第十七話 ウラジオストク攻略
更新が遅くて本当に申し訳ありません。ようやくソ連と開戦しました。
――日本海 ウラジオストク沖 日本海軍 航空母艦 赤城 艦橋
日本人の一般的な感覚では冬の日本海は常に荒れている印象が強い。しかし大陸寄りの海域になると日本海はまた違った表情を見せる。西からの強い季節風は朝鮮半島と大陸東岸沿いに伸びるシホテアリニ山脈に遮られ、オホーツク海から押し寄せるアリューシャン低気圧で作られた高波も間宮海峡を埋め尽くす流氷に遮られる。
その結果、周囲の海面に白い波頭は目立つものの、赤城の4万トンの巨体で艦の動揺は発艦が可能な程度に抑え込まれていた。
残念ながら天候だけは晴朗でない。空には雲が低く垂れこめ細かい雪がちらついている。気温は日中でありながら氷点の遥かに下にあった。
海の水もたいそう冷たかろう。夜明け後でも未だ暗い海を眺めながら南雲は思った。トンボ釣りの駆逐艦はいるが、この海に落ちた搭乗員はまず助かるまい。まぁこの艦の練度でそのような事故は無いだろうが……ふと南雲は自分をこのような場所に送り込んだ男の顔を思い出し顔を顰めた。
「発艦に支障ありません。予定通り出撃可能です」
草鹿が気遣う様に言った。南雲の表情を作戦への不安と取ったらしい。南雲は頷き飛行甲板の方へ目を移す。
艦橋から見下ろすそこには既に発艦準備を整えた攻撃隊がプロペラを回し整列していた。ミッドウェー攻略部隊の方は機体が新型に更新されているそうだが、こちらは真珠湾の頃と変わらない機体が並んでいる。
それらの見慣れた機体の周りを整備兵らが走り回っていた。彼らは本作戦前に慌てて調達された陸軍の分厚い防寒衣を作業衣の上から羽織っている。現在赤城は氷点下の中を合成風力を稼ぐため風上へ向けて全速で航行している。吹きさらしの甲板に作業衣だけでいたならば、ものの数分で凍死してしまうだろう。
右舷に目を向けると数百メートル先には赤城に併走する僚艦の加賀が見えた。その甲板上でもここと同様の光景が繰り広げられているはずである。実は一航戦には他にもう一隻空母がいたが攻撃には使用できない。
「今回は強襲となる。敵の抵抗も激しいだろう。攻撃隊だけでなく艦隊への襲撃も予想される。警戒を厳とせよ」
南雲は先刻攻撃隊の搭乗員や士官らを前に語った訓示を繰り返した。
「風龍のお蔭で赤城と加賀は全力出撃できます。攻撃隊にも護衛を十分つける事が出来ました。風龍からは既に一個中隊が上がって直援任務についております。電探も新しくなりましたから少なくとも艦隊が奇襲を食らう事は無いでしょう」
風龍とは本作戦にあたり臨時に編入された中型空母であった。英国停戦後に購入された艦艇の一隻であり、元の艦名はHMSフューリアスという。本来であれば30ノットを超える高速と約50機の航空機搭載量を持つそれなりに有力な艦であったが、艦齢25年を超え老朽化している上に機関の不調で現在は20ノット程度の速力しか出せない。これでは攻撃装備の艦爆・艦攻は発艦できないため今回は戦闘機部隊のみを搭載して作戦に参加していた。当然ながら艦隊防空のみを期待されている。
「せめて宣戦布告が開戦前日であれば敵に余計な時間を与える事も無かったのでしょうが」
草鹿が残念そうに零す。日本は三日前に中立条約の破棄と宣戦布告をソ連に通告していた。既に昨年暮れより戦火を理由に外交官・武官の家族らをシベリア鉄道経由で帰国させている。現在モスクワに残っているのは佐藤尚武駐ソ大使を含めた最低限の人員のみであった。宣戦布告後でも戦時交換で帰国できる可能性はあるがソ連が彼らをどのように扱うか知れたものでは無い。全員が決死の覚悟をしていた。
「仕方無かろう。新皇帝の御希望だ。それに陛下のお言葉添えもあれば政府として無下にも出来ん」
開戦の前に人民を説得する機会を与えて欲しい、その様にウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフが陛下に希望したのである。
彼は父の大公や叔父のニコライ二世の様な貴族然とした風貌ではない。どちらかと言えば田舎の農夫の様な平凡な顔立ちである。彼はその朴訥な雰囲気のまま陛下に訥訥と訴えた。その必死さに動かされたのか普段あまり考えを表明しない陛下御自らが政府に「配慮」を求めていた。
ウラジーミルとしては人民を戦争の苦しみから解放するという大義名分がある。それが建国のために派手に戦争をすれば本末転倒であった。街を破壊し新たな国民に最初から反感を持たれれば今後の統治にも差障りが出るだろう。その様に日本政府も考え軍に「配慮」を求めた。
その結果、宣戦布告が開戦の三日前に行われる事となっただけでなく、攻撃にも様々な制約が付けられる事となった。
攻撃対象を軍事目標のみとするのは当たり前で、市民の被害を避けるため攻撃は日中の時間帯とし、更に事前に通告した時間に攻撃開始するものとされた。攻撃対象となる施設をあらかじめビラで配布する念の入れようである。まるで日を決めて名乗りあう中世の戦の様であった。
だが驚くべきことに陸軍はその制約条件を飲んだ。満州国の経験もある陸軍は今回も何がしかの成算があるらしかった。であるならば本作戦では助攻に過ぎない海軍も条件を飲むしかなかった。
「陸軍の工作とやらに期待するしか有りませんね」
1943年(昭和十八年)2月、こうして南雲の率いる一航戦は、わずか2隻の空母戦力で大小200隻以上の艦艇を有すると推定されるソ連太平洋艦隊の根拠地ウラジオストクへ白昼堂々と強襲を仕掛けようとしていた。
――広島湾 柱島泊地 連合艦隊旗艦 大和
なぜ一見無理攻めと思える攻撃が行われる事になったのか、その理由は3ヵ月前に遡る。
昭和十七年(1942年)十一月、柱島泊地に停泊する戦艦大和の大会議室に各艦隊の主だった司令部要員が集められていた。長門より大きくなったとはいえ大和の大会議室は将官で一杯である。先日竣工した姉妹艦の武蔵には司令部機能充実のためより大きな会議室が備えられており、追って大和も同様の改装を受ける予定ではあったが、現状はこの会議室で我慢する他なかった。
会議は始まりから荒れ模様であった。
「皆ご苦労様。今日は連絡に色々と面倒をかけた様ですまなかったね」
会議の冒頭で挨拶がてら山本五十六連合艦隊司令長官が今回の招集の経緯について詫びた。山本の背後には宇垣参謀長と黒島亀人首席参謀が控えている。
今回の会議招集にあたっては情報の秘匿徹底が指示されていた。そのため命令も電信ではなく伝令の直接伝達により行われている。召集の目的も表向きは知らされていない。
「皆はもう分かっていると思うが年明けに我が国は攻勢に打って出る。相手は米国とソ連だ」
将官らが無言で頷く。山本の米ソ両面作戦という話にもかかわらず彼らに驚いた様子は無い。全員が今回の目的が先日上奏された海軍の戦争方針に絡んだ作戦説明である事を確信していた。方針の策定にあたっては軍令部と連合艦隊司令部から佐官連中の少なくない数が関わっている。彼らの繋がりから各艦隊司令部も新たな方針の内容をある程度は知る事ができていた。
だが山本の次の言葉が全員に爆弾を落とす事となる。
「その前にちょっと暗号に問題がある事が分かってね。おかげで今回は皆を伝令で呼ぶ羽目になったよ」
いやぁまいったよと山本は笑いながら丸刈り頭を撫でる。まるで女達が旦那の愚痴を零す様な軽い調子とは裏腹に明かされた事実は重大だった。二大国相手の両面作戦にも驚かなかった将官らに動揺が走る。暗号通信は軍の情報伝達の基本である。決して井戸端会議のごとく軽く扱って良い話では無かった。
「暗号書か乱数表の漏洩が発生したのですか?つまり今度の攻勢に合わせて近々更新が行われると言う事で宜しいか?」
小沢治三郎中将が皆を代表して質問した。周囲の将官らも頷く。彼らも海軍が運用する各種暗号について熟知している。当然それが運用も含めて非常に強度が高い事も理解していた。小沢の言う通りたとえ機械が敵の手に落ちたとしても暗号書と乱数表が無ければ解読される事は有り得ないはずであった。
「それについては作戦と一緒にこれから黒島君から説明してもらう」
山本に促され黒島が前に出る。
「敵は我が軍の暗号を解読しております」
黒島の言葉は更なる混乱を部屋に巻き起こした。暗号が解読される事は軍の情報が敵に筒抜けとなるのと同義である。作戦行動から補給活動まで敵に知られている状態でまともな戦争など出来るはずが無かった。
「確証はあるのですか?」
小沢が問い質す。
「こちらが先日停戦した英国からの情報です」
そう言うと黒島は用意していた書類を配った。そこに記されていた事例はどれもがここに集められた将官らが関わった物である。
「もちろん小官も当初は信じられませんでした。しかし実際に解読された暗号通信を見せられては信じざるを得ません」
書類を繰る音とともに部屋のあちこちで呻き声や溜息が発せられた。
「解読されていたのは我々の海軍暗号と外務省の外交暗号です。忌々しい事に陸軍暗号は破られていなかった様です」
室内の呻き声が更に大きくなった。
英国との停戦により枢軸国が得た情報の中で最も衝撃が大きかったのは暗号に関するものであった。
それまで日独は自国の暗号にそれなりに自信を持っていた。連合国に解読されているという事態は想像すらしていなかったのである。
英国情報部の話では解読情報は全て米国から齎されていたと言う事だった。解読方法については英国も教えられていなかったという。その詳細は不明だが米国らしく作業は自動化されているらしい。更に一般的な換字式暗号ではいくらその変換を複雑にしようと理論的にはいつかは解読されてしまうとの事であった。
陸軍の暗号は破られなかったとは言うものの、その強度が高かった訳ではない。暗号方式の基本は他と同じである。単に英米が海軍ほど注目していなかった事と、陸路で有線も使える陸軍は通信の絶対量が海軍に比べて圧倒的に少なかったからに過ぎない。
この情報に日独の軍部諜報担当者、外交担当者は当然ながら強く反論した。それ程に彼らは自分達の暗号強度に自信を持っていたのである。しかしその自信も英国停戦前の軍事暗号、外交暗号の解読情報をいくつか開示された事で呆気なく霧散してしまった。
特に日本の外務省に至っては開戦前から外交情報が筒抜けだった事に大きな衝撃を受けていた。特に開戦前の戦争回避の努力が全て米国の手の平で踊らされていたという事実を英国から教えられた事で関係者は激昂していた。これにより外務省の親米派は一気にその勢力を減らしたという。
「従って今後は作戦の都度に暗号の差換えを実施いたします。それでも敵の解読手法から通信量を抑えても暗号が効果を持つ期間は2、3ヵ月程度であろうと見ております。敵に与える情報を出来るだけ減らすため少なくとも作戦発動前は伝令を多用する事になります」
状況を理解した皆もその内容に同意し頷く。
「敵が我が方の暗号を解読していたと言う事は理解しました。では敵は何故、我が軍の行動に掣肘を加えなかったのでしょうか。作戦が漏れていたと言うMO作戦時にも敵の反撃どころか妨害すらなかったと記憶していますが」
MO作戦時に南雲の一航戦ともに四艦隊を率いて参加した井上成美中将が質問する。
「六艦隊の活躍によるものです。当時、敵は我が軍の潜水艦に対抗する有効な術を持っていませんでした。それが情報が洩れていても敵が消極的であった理由です」
そう言うと黒島は第六艦隊司令の小松輝久中将に頭を下げた。小松はそれに軽く頷いて応える。
「マダガスカルの時の様に誘い出して潜水艦で一網打尽に出来れば楽なんだけどね。今回の作戦では六艦隊を頼りにできないんだ。小松君には悪いがね」
そこで井上と小松の会話に山本が割り込んだ。
「我が軍の運用する魚雷は敵艦の攻撃圏外から回避の余裕も与えず一方的に攻撃できる。だからこれまで我々の潜水艦は無敵だった」
説明を促されたと理解した小松が皆を見まわす様にして話し始める。しかしその言葉は過去形であった。
「現在は違うと言う事ですね?」
井上が確認する様に尋ねた。質問と言うよりは、この場の全員の理解を深める意図があるらしい。
「その通りだ。新型魚雷は水上艦に対しては現在でも無敵を誇っている。しかしそれを運用する潜水艦は航空機に対して脆弱なままだからな」
小松の言葉に会議室の全員が頷く。その程度の事はここに居る全員が理解している。
「現在米国は戦線をハワイ、ミッドウェイにまで後退させている。敵艦隊の活動も今の所は低調だ。だから現在六艦隊はハワイと米国本土を結ぶ航路と西海岸を中心に展開しているのだが……」
「敵の護衛空母か」
南雲が呟いた。小松は頷き説明を続ける。
「あぁ、敵はすぐに輸送船団を編制し小型の空母を随伴させる様になった。空母とは言っても輸送船に飛行甲板を貼り付けただけの代物だ。搭載機も20機程度に過ぎん。だがこれで敵は船団上空に航空機を張り付ける事が出来る様になった。潜水艦にとっては十分以上に脅威だ。沿岸部でも陸上機が常に警戒している。おかげで我が軍の潜水艦はまず日中に襲撃する事が困難となってしまった」
「だが夜ならば航空機も満足に活動できないのでは?」
井上が説明を促すように質問する。
「その通りだ。だから我が方もすぐに夜間襲撃に戦術を切り替えた。だが敵もすぐに沿岸部で夜間でも活動できる大型陸上機を活動させる様になった。今では夜間襲撃も困難な状況だ」
「つまり沿岸部は無理でも敵艦隊や船団に対する夜間襲撃は今現在でも有効と言う訳ですね」
「ほとんどの航路についてはその通りだ。だがハワイ航路では事情が異なる」
「飛行艇ですね?」
井上の相槌に小松は渋面で頷く。
「敵は西海岸とハワイを結ぶ航路に特殊な艦を投入してきた。水上機母艦の類いだが飛行艇を複数運用できるらしい。先日就役した秋津洲の様なフネだな。秋津洲と違うのは、より大型で飛行艇を搭載したまま船団に随伴出来る所だ」
秋津洲は今年就役した水上機母艦である。前線で九七式飛行艇や二式飛行艇を補給整備するための専用艦であり、艦の後部に整備甲板と大型クレーンを持つ。ただし5000t足らずの船体では巨大な大艇を搭載したまま航行などできない。整備作業を行うのも静かな泊地で停泊している時に限られていた。
一方、小松の話す特殊な艦と言うのはカーティス級飛行艇母艦であった。米軍は現在カーティス級2隻をハワイ航路の船団に張り付けていた。秋津洲の3倍近い艦容をもつこの艦はPBY双発飛行艇を搭載したまま外洋を航行できる能力を持っていた。
「これで米軍は夜間でも飛行艇の傘をハワイ航路の一部の艦隊や船団にかけられる様になった。ミッドウェー航路の方には昼夜問わず大型陸上機を飛ばしている。つまりハワイへの補給はまだ牽制できているがミッドウェー周辺に我が潜水艦隊が手出しするのは厳しい状況と言う訳だ」
北西ハワイ諸島のほぼ西端に位置するミッドウェー環礁はオアフ島から2200㎞も隔たっている。この距離は長大な航続距離を誇る一式陸上攻撃機ですら偵察装備か爆弾搭載量を減らしてかろうじて往復できる距離である。このため米軍はB-17やB-24の対潜哨戒機型をハワイ諸島沿いに片道飛行で投入し航路帯防御を行っていた。
「まぁそう言う訳で今回の作戦では六艦隊を頼りにできないんだ。暗号についても当分は面倒くさい事になるけど皆我慢してくれないかな。さて、ちょっと所か随分と話が逸れちゃったか。黒島君、先を続けてくれ」
そう言って山本は手を叩いて少々乱暴に小松と井上の「講義」を止めると黒島に説明の続きを促した。
「攻略目標はウラジオストクとミッドウェーです。作戦発動時期は2月を予定しております。ただし両目標同時ではなく対米作戦の牽制を兼ねウラジオストク攻略を半月ほど先行させます。軍令部ではこれにより多少なりともアリューシャン方面へ米国が戦力を回す事を期待しています」
残念ながら、そんな都合の良い事はないだろうな……日本が戦争方針を変えた事はどこかのお人好しのせいで確実にソ連に伝わっているはずだ。当然米国にも。黒島の説明を目を瞑って聞いている山本はそう思っていた。
先月の御前会議以降、存在が極秘であるはずのウラジーミルは2度も命を狙われていた。幸いにして彼は無事で却って建国の話に前向きになった切っ掛けにもなったらしいし、面子を潰された特高が盛大に赤狩りをして軍からもだいぶスパイを摘発したそうだから全てが悪かったという訳でも無かった。
そんな事より山本は情報漏洩の元が露呈しやしないかと当時は肝を冷やしたものだった。もっとも当の本人はどうやら何時誰に何を話したかも覚えておらず何の危機感も覚えていなかった様子で山本は肩すかしをくらっていた。
山本がその様な事を回想している間に、黒島の説明は敵情予測に移っていた。
「我が軍は開戦劈頭に真珠湾で多数の戦艦を屠ったはずでした。しかし実際に仕留める事が出来たのは2隻だけです。他は浮揚修理され既に戦列復帰を果たしている模様です」
山本が南雲をちらりと見て口を歪めた。それに気付いた南雲は顔を顰める。奇襲作戦を先導した山本は南雲のせいで戦果が無駄になったと嘲っているのだった。会議の冒頭からただ黙っている宇垣参謀長だけがそれに気付きわずかに眉を動かす。黒島はそれら無言のやり取りには気づかずに説明を続けた。
「開戦後に米国は新型戦艦4隻に加え、英国から4隻の新型戦艦も得ております。更に来年からはより強力な戦艦が新たに6隻も就役すると見ております。独潜水艦隊が敵の新型戦艦を1隻撃沈、1隻撃破しておりますが主力艦の彼我の戦力差は開戦時よりむしろ増していくと考えられます」
英国が枢軸側に実質的に加担する様になって以来、こういった米国の情報が以前より正確に入る様になっていた。日本も独自の諜報活動である程度は掴んでいたものの、やはりこの分野では英国に一日の長が有った。
米国は開戦時に保有していた17隻の戦艦の内、アリゾナ・オクラホマの2隻を真珠湾で喪失している。しかし当時真珠湾に在泊していて損傷した6隻の内、ペンジルヴェニア、テネシー、メリーランドは既に戦列復帰を果たしており、他の3隻も修理中であった。更に開戦後にサウスダコタ級4隻、KGV級4隻が加わっており、カサブランカ沖海戦での損失を差し引いても現時点で22隻もの戦艦を保有している事になる。更に来年からはアイオワ級6隻が次々と就役する予定であった。
「航空母艦戦力についても遣独潜水艦が2隻仕留めましたが、新造艦と英国艦の加入により今では開戦時と変わらない数を保有しております」
空母についても同様であった。カサブランカ沖海戦で米国はレンジャーとワスプを喪失した。しかし英国からヴィクトリアスが加わり、間もなくエセックスも就役するため作戦が発動される頃には隻数では開戦時と変わらない7隻の正規空母があるものと予想された。
「先程話に出た飛行艇母艦につきましても、米軍は来年半ば以降に大量に投入してくると予想されます。艦隊随伴可能な大型飛行艇母艦も多数建造中との事です。そうなれば現状は何とか遅らせている敵のハワイへの戦力集積も進み、いずれ米国は反転攻勢へと移るでしょう。従ってその前にハワイ攻略の足掛かりを確保すると同時に敵艦隊の決戦戦力をある程度削る必要があります」
米国はより大型なカリタック級飛行艇母艦や護衛空母を改設計した船団護衛用の飛行艇母艦に加え、エセックス級航空母艦やインディペンデンス級航空母艦を改設計した艦隊型飛行艇母艦を来年には大量に投入してくるものと予想されていた。このイントレピッド級と呼ばれる事となる改エセックス級の大型飛行艇母艦は奇しくも大和を設計した福田啓二の大型水上機母艦案に相似であった。面白い事に日本が重要視しつつも国力により諦めた飛行艇母艦を米国が別の理由で量産する事になっていた。
部屋のあちこちから再び唸り声や溜息が聞こえた。分かっていた事ではあるが、改めて米国の凄さを皆が思い知らされていた。
だが来年初頭であればまだ間に合う。山本はそう考えていた。敵戦力が増強される前にミッドウェーを攻略し同時にハワイに中途半端に集められた戦力を一度殲滅する。そしてハワイに常に圧力を加え続け戦力の集積を妨害する。ハワイを占領できずとも戦力の集積さえ防げば少なくとも米国は日本へ攻め寄せる事はできない。
そうやって時を稼げば、いずれ米国も利が無いと判断し停戦の話も出てくるだろう。日本に米国を降伏に追い込む力は無い。従って米国が戦争を「厭う」まで踏み留まる体制を作り上げるしかない。その考えは大本営そして軍令部も同様であった。
「たった2杯の空母で200隻ものソ連太平洋艦隊を撃滅しろと言うのか!その上、陸軍の支援もしろと!それも真冬の日本海でだと!」
会議室に南雲の怒声が響いた。黒島の説明は米ソの敵情予測から艦隊編制の段に差し掛かっていた。
南雲の視線は説明する黒島でなく山本を睨んでいる。その山本はと言えば居眠りしているかの様に目を瞑ったままであった。南雲の怒声に何の反応も示さない。
黒島の説明によればソ連太平洋艦隊は巡洋艦2隻、駆逐艦13隻、潜水艦105隻、魚雷艇100隻で構成される。つまり総計200隻以上の艦を保有しているはずであった。確かに個艦能力で見れば大した脅威ではない。だがその数を一度に相手にする事は簡単とは言えなかった。
「ウラジオストク沖であれば冬場でも波浪は比較的弱く発着艦に支障ありません。先程ご説明した通り、参加戦力も一航戦だけではありません。第二戦隊の山城と扶桑、それに二個水雷戦隊も加わります。戦力に不足は無いと思いますが?」
黒島は南雲の怒声を涼しい顔で受け流す。会議冒頭から一言も発さない宇垣纏参謀長と異なり黒島は山本と非常に近い関係にある。彼の言葉は山本の言葉と同じと考えて良かった。
「敵の数が問題だと言っている。少しでも逃がせば日露の時の様に面倒な事になるぞ」
「仮に逃しても大きな問題では無いと判断しております。作戦時期に間宮海峡は流氷で閉ざされますから敵は袋の鼠です。日露の頃と違って今では電探も航空機もあります。もっとも南雲中将ならば万に一つも逃がす事もないと思いますが」
例年、間宮海峡は冬から春にかけて流氷で埋め尽くされ艦船の航行は不可能になる。このため米国からウラジオストクに向かう援ソ船団もこの時期は九州の南を回って対馬海峡を通過していた程である。仮にソ連艦艇がウラジオストクを脱出しても津軽海峡か対馬海峡を通過するしかなく、その先にも身を寄せる場所など近在に無かった。
「確かに水上艦相手ならその通りかもしれん。だが潜水艦はどうだ?先程の説明では100隻はいるという話だったはずだ」
「ソ連の潜水艦は全て小型の近海用のみです。仮に逃げられたとしても長くは活動できません。更に陸軍からの情報ではソ連太平洋艦隊は水兵や物資を独ソ戦に徴発され現状では身動き一つとれないのが実態との事です」
それを早く言え。南雲は心中で罵ると相変わらず目を瞑ったままの山本を睨んだ。間違いなく奴は自分に恥をかかせるためにソ連艦隊の内情説明を遅らせたのだろう。
この時期、ソ連は激化するドイツとの戦いに中央・極東方面から大量の人員物資を引き抜いていた。だが日ソ中立条約が有っても日本への警戒を完全には解いていなかった。ザバイカル方面軍は消え失せていたが極東方面軍は半減こそしたものの最低限の部隊は張り付けたままである。引き抜いた兵士の代わりも女子供ではあったが一応は補填されていた。
だが不思議な事に海軍に対しての手当ては全く行われていなかった。陸軍への転用や輸送船の乗員として2万人以上の水兵や工員が引き抜かれたが補充は行われていない。このためソ連太平洋艦隊は整備もままならず燃料も不足しまともに活動ができない状態にあった。海側に対する防御陣地も築かれていない。やはりソ連は大陸の陸軍国家故か、自らが海から攻められるという発想に乏しかったと言える。
白系ロシア人で編制された浅野部隊や日本に亡命した元ソ連秘密警察ゲンリフ・リュシコフなどの活動により、日本陸軍はこれらの情報をかなり正確に把握していた。
「……了解した」
南雲は渋々といった様子で同意した。そんなに俺に手柄を立てさせたくないか。ならば今回は楽をさせてもらおう。ミッドウェーは直率するそうだが、お手並み拝見だ。せいぜい大負けしない様に祈らせてもらおうか。南雲は心中で毒づいた。
「つまりまた据え物と言う訳だ。君の得意分野だろう?適材適所という奴だ。期待しているよ。それと陸軍の方もしっかり支援してくれたまえ。あぁそうだ、ウラジオストクは新たな帝都となるそうだ。あまり壊さない様にと陛下もお望みだ。宜しく頼むよ」
ようやく目を開けた山本が南雲に笑いかける。しかしその目には好意の欠片も無かった。
――ウラジオストク ソ連太平洋艦隊司令部 司令官室
「……やはりどうにもならんか」
報告を聞き終えたソ連太平洋艦隊司令官イワン・ユマシェフ大将が溜息をつく。時刻は深夜0時を回っている。丸顔で精悍だった彼の容貌はこのわずか三日間で変わり果てていた。頬と眼は落ち窪み憔悴の色が濃くなっている。
「どうにもなりません。撃退は不可能です。敵は戦艦と空母を伴う艦隊です。連中にとっては大したことのない小艦隊でしょうが、我々ではたとえ万全の状態でも相手になりません。まして現状では抵抗すら出来ないでしょう」
報告を行った副官も同意する。彼の容貌もユマシェフと大差ない酷い状態であった。二人ともこの三日間ほとんど寝ていない。
南雲の一航戦が攻撃隊を放つ三日前に、日本はモスクワの駐ソ大使を通してソ連に中立条約の破棄と宣戦布告を通知していた。今日は日本が予告した攻撃開始日である。日が昇れば日本軍が大挙してここへ押し寄せるだろう。にもかかわらず、書類上は200隻以上の艦艇を持つソ連太平洋艦隊は全く対応が出来ていなかった。
「せめて潜水艦だけでも出せないか」
「むしろ潜水艦が一番酷い状況です。すぐに動かせる艦は一隻もありませんでした。一部の艦は浸水により水没している有様です。水上艦の方は多少マシですが整備補給が必要な事は変わりありません。しかも港湾部ではサボタージュが横行しており今回の調査すらも困難な状況でした。お蔭で私を含め司令部要員で調査をやる羽目になりました」
「正直、出せる戦力はどのくらいだ?」
「そもそも水兵や士官が全く足りていない上に今では忠誠も怪しくなっています。枢軸のスパイが相当数入り込んでいる様でロシア帝国再興に共感する者が多くなっています。元々白軍の強い地域でしたから……信頼できる人間をかき集めても駆逐艦3隻程度が関の山でしょう」
日本は宣戦布告と共にロシア帝国再興のビラを大量にばら撒いていた。またラジオ放送で新皇帝ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフの肉声を繰り返し流している。極東では革命時に赤軍が暴れ回った土地柄か共産党への反感が根強い地域であり、今も戦争で一方的に搾取されている事から、上が誰であれ戦争が終わって楽になるなら良いと考える人間は少なくなかった。
「とりあえず、その3隻だけでも出撃準備を進めさせろ。人選は任せる。戦う、逃げる、降伏する、白軍に鞍替えする、いずれの場合も必要になるだろう」
戦って死ぬ以外は出来ないだろうがな。副官に指示しながらもユマシェフは思った。グルジアのトビリシで鉄道員の家庭に生まれた彼は生粋の共産主義者であった。海軍に志願した彼はカスピ海、黒海でキャリアを積み今の地位にある。降伏も裏切りも彼の中の選択肢には無かった。逃げ帰ればたとえスターリンと同郷でも銃殺が待っている。港外へ脱出するにしても日本海では袋の鼠である。
「まだ色々と選択肢は有る様ですね。気が楽になりました……艦の方はすでに程度の良いのを見繕ってあります。すぐに準備を進めさせます」
副官は疲れた笑顔で命令を復唱すると、姿勢を正して敬礼した。彼もユマシェフと似たような経歴である。その言葉と裏腹にユマシェフと同じ結論に達したのだろう。ユマシェフも見事な答礼を返した。
その直後、窓の外から銃声が響いた。爆発音で建物が揺さぶられる。すぐに副官が窓に駆け寄り状況を確認した。
「司令はここでお待ちください。確認してまいります」
そう言うと副官は部屋を飛び出していった。外の銃声は続いている。ユマシェフが窓から外を窺うと、大通り方面から来た集団が海軍司令部と共産党支部を包囲しようとしていた。数はそれほど多くはない、2000人ほどだろうか。統制はあまり取れていないように見える。だがどこから持って来たのか小銃だけでなく戦車や砲まで装備していた。対する建物の守備隊は少ない。すぐに突破されるのは明らかだった。
これ程の動きを攻撃されるまで気づけない程に司令部の情報収集能力は衰えていた。この三日間でいつの間にか大勢の人間がこの建物から姿を消している。今では連絡一つとる事もままならなかった。
副官はすぐに戻って来た。右手に拳銃を持っている。左手で押さえた右肩からは血を流していた。
「敵は帝国再興派の反乱部隊です。どこから持って来たのかロシア国旗を掲げていました。補給部を中心に港湾部や艦の乗員も加わっている様です。じきに連中はここへ押し寄せるでしょう。司令はすぐに脱出してください」
「脱出したとして、どこへ逃げると言うのだね」
撃たれた事で興奮している副官とは逆にユマシェフは冷めていた。
「陸軍に助力を頼めば……」
「今更間に合わんよ。それに向こうも国境防衛で手一杯だろう。せめて自前の守備隊を編制しておけば良かったか……いやフネの乗員にも事欠く状況で出来たはずもないか……今更詮無きことか」
副官も肩を落とす。しばらくすると廊下から怒声と荒い足音が聞こえてきた。そして次の瞬間、司令官室の扉が破られ数名の男達が雪崩込んできた。
ユマシェフの制止も間に合わず副官が反射的に銃を構える。しかしそれを撃つ間もなく数発の銃弾が副官を貫いた。
「イワン・ユマシェフ司令だな。我々に同行してもらおう。出来れば抵抗はしないでもらいたい」
斃れた副官を足蹴にして男の一人がユマシェフに小銃を向けながら言った。ユマシェフは彼の顔に見覚えが有った。確か補給部の大佐だったはずだ。名前までは覚えていない。彼らの顔は皆、黄色で平たく特徴が無い。グルジア人でもウクライナ人でもなく、この地で生まれ育った者達である。
中央出身者と様々な面で差別されていた事が今回の件に繋がったのだろうか……名前も覚えて貰えない扱いでは不満が溜まるのも仕方がないか。ユマシェフは名も知らぬ大佐の顔を見ながらそんな事を考えていた。
「まずは自ら名乗るのが道理だろう。それとも裏切った国の肩書はもう使えぬか」
男達が向ける銃を無視してユマシェフは言い放った。男たちの怒気が膨れ上がる。
「安心しろ。抵抗はしない。だが少しばかり時間をくれないか……私も色々と準備が必要だ。それと生き残った兵士達は丁重に扱ってくれ」
ユマシェフは彼らを手で制すると、倒れている副官を見つめた。
「……従うなら無駄な暴力は振るわないと約束しよう。3分やる。早く準備しろ」
そう大佐は告げると他の男達を連れて部屋を出た。
扉が閉まるとユマシェフは執務机の一番下の引き出しからウォッカの瓶と小さなグラスを取り出した。グラスに酒を注ぎ一気に呷る。そしてしばらくの間ただぼんやりと机上の写真立てを眺めていた。
「おい、早くしろ」
廊下から大佐の急かす声がした。ユマシェフは一瞬躊躇う表情を見せると写真を伏せ、震える手を一番上の引き出しに掛けた。
数秒後、廊下で待つ男達の耳に乾いた銃声が聞こえた。
――ウラジオストク上空 赤城 第一次攻撃隊
ウラジオストクに敵の迎撃は無かった。攻撃隊が近づいても敵機が上がってくる様子は無い。対空砲火も沈黙している。港内を見ても艦船に動きは無い。しかし数隻の駆逐艦から黒煙があがっていた。何らかの小規模な戦闘が行われた後の様に見えた。
今回は真珠湾の様な奇襲ではない。三日も前に宣戦布告が成されているのだ、敵に何の備えも無い訳がなかった。敵の激しい迎撃を覚悟していた淵田美津雄は九七式艦攻の操縦席で攻撃すべきかどうか逡巡していた。
敵の罠かと迷った末に攻撃を命じようとした瞬間、通信員が叫んだ。
「攻撃中止!攻撃中止!ウラジオストクはロシア帝国派が掌握しました。攻撃隊は全機帰投しろとの命令です」
「今度は攻撃も無しかよ……」
淵田は操縦席で項垂れた。
相変わらず日本の空母部隊は活躍していません。まったく酷い架空戦記です。次話は閑話を除けば初めて日本陸軍が活躍するお話になります。