移動可能距離をどう考えるかが問題だ。さて中尉はこの距離を数字ではなく、きちんと物理的に捉えているかな?ここからが教育の始まりだ。木梨は唇を歪めると素知らぬ振りで見張りを続けた。
「先ほど沈めた空母と駆逐艦の全長はどのくらいか知っているか?」
「イラストリアス級は全長約230m、N級駆逐艦は約100mであります」
「物知りだな中尉。つまり敵はだいだい船体長に相当する距離だけ移動できる。それでもし中尉があの空母か駆逐艦の艦長だったら、その移動距離で魚雷を回避できたか?」
「それは……」
中尉は言葉を詰まらせた。
艦船の進路というものは、その巨大な慣性と水面の特性から直ぐに変えられるものではない。舵を切っても船体は舵と反対側に船尾を振りながらしばらく直進してしまう。いわば自動車のドリフトの様な状態である。そして歪な円を描きながらようやく旋回する。
船体の向きが90度変わるまでの距離を縦距というが、駆逐艦のような小回りの利く艦でも縦距は船体長の2倍以上、満載状態の輸送船や空母のような大型艦の場合は数倍に達する。
つまり目標となった艦船は舵を切った後もしばらく横腹を晒したまま進まざるを得ないことを意味する。通常の魚雷が相手であれば魚雷到達までに進路を変えられる可能性があるが、九九式魚雷に狙われた場合は進路を変更する暇もなく魚雷が到達してしまうことになる。
「どうだ?回避できたか?」
「……できません。船体長くらいの距離では針路どころか姿勢もほとんど変えられません。回避は不可能であります」
「そうだな。もしかしたら2000mや3000m先の駆逐艦なら避けられるかもしれん。但しそれも魚雷発射後すぐに対応できた場合だ。普通は魚雷を見張りが発見して艦長に報告をあげて操舵手がやっとこさ舵輪を回すまで、たっぷり10秒はかかるだろうな。その時には魚雷はもう避けられん距離まで近づいとる。つまり面倒な敵針・敵速の測定なぞせんでも敵の鼻面のちょい先に魚雷を放ってやれば命中するという仕組みだ」
中尉は納得した様子だった。しかし先任の教育はまだ半分しか終わっていない。これも立派な艦長になるためだ。もう少しがんばってくれ。木梨は心中で中尉を応援した。
「中尉の質問はもう一つあったはずだな。なぜ襲撃後すぐに潜行退避しなかったのかと」
「はい。潜水艦長は大切な艦と数十名の乗員の命をお預かりしております。怯懦であってはなりませんが無謀も良くありません。襲撃が成功したならば速やかに艦と乗員の安全を確保するのが正しい行動ではと愚考いたします」
中尉は先程の失点を少しでも取り返そうと意気込んで答えた。意気込みすぎて明らかに上官に対して不敬になっていることに気付いてもいない。
「安全を確保するという中尉の考えは正しいな。それで潜航すれば安全は必ず確保されると中尉は言うのだな?」
「はい、いいえ……そのように潜水学校で学びました。一旦発見された潜水艦には反撃の手段は無い、ひたすら敵の探知と攻撃を躱して敵が諦めるまで静かに耐え忍ぶのみだと」
軍隊では上官に直接否定の答えをしてはならない。中尉は「はい・いいえ式」で自分の前言を否定すると悔しそうに唇を噛んだ。
現代の潜水艦と違い、当時の潜水艦は実質的には可潜艦でしかない。魚雷も浅深度でしか発射できず三次元機動もできない。一旦潜水すれば水上艦に対する攻撃手段は皆無であり中尉の言うように敵が諦めるまで息をひそめるしかなかった。
「潜水してしまえば敵に手も足も出なくなる。敵が早々に諦めてくれる保証はない。偶然の爆雷一発でお陀仏の可能性も高い。それでは安全を確保したとは到底言えんな。それで中尉は大切な艦と数十名の乗員の命を預かれると胸を張って言えるのか!増上慢も甚だしい!」
「はい、申し訳ありません。しかし自分はそれしか学んでおりません」
「艦と乗員の安全に知恵を絞るのが艦長の務めだ。その頭は何のためについている!その眼は何を見てきた!潜水する以外に方法は無いのか!」
「しかし浮上しての水上砲戦など自殺行為だと学校で……あぁ!我々には九九式がありました!」
「その通りだ中尉。我々には今、駆逐艦でも一発で仕留められる魚雷がある。さてもう一度聞く。潜航すれば安全は確保されると思うか?」
「はい、いいえ。潜航しても安全は確実ではありません。状況が許せば積極的な反撃により安全を確保すべきと愚考します!」
「反撃が許される状況とはなんだ?」
「敵が少数で各個撃破できる場合であります。ただし航空攻撃が予想される場合はやはり速やかに潜航退避すべきであります」
「よろしい!大変良い回答だ。質問は以上だな。中尉、持ち場に戻れ」
「大尉、ご教示ありがとうございました!」
中尉が持ち場に駆け去った頃合いを見て木梨はラッタルを降りて発令所に戻った。上で木梨が聞いていたのは分かっていたのだろう。先任大尉はサッと敬礼するとニヤニヤしながら言った。
「艦長、申し訳ございません。差し出がましい真似をしました」
「いや、良いものを聞かせてもらった。僕も勉強になったよ。それより先任、今日は随分と優しいじゃないか」
「必ず反撃とか抜かしたらぶん殴るつもりでしたが、ちゃんと理屈は分かっとる様です。少しは見所がありますな」
「意見具申してくるだけでも有能だよ。それに頭も良さそうだ。きっと彼は良い艦長になるよ」
3日後、伊62は途中で更に2隻の貨物船をスコアに加えつつペナンに戻り補給と報告を行った。
米軍であれば、このころからASWORGに代表される戦闘報告の組織的な分析と活用(Operation Research)を行い、戦訓を戦術や装備に生かす活動が始められていた。
だが当時の日本海軍の戦術報告書である戦闘詳報は主計課の管轄であった。組織的な分析や活用は行われず、ただ主計課の倉庫に仕舞われるだけである。このため木梨の新型魚雷の特性を生かした戦術は、本来であれば誰にも注目される事は無いはずであった。
しかし今回は敵空母撃沈と敵艦隊撃滅の大戦果を伴ったため、木梨は本土にまで戻り直接報告を行う事となった。そしてこの報告が日本海軍の潜水艦の戦術や装備だけでなく戦略にまで大きな影響を与える事となる。
これまで潜水艦は一旦発見されると護衛艦艇から逃げ回るだけの存在であった。しかし確実に命中する魚雷を得た今、潜水艦は狩られる側から狩る側に立場を変えたのだった。
それを可能とした九九式魚雷は、実は全くの偶然から生まれた産物であった。
次回からはロケット魚雷の開発話になります。