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閑話二 雪原の死闘

 お待たせしました。本編をお待ちの方には申し訳ありません。


 本話は山口多聞氏の主催する「架空戦記創作大会2017夏」の参加作品となります。お題は「架空の河川・湖用兵器に関する架空戦記」です。アムール川で東ロシア帝国が運用する河川砲艦のお話となります……が、先に謝っておきます。ごめんなさい。


 また本話は残酷な描写を含むためR15キーワードを追加いたしました。ご注意ください。

――アムール河畔 東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


「あーあ、どこかにいい男いないかしら」


 窓際に座った女性が溜息とともに呟いた。やや大きめで愛らしい形の口から出た言葉はロシア語である。彼女はジャムをひと舐めして紅茶を口にすると、スリットの空いた装甲窓を開けて外の雪景色を眺めた。流れこんできた身を切る様な冷たい風にボブカットの金髪が煽られる。碧眼に透き通る様な白い肌をもつ彼女の外見は典型的なロシア人女性である。十分美人といっても差し支えない。しかし残念なことに身長だけが平均に大きく足りていなかった。


「カーチャ艇長、せっかく暖まった空気が逃げてしまいます。窓を閉めてください」


 ストーブを挟んで反対側の椅子に座る女性が注意した。読んでいる本から目も上げない。こちらもロシア人であるがカーチャと呼ばれた女性に比べ遥かに長身である。長い黒髪を持つ少し冷たい感じのする女性であった。


「だってノーニャ、私達ずーっと動けないし。退屈じゃない」


 ノーニャと呼ばれた女性が漸く本から目を離しカーチャを黙って睨む。


「……はいはいノーニャ、分かりましたーー。閉めればいいんでしょ閉めれば」


 そう言ってカーチャは渋々といった様子で窓を閉めた。


「男漁りなら今度の非番でハバロフスクにでも行かれたら如何ですか。あそこなら日本人ヤポンスキーもいっぱい居ますよ。艇長にはお似合いでは?」


 ノーニャの右隣でバラライカを弾いていた金髪の女性が揶揄する様に言った。


「そう言えばカーチャ艇長はこっそり日本語を勉強していましたね。知ってますよ」


 更にノーニャが本から目を離さずに追撃する。


「ちょっとラーラ、いくら私の背が低いからって、あんな頼りないチンチクリン共なんか当てにしないわよ!もっと強い男がいいの!私は!それにノーニャ、日本語は任務で必要だから勉強してるの!勘違いしないで!ちょっとニーナとアリーナも何笑ってるの!」


 カーチャが口を尖らせて抗議するが、その背の低さと童顔から傍目にはまるで小学生がプンスカと怒っている様にしか見えない。それを見てラーラと呼ばれた女性とその隣のニーナとアリーナと呼ばれた少女達が笑う。ノーニャも本を読みながら口に手をあてて笑っていた。


 ひとしきり皆が笑った後、全員が黙り込む。そして同時にため息をついた。


「「「暇だわ……」」」


 彼女たちがこのネタを話すのは少なくともこれで3回目だった。



 外見は幼く見えるがカーチャは部隊の最年長で指揮官でもある。階級も伍長であった。彼女ら5人は最近ようやく行きわたるようになった東ロシア帝国陸軍の新しい軍服を着用していた。デザインもこれまで仕方なく着ていたソ連の軍服から旧ロシア帝国陸軍を彷彿とさせるものに変わっている。帽子の徽章も昔ながらの楕円の紋章に戻っていた。


 未だ少女と呼べる年齢のニーナとアリーナを除く3人、カーチャ・ノーニャ・ラーラは既婚者である。だが3人とも夫を独ソ戦で徴発され亡くした未亡人でもあった。もっともその婚姻はソ連時代に地元党支部の指導で半ば強制的に行われたものであり彼女たちに亡夫への未練は無かった。また伝統的に強い異性を好むロシア女性らしく、彼女らは戦場で勝手に死ぬ様な男より自分を守ってくれる強い男を求めていたのである。


 そしてソ連同様に男性の少ない東ロシア帝国では彼女たちの様に女性もまた軍務に就いていた。まだ産業の少ない東ロシア帝国では女性の軍務は生活支援の一面もあった。


 彼女らが今居るのはアムール川の川岸に係留された装甲艇の操舵室である。川が凍結して動けない冬場はこうして交代で当直にあたり装甲艇の維持管理を行っていた。とは言っても毎日やる事は除雪や着氷の除去程度である。偶に主機や兵装の動作を確認するのが関の山であり当然大いに暇を持て余すことになる。毎日代わり映えの無い雪原しか見えない環境では同じ会話が何度も繰り返えされるのも仕方がない事であった。



――新型装甲艇の開発


 彼女たちの乗っている装甲艇は日本で設計建造されたものである。


 日本の助力によりシベリア東岸ハバロフスク地方に建国された東ロシア帝国はアムール川を挟んでソ連と対峙している。大型河川の多いソ連では多くの河川砲艦が運用されており、それはこのアムール川も例外では無かった。従って東ロシア帝国としてもソ連に対抗する上で河川砲艦を必要としていた。そして多くの兵器を枢軸国に依存している東ロシア帝国は当然のように日本へ河川砲艦の提供を打診した。


 当初日本は自軍の装甲艇(AB艇)をそのまま提供しようとした。これは中国大陸でも広く運用されている陸軍の河川砲艦である。大阪鐵工所(現在の日立造船)で建造されたその船は、小銃程度には耐える装甲を持ち57mmか47mmの戦車砲と7.7mm機関銃を装備している。第一線で使うには既に陳腐化しているが、河川警備や匪賊の討伐目的ならば今でも十分な性能をもっていた。


 問題は相手となるソ連の運用する河川砲艦が小型ながら非常に強力な事であった。BK-1124/1125型と呼ばれるこの艦はT-34/76の砲塔をそのまま搭載している(BK-1124は砲塔2基、BK-1125は砲塔1基を搭載)。水上のため命中率は低いものの、これと撃ちあう事は日本のAB艇には少々荷が重すぎた。


 そこで陸軍は当面はAB艇に90式野砲を露天搭載した改良型で凌ぎ、新たにソ連の河川砲艦に対抗できる装甲艇を開発する事を決定した。


 新型とは言っても基本的には従来のAB艇の拡大強化版である。まず砲塔はソ連同様に戦車の砲塔をほぼそのまま搭載する事とした。当時使える砲塔は制式化されたばかりの三式中戦車(英国製オードナンス QF6ポンド砲50口径57mm砲)の物のみであったため、とりあえずこれを2基備えた。


挿絵(By みてみん)


 近年増大した航空機への脅威に対応するため、操舵室上の八九式7.7mm旋回機関銃に加えて単装25mm海式機関砲(海軍九六式二十五粍高角機銃)1基を後部7.7mm機銃に代えて装備している。防御に関しても砲塔以外の要所にも20mmから50mmの装甲を追加する事で原型のAB艇より大幅に強化されている。


 だかこれでも76mm砲を備えるソ連の砲艦に対しては不安が感じられた。小型艦艇が強敵を喰う手段は魚雷と相場が決まっている。そこで陸軍も本艇に魚雷を装備する事を考えた。しかし海軍の魚雷艇の様に爆発物である魚雷を露天で装備する事に不安を覚えた陸軍は最近海軍が参考に輸入していたドイツのSボートを思い出した。そして陸軍も独自に最新型のSボート(S-30型相当)を輸入し、これを参考に艇内に魚雷を装備する方式を採る事とした。


 これらの強化により艦容はAB艇より一回り大きいものとなった。排水量も相応に増加している。装備が増えたため乗員数も若干増加した。


 大きくなった船体と増大した排水量に対応するため主機もまた強化される事となった。AB艇には350馬力のディーゼル機関が搭載されていたが同じ主機のままでは10ノットも出せない事が予想されたからである。そこでDB605系に切り替わったことで不要となった戦闘機用のハ40をデチューンしたエンジン(800馬力)を2基搭載する事とした。これにより15ノット程度の速力が発揮可能となっている。遅い様に感じられるが14ノットくらいしか出ないAB艇に比べれば用途的にこれでも十分高速であった。


こうして日本国内では装甲艇Ⅱ型(AB艇Ⅱ)、東ロシア帝国ではBPK(装甲砲艦:Бронированный пушечный корабль)と呼ばれる事になる新型装甲艇の「船体」は大きな問題もなく完成したのであった。


挿絵(By みてみん)



――新型魚雷の開発


 船体や魚雷発射管の設計は手本となる現物もドイツから輸入したため滞りなく進んだが、問題は搭載する魚雷であった。


 当然ながら水深の浅い河川では魚雷など使えるはずもない。一般的に魚雷は発射後に一旦沈降し、その後設定された深度まで浮上しながら駛走する。海軍では深度3mで浅深度と言うが、この深度でさえ荒れた海面では安定して駛走させる事が困難であった。従って水深の浅い川ではそもそも発射すら困難であり、仮に運良く発射できたとしても吃水の浅い河川砲艦に命中できる程の浅深度で駛走させるなど出来るはずも無かった。


 馬鹿馬鹿しい話であるが海軍の魚雷(九九式53cm魚雷)を購入して行われた発射試験の失敗で初めて陸軍はその事に気づいたのである。魚雷を売却した海軍担当者は陸軍に魚雷を売ってくれとは言われたが、まさか川で使うとは思わなかったと語っている。


 通常の魚雷を使えない事が判明してしまったものの魚雷発射管を装備した新型装甲艇は完成してしまった。強力なソ連河川砲艦の脅威も現実に存在している。魚雷は水中を進むから問題なのだ、そう考えた陸軍はロケット推進で水面を飛翔する「空中魚雷」を開発する事とした。空を飛ぶ時点でそれが魚雷と呼べるのか甚だ疑問ではあったが、それが魚雷発射管から発射される以上は魚雷であった。トビウオだって飛ぶじゃないか。開発を押しつけられた第一陸軍技術研究所の担当者はその様に強弁したと言う。


 当時陸軍でもロケット兵器の研究は独自に進められていた。海軍のロケット魚雷の活躍に触発される形で研究も加速し、現在は簡便安価な野砲として開発された噴進砲が制式化間近であった。これは噴進薬を内蔵した砲弾を簡素な枠から発射するロケット兵器である。魚雷と異なる点は空中を飛翔する事と、弾道安定のためのジャイロや安定翼を持たない事であった。ジャイロと安定翼を使わずに弾道を安定させる工夫として砲弾の底面にある噴射口には角度が付けられている。これにより砲弾は噴射ガスで旋転スピンする事になり弾道が安定する仕組みとなっていた。


 まず担当者は九九式魚雷を改造し噴進砲弾と同じ旋転安定方式の空中魚雷を試作した。しかし結果は散々であった。その魚雷は飛ぶことなく落下してしまったのである。いくら水中で200ノットを発揮する魚雷の噴進装置でも1.6tもの物体を空中で水平飛行させるだけの推力は無かったのだ。


 そこで担当者は魚雷直径を一回り小さい45cmに変更した上、炸薬と推進薬を減らす事で大幅な軽量化を行った。更に戦闘は至近距離でしか行われない想定であった事から航続距離を犠牲にして推力を増した推進薬を用いる改良を行った。


 だが意気込んで臨んだ再試験も再び失敗に終わってしまった。今回は何とか水平飛行を行う事には成功したものの、弾道飛行とは勝手が違うのか旋転させても弾道は安定せず試験体は発射地点にまで戻って来てしまったのである。


 本来であれば旋転安定方式を諦め安定翼を付けるのが最善である。しかし発射管内に納める以上は突起物は付けられないと開発者が思い込んでいた事から(発射後に格納した安定翼を出すという案は浮かばなかったらしい)空中魚雷の開発は更におかしな方向へ向かう事となる。


 進路を保つには姿勢が安定すれば良い。それには航空機の上反角や船舶のV字船底の様に自律安定の仕組みがあれば良い。そう考えた担当者は魚雷を空中ではなく船の様に水面を走らせる事を考えた。当然、旋転安定方式は諦める事となる。代わりに魚雷下面の断面形状をV字型のボートの様な形とした。


 この改良により漸く試験は成功し、「装甲艇用水上魚雷」として制式採用される事となった。


挿絵(By みてみん)


 河川や湖の静水面であれば真っ直ぐ高速で滑走し敵艦の喫水線付近に命中するこの兵器は、確かに河川砲艦の装備としては有効ではあった。しかしその形状も仕様もどこが魚雷なのだか全く分からないモノとなってしまった。魚雷発射管に納まる以上は魚雷なのだろう。きっと。そう担当者は自らに信じ込ませる事にしたという。



――アムール河畔 東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


 カーチャらが今日何度目かの溜息をついた直後、突然彼女らの乗る装甲砲艦(BPK)が大きく揺れた。


「「「なに!?」」」


 揺れに続いて甲板から規則的な音が聞こえてきた。何かが船に乗り込んで来た様子だった。


「誰か来る予定なんかあったかしら?」


 如才なくストーブ上の薬缶を手で押さえながらノーニャが首をかしげた。


「ニーナ、ちょっと見てきて」


 カーチャが一番若いニーナに様子を見て来る様に指示する。今の時期、川は完全に凍結している。人が乗り込んだくらいで船が揺れる事など有り得なかった。


「ちょっと待って……」


 何かがおかしい。そう感じたノーニャはニーナを止めようとした。しかし遅かった。ニーナが操舵室の扉を少し開けた瞬間、逆に扉が強引に押し開けられた。


 そこに居たのは巨大なヒグマであった。


「ひっ!」


 恐怖でニーナが硬直する。ヒグマが彼女にその凶悪な手をかけようとした瞬間、ノーニャがニーナの腕を掴んで引き戻しそのまま操舵室の奥に放り投げた。同時に扉の横に居たラーラが手にしたバラライカを思いっきりヒグマの鼻面に叩きつけた。


 バラライカは粉々になったが、お蔭でヒグマは一瞬ひるんで一歩後退した。その瞬間を見逃さずノーニャとラーラが扉を閉めてロックした。


「なんで冬にヒグマがいるのよ!」


 カーチャが叫んだ。外ではヒグマが扉に体当たりしたり引っ掻く音が激しく続いている。


「穴持たず、でしょうか。冬籠りに失敗したヒグマですね」


 ノーニャが冷静に答えた。


「じゃあ、しばらく放っておいたら勝手にどこかに行ってくれるかしら?」


「難しいかもしれません。この時期、山に食料はありません。穴持たずは間違いなく飢えています。私達みたいな美味しそうな餌は絶対に見逃さないでしょう。それにヒグマは執念深いとも聞いています。このままずっと居座る可能性が高いと思います」


「当直の交代が来るまであとどのくらい?」


「まだ三日ありますね」


 それを聞いたカーチャは椅子の上によじ登ると立ち上がって皆に言った。


「みんな聞いて。この船は扉も壁も分厚い装甲板で出来てるの。ヒグマなんかに破られる事なんてないから安心して。食料も水もたっぷりある。私達は助けを呼んで後はゆっくり待てばいいわ。交代部隊が連れてくる戦車でヒグマなんかイチコロよ。安心して」


 自信たっぷりにカーチャが宣言した瞬間、ひときわ大きくヒグマが扉に体当たりした。扉がわずかに歪み蝶番が嫌な音を立てる。


「あまり時間は無いかもしれませんね……」


 ノーニャの言葉に皆は不安そうに顔を見合わせた。


挿絵(By みてみん)



――宇都宮第59連隊第1大隊第1中隊 軽機分隊


 その日、舩坂弘伍長の所属する分隊は後二軸に履帯を装着した六輪自動貨車で移動中であった。建国後も兵力不足に悩む東ロシア帝国は日本への助力を求めた。その結果現在も数個師団が駐留を続け東ロシア帝国軍と共同で警備にあたっている。舩坂らもその警備任務からの帰りであった。


 警備任務であるため部隊は小隊ではなく分隊単位で行動していた。軍曹が分隊長を務めるこの隊は12名の兵士から成る軽機分隊である。3名一組の軽機班一つに通信兵、舩坂ら小銃兵7名の編成となっていた。


「分隊長殿、中隊本部からです。この近くでロシア国境警備隊の装甲艇が熊に襲われました。現在は船室に閉じ込められ救援を求めているそうです。すぐに駆けつけられる友軍は我々だけらしく至急救援に向かって欲しいとのことです」


「それは命令か要請か?」


「はい、可能であれば対応して欲しいとの要請であります」


「露助を熊から助けても一文の得にもならんな」


「閉じ込められている国境警備隊員は5名で全て若い女性兵だそうです」


「日露の友好は大切だ。すぐに救援に向かうぞ。本部に了解したと連絡しろ」


 分かりやすい理由であっさりと考えを変えた分隊長は通信兵に詳しい場所を確認させると自動貨車の針路を変更させた。



「ウェンカムイ……マタカリプか……不味いかもしれんな……」


 分隊長の話を黙って聞いていた舩坂の耳にそんな呟きが聞こえた。声の方を向くと隣の山本一等兵が難しい顔をしている。


「どうした山本一等兵。怖いのか?熊一頭なんぞ分隊の火力があれば朝飯前だろう。今日の夕飯は上手くすれば熊鍋だぞ」


「あっ、はい伍長殿、もちろん普通の熊相手なら問題ありません。しかし相手はおそらく羆です。三八式実包(6.5mm弾)だとキツイかもしれません」


「分隊の小銃や軽機が通用しない可能性があると言うのか?」


「はい、その通りです。羆は分厚い筋肉と頭蓋骨を持っています。頭や胴体に数発くらい当てても効かないと思っておいて下さい。それに……」


「それに何だ?」


「自分は北海道の出なんですが……冬眠するはずの冬に徘徊する羆を地元ではマタカリプと呼んでいました。こいつらは常に腹を減らしていてとても凶暴なんです。それに恐ろしい程に頭が切れます。ロシア人を襲っているという事は以前にも人を喰って味を覚えているんでしょう。油断していると喰われるのはこちらになるかもしれません」


「分かった。肝に銘じておこう。分隊長殿にも進言しておく」


 舩坂は分隊長に山本一等兵の懸念を伝えたが一笑に付された。こうして舩坂の分隊は冬の羆を甘く見たままカーチャらの救援に向かう事となった。



――アムール河畔 東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


「助けが来ます!警備巡回中の日本人の分隊がちょうど近くにいて、こちらに来てくれるそうです!」


 アリーナが通信室から顔を出して嬉しそうに報告した。ヒグマの襲撃から既に1時間が経過していた。相変わらずヒグマは操舵室の外に居座っている。室内に備え付けの小銃を装甲窓から撃って追い払おうとしたが、何発か命中したにもかかわらず何ら効果は無かった。すでにその小銃も弾を撃ち尽くしてしまっていた。


 国境警備隊本部に連絡はしたものの救援は早くとも明朝になるとの回答であった。ヒグマの度重なる体当たりにより扉の蝶番もいよいよ危なくなってきている。とても明日の朝まで保つとは思えなかった。今では日本人の助けだけが頼みの綱であった。


「ふん、日本人ですって?あんな奴ら役に立つのかしら?」


 カーチャが馬鹿にしたように鼻を鳴らす。それをノーニャが窘めた。


「彼らはなりは小さいですが大変勇敢だと聞いています。そもそも今の状況では彼らに託すしかありません」


 彼女らが話している内にドアの外からヒグマの気配が消えた。ノーニャがスリットから覗くとヒグマが森に去っていくのが見えた。そしてしばらくすると遠くからエンジン音が聞こえてきた。


「助けが来たようですね。ヒグマも気付いたのか森に去った様です」


 それを聞いたニーナとアリーナが抱き合って喜ぶ。ラーラとノーニャもホッとした様子だった。しかしカーチャ一人だけが俯いて難しい顔をしている。それに気づいたラーラが声をかけた。


「どうしましたカーチャ艇長。日本人に助けられたのがそんなに不満ですか?」


「ねぇラーラ、あんなにしつこかったヒグマがどうしてあっさり私達を諦めたのかしら?」


「それは日本人達のトラックの音が聞こえたからかと……」


「あいつは飢えているんでしょう?それに強い。私達の小銃も全然効かなかったわ。トラックの音が聞こえたくらいでこそこそと逃げ出すかしら?」


「つまりヒグマは……」


「そう、奴は私達を諦めたんじゃない、先に楽に襲える新しい餌がのこのこやって来たと思っただけよ。今危険なのは日本人達の方だわ」


「そんな……すぐに知らせなきゃ……」


「無理よ。私達には彼らと直接通信する手段がないもの。もう警備隊本部経由で連絡する時間も無いし。ニーナ!アリーナ!すぐに上の機銃を使える様にして!ノーニャとラーラは外の機関砲の方をお願い!私達はここから彼らを援護するわ!」


 カーチャの指示で4人は弾かれた様に動き出した。しかしすぐに彼女たちは戻ってきてしまう。


「すいません……凍り付いてて使えません……」


「こちらもです。今すぐ使える様にするのは無理です。仕事をサボっていたツケですね……」


 ノーニャとラーラは肩を落としている。ニーナとアリーナに至っては泣きそうな顔をしていた。


 シベリアの寒さの中では解氷のためにお湯を掛けても意味がない。注ぐ端から凍ってしまい却って氷を厚くするだけである。だから地道にノミとハンマーで除氷するしか無いのだがこれが意外と重労働であった。いつかやろうと先送りしていたツケが今彼女達に一気に降りかかって来ていた。



――宇都宮第59連隊第1大隊第1中隊 軽機分隊


 彼らが現場に到着した時に熊の姿は見えなかった。河畔に係留された装甲艇の窓から女性兵士らが顔を出して手を振っているのが見える。操舵室の扉は大きく歪み生々しい爪痕がいくつも残っていた。


「なんだ熊はもう逃げちまった後じゃねぇか。それにしてもホントに別嬪さんばかりだなぁ。おいおいガキみたいのも居るぞ。まぁせっかく来たんだ。お嬢ちゃんらに挨拶くらいしていくか。おい皆降りて整列しろ!礼儀正しくしろよ!無礼を働くんじゃねぇぞ!」


 分隊長の指示で皆がゾロゾロと自動貨車の荷台から降り始めた。それに続けて降りようとした舩坂の肩を山本一等兵が押さえた。


「伍長殿、待ってください。様子が変です」


 そう言って山本は装甲艇の方を顎で示した。


「熊は逃げたはずなのに彼女らは船室に閉じこもったままです。良く見ると表情も変です。かと言って自分達を恐れている訳でも無さそうです」


 山本に言われて舩坂が装甲艇をよく見ると確かに様子が変だった。明らかに女性兵士らはまだ立て籠もりを続けていた。そして焦った顔で森の方をしきりに指さしている。分隊長は自分らに手を振ってくれていると呑気に勘違いしている様だが、彼女らが必死で自分達に何かを伝えようとしている事は間違いなかった。


 舩坂は分隊長に警告しようとした。しかし遅かった。


 まだ自動貨車の荷台に居た二人の目の前を何か黒くて巨大なものが通り過ぎた。そして次の瞬間、整列しようとしていた2人の兵士が宙を舞った。通信兵と小銃兵だった。地面に叩き付けられた彼らはピクリとも動かない。その首や胴体は妙な方向に曲がっていた。通信兵の背負った通信機も大きくひしゃげている。


 2人の兵士を瞬殺したそれは二本足で立ち上がると雄叫びをあげた。それは山本の予想した通り羆であった。それも体長3mを超える巨大な羆であった。あちこちから少し血が出ているのはロシアの女性兵士が小銃で抵抗した跡らしかった。


「敵襲!咄嗟戦闘用意!目標前方の熊!相手はただの手負いの熊だ!打ち殺せ!」


 分隊は背後から羆に奇襲された形となった。パニックになりかけた兵士達を分隊長の声が立ち直らせる。分隊長も伊達に軍曹の肩書をもっていない。叩き上げの軍人である。羆と戦うのは初めてだが戦闘には嫌と言う程慣れていた。兵士達も分隊長の命令で訓練で刷り込まれた動作を機械的に開始した。日々の厳しい訓練はどんな状況でも一定の動作をさせる事が目的である。それはこの場でも確実に効果を発揮していた。


 小銃兵は肩から小銃を外すと遊底ボルトを引き装填子クリップで弾丸を装填する。そして散開し各々が射撃姿勢をとろうとした。軽機班は二脚架を開くと伏射姿勢をとり装填手が弾倉に装填子を差し込みはじめた。


 彼らの一連の動きに無駄はなかった。しかし不幸な事に彼らの装備は最新とは言えなかった。彼らは太平洋戦争開戦時と何ら変わらない装備しか持たされていなかったのである。小銃はボルトアクションの三八式小銃であり、機関銃も九六式軽機であった。弾薬を共通化できる事だけが利点であるが、6.5mm弾の三八式実包を使用するこれらの銃は反動が軽く扱いやすい反面、威力も低かった。


 せめて7.7mm弾を使う九九式小銃や九九式軽機であったなら羆にも有効だったかもしれない。これが本土や満州の部隊であれば、あるいは東ロシア帝国陸軍であれば最新式の連発式歩兵銃や重機を装備していただろう。しかし殺戮が目的ではない警備任務が主体の彼らにはそういった装備は過剰と言う事で支給されていなかった。


 そして分隊の応戦準備が整う事を羆が黙って見ている訳が無かった。羆はまず散開しようとしていた小銃班に襲いかかった。片手の一振りで一番端の兵士が吹き飛ばされる。更にその隣で硬直していた兵士の首筋を巨大な顎で食い千切った。


 軽機班は素早く準備を整えていたが小銃班が射線に重なりまともに発砲できずにいた。羆は戦意を失った小銃班の生き残りから目を逸らすと今度はその軽機班に顔を向けた。威力の低い6.5mm弾とはいえ連続した打撃を叩き込める軽機ならば羆に対しても有効となる可能性がある。しかし突発的な戦闘のため軽機班は羆や小銃班と十分距離を取れていなかった。それが彼らの敗因となった。


 羆はその巨体から信じられないような敏捷さで軽機班に襲いかかった。九六式軽機は取り回しが良く非常に高い命中精度を誇る名銃である。しかし目の前で殺戮を見せつけた相手に至近距離から襲いかかられる状況で射手は冷静さを欠いていた。結局彼らはほとんど命中させる事ができないままあっという間に踏みつけられ蹂躙されてしまった。同時に軽機も原形を留めないくらいに破壊されている。


 この時点でついに生存本能が訓練の刷り込みを越えた小銃班の生き残りが羆に背を向けて逃げ出した。


「羆には絶対に背を向けちゃいけません。奴らは本能でどこまでも追いかけてきます。それに羆の脚はこの自動貨車より速い。人の脚じゃ逃げ切れません」


 戦闘と言うよりは一方的な虐殺を自動貨車の荷台から見ていた山本が冷静に言った。そして彼の言う通り羆は巨体を翻すとあっという間に逃げる兵士達に追いつき殲滅してしまった。


 分隊長は只一人、自動貨車の外で立ち尽くしていた。急変した状況を受け入れる事ができないのかブツブツと何かを呟いている。彼は舩坂と山本がまだ荷台に居る事に気づいていない。自分以外は全て羆に殺されてしまったと信じ込んでいた。


「ぜ、全滅?11名の軽機分隊が全滅?1分も経たずにか?……き、傷ついた熊一匹に皇軍兵士が11名も?ば、化け物め……ふざけるな……ふざけるなーーー!!!」


 分隊長は大声で叫ぶとゆっくり歩み寄る羆に小銃を向けた。そして混乱しているとは思えない流れる様な動作で素早く5連射した。放たれた弾は過たず全て羆の頭に命中し……しかしその全てが分厚い頭骨に弾かれた。


 それを見た分隊長は小銃に着剣すると何かを叫びながら羆に突っ込んでいった。羆は付き出された銃剣を片手で軽くあしらうと分隊長の首筋に噛み付き、もう一方の手で分隊長の肩を掴んで体を二つに引裂いだ。そして今度は満足そうに再び雄叫びをあげた。



 分隊長を惨殺した後、装甲艇に向かっていく羆を見ながら舩坂が山本に尋ねた。


「一等兵、どうする?俺達はこのまま隠れていた方が良いか?」


「伍長殿、肚をくくるしか無さそうです。奴は今、飢えより人殺しに酔っています。ロシアの女性兵士を殺したら次は私らでしょう。羆の嗅覚は鋭いです。隠れていても見つかります。自動貨車で逃げても追いつかれます」


「そういえば一等兵は随分と羆に詳しいな」


「……昔、北海道で家族を皆殺しにされましたからね。それで栃木に流れてきました。羆は私の仇です。それに……」


 そう言うと山本は装甲艇の方を見た。


「娘が生きていれば今頃はあの小さな子くらいです。あれを見捨てるのはあの世に行っても少し寝覚めが悪いですからね」


 残念ながら山本はカーチャの事を10歳くらいの子供と勘違いしていた。まさか部隊長で最年長のしかも未亡人だとは露とも思っていない。


「分かった。自分も付き合おう」


 山本の話を聞いて舩坂も肚を決めた。部隊を全滅に追い込まれた怒りもある。山本同様に目の前で女子供を惨殺されるのも気に入らなかった。それに不思議な事に舩坂は修羅場を前にしても恐怖を感じていなかった。逆に羆と戦う事にたかぶりを覚えていた。彼は内心で自分はこんなに好戦的だったかと少々驚いていた。


「しかし分隊長殿の見事な銃撃も効果は無かった。今打って出ても二の舞だ。何か手は有るのか?」


「分隊長殿は腕が良ろしいからこそ頭を狙ったのでしょう。しかし頭は骨が分厚いので三八式実包じゃ抜けません。だからここを狙います」


 そう言って山本は自分の目と口を指さした。


「ここなら弾が通ります。上手くいけばそのまま脳味噌まで届きます。ただし奴らは図体が大きい癖に目は小さい。口の奥も近づくまで中々見せない。当てるのは至難の業です。覚悟してください」


「小銃で倒しきれなかった場合は策はあるのか?」


「あとは銃剣突撃だけですね。奴らの皮は分厚いですが刃は通ります。その下の筋肉が固くてこいつも分厚いですが、上手く筋に沿って刃を潜り込ませれば中まで差し込めるはずです。もちろんこちらも死ぬ覚悟で挑む必要がありますが」



――東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


「「「全滅しちゃった……」」」


 操舵室内は重苦しい空気に占められていた。唯一の希望だった日本軍が目の前で虐殺されたのである。それでも彼女達は実は心のどこかで安堵もしていた。ヒグマも腹が満たされればここを立ち去るだろう。殺された日本人には申し訳ないがこれで自分達は助かる。そう思っていた。しかしその希望は打ち砕かれた。


「ヒグマがこちらに向かってきます」


 装甲窓から外を観察していたノーニャの一言で皆が息をのむ。


「なんでまたこっちに来るのよ!腹が減ってるなら殺した日本人を喰えばいいじゃない!なんなのよ一体!」


 とうとうニーナとアリーナは蹲って泣きはじめた。状況の余りの理不尽さに逆にカーチャは段々と腹が立ってきていた。


「みんな諦めちゃ駄目よ。警備隊本部に状況を連絡して引き続き救援を要請して。それと部屋の物を使って出来るだけ扉を押さえて。とにかく扉を破られなければ大丈夫よ」


 諦めの悪い彼女は矢継ぎ早に指示を出す。ニーナとアリーナも立ち上がって指示に従う。しかし扉を補強するとは言っても操舵室内に使える物はほとんど無かった。基本的に船舶の備品というものは全て固定されている。最後は彼女たちの体で扉を押さえるしか方法は無さそうだった。女性の軽い体重がどこまでヒグマの突進に通用するか分からなかったが。


 皆の絶望が色濃い中、外を観察していたノーニャが再び言った。


「どうやら生き残りがいたようです」



――宇都宮第59連隊第1大隊第1中隊 軽機分隊


「こっちだ、ど畜生!」


 舩坂と山本は荷台から飛び降りると小銃を構えて羆に叫んだ。羆はなんだまだいたのかという風にゆっくりと振り向く。


 すかさず二人は羆の目を狙って小銃を連射した。熊は雄叫びを上げて二人に突っ込んできた。彼らはこれまでの軍隊人生の中で最高の早さで発砲するがボルトアクション銃では限界がある。舩坂は心の中で連発銃があればと悪態をついた。


 漸く最後の弾で羆の右目を潰した時にはもう羆は目の前に迫っていた。右目を撃ち抜かれても羆は止まらず突進してくる。残念ながら弾は脳まで届かなかったらしい。もう再装填している時間は無かった。


 羆は二人の手前で立ち止まると二本足で立ち上がって雄叫びをあげた。二人は着剣済みの小銃を構える。だが弱点である目と口ははるか高みにあって届かない。羆は二人を見下ろすと右手を振り上げた。


「糞が……」


 それが山本一等兵の最後の言葉だった。


 振りぬかれた羆の右手は二人をまとめて吹き飛ばした。舩坂は咄嗟に小銃で側面を保護する。数メートル程吹き飛ばされた二人は折り重なるように地面に倒れた。その衝撃で舩坂は気を失った。


 羆は動かなくなった二人を一瞥して興味を無くすと再び装甲艇に向かって歩き出した。



――東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


「諦めないで!とにかく扉を押さえて!邪魔を続けて!」


 カーチャ達は扉を押さえてヒグマの突進に耐えつつ窓から着剣した小銃を突き出していた。しかし体勢が悪い上に女性の力では突き刺す事ができない。ヒグマの方も蚊がまとわりついているくらいにしか感じていない様子だった。


 扉の蝶番はもうすぐ限界を迎えようとしていた。



――舩坂弘


 女性の悲鳴で舩坂は意識を取り戻した。身体の上に何か重たいものが乗っている。苦労してそれをどかして上半身を起こしてみると、上に乗っていたのは山本一等兵の死体だと分かった。彼の顔は大きく抉られ首も変な方向に向いていた。舩坂は悲鳴のする方を見た。装甲艇の扉は今にも羆に破られる寸前だった。まだ女性兵士らは無事らしい。


 舩坂は素早く自分の体と装備を確認した。腕を少し抉られた様だが出血は止まっている。他に大きな怪我は無い。自分の小銃はくの字に折れ曲がってしまっていた。これでは使えない。舩坂は銃剣だけ取り外すと腰の鞘にもどした。


「山本一等兵。ちょっと小銃を借りるぞ。仇は討つ」


 舩坂は山本一等兵の片方だけ残っていた目を閉じてやり合掌すると彼の小銃を手に立ち上がった。


「相手はこっちだ!ごらぁ!!」



――東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


 ヒグマの突進でついに扉の蝶番が吹き飛んだ。流石のカーチャも絶望した瞬間、外から叫び声が聞こえた。


「「「生きてた……」」」


 ヒグマの背後に小銃を手にした一人の日本兵が立っていた。彼は全身血塗れであった。実はその血のほとんどは山本一等兵のものであったが、カーチャらにはその日本兵が瀕死の重傷を負っている様にしか見えなかった。


「なんで……そんなに怪我までしてるのに……どうして戦おうとするの……」


 カーチャにはその日本兵の行動が理解できなかった。これまでの戦いでこのヒグマが一人でどうこう出来る相手で無い事は分かっている。ましてあの重傷ではまともに戦えるとは思えなかった。しかしなぜかカーチャには彼が何とかしてくれる様な予感があった。



――舩坂弘


 振り向いて立ち上がった羆と向き合った舩坂は考えていた。これまでの戦いであの腕が恐ろしいほどの力を持っている事が分かっている。鉤爪も鋭い。あの腕には絶対触れては駄目だ。一発でも食らうとお終いだ。とにかく腕の攻撃を避けて避けて急所を狙う機会を窺う。それしか作戦は無い。そう彼は覚悟した。


 羆の咆哮と共に死闘は始まった。立ち上がった羆は両手を振り回す。それを舩坂は紙一重で避けていた。


「見える……見えるぞ!」


 戦いが始まって舩坂は自分の変化に驚いていた。恐らく極限まで高められた集中力の成す技か、目にも止まらない速さと思えた羆の腕の軌道が舩坂には見えたのである。次に羆がどう動くかまで予測する事すらできた。


 もちろんいくら動きが見えていても人間の反応速度や動きには限界がある。避けている様に見えても実は羆の攻撃は舩坂に掠っていた。舩坂の軍服はあちこちが次々と裂けその下の皮膚も抉られていく。今では本物の舩坂の血で全身が濡れていた。しかしギリギリの所で彼は致命傷を避け続けていた。



――東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


「凄い……彼は本当に人間なの……?」


 カーチャ達は息を詰めて日本兵とヒグマの戦いを見つめていた。信じられない事に重傷を負っているはずの日本兵はヒグマの攻撃を避け続けていた。そしてじっとチャンスを窺っている事が分かった。


 いつの間にか戦場は自分たちの装甲砲艦や日本軍のトラックから離れた場所に移動していた。今ならそのトラックに乗って逃げ出す事も出来そうである。理性ではそれが最善だと分かっていたが、彼女たちは戦いから目を離す事が出来なかった。


 彼なら何とかしてくれる。カーチャの予感は確信に変わりつつあった。



――舩坂弘


 攻撃が一向に当たらない事に業を煮やした羆はとうとう四足になって噛み付き攻撃に切り替えようとした。それこそが舩坂の待っていた機会だった。


 これまでは高い位置にある羆の頭に攻撃する事ができなかった。しかし四足になれば別である。舩坂の背でも攻撃が届く。噛み付いてきた頭に向かって舩坂はこの日初めて銃剣を繰り出した。その銃剣は過たず羆の残った左目を貫いた。


「-----!!!!」


 これまでどんな攻撃を受けても怯まなかった羆が初めて悲鳴をあげた。そして再び立ち上がると今度は両手を滅茶苦茶に振り回し始めた。舩坂は歯噛みした。差し込みが甘かったらしい。銃剣は脳に届かず今度も羆の視力を奪っただけだった。刺さった小銃はすぐに羆に振り払われ遠くに飛んでしまっている。仕方なく舩坂は腰から自分の銃剣を取り出した。


 両目の視力を奪ったのだからもう放って置けば良い。舩坂の頭の片隅でそんな甘い言葉が囁かれる。しかし舩坂はどうしても羆に止めを差したかった。山本一等兵ら分隊員の敵討もある。しかし自分自身の中で羆を仕留めたいという欲求が高まっていた。


 舩坂は羆の背後にまわるとその背に飛びついた。



――東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


「彼は何をしようと言うの!?」


 ノーニャが思わず声をあげた。日本兵の行動に驚いたのである。ヒグマの視力は既に両目とも奪われている。ああなってはもう野生では生きていけない。放って置くだけで勝手に野垂れ死んでくれる事は間違いなかった。なのにその日本兵はヒグマの背に飛び乗ったのだ。


「彼はヒグマに止めを刺すつもりだわ」


 カーチャは落ち着い様子で答えた。その熱い眼差はじっと舩坂を追い続けていた。



――舩坂弘


 暴れる羆の背中に飛びついた舩坂はその太い首に左手を巻きつけた。そして右手に持った銃剣をその首筋に突き立てた。皮と脂肪層を貫通した銃剣は筋肉で止められる。舩坂は銃剣をよじりながら刃の通る隙間を探った。


 羆は舩坂を振り落とそうとしてますます暴れまわる。そしてついに地面を転げ回り始めた。羆の体重は300kgを超える。あっという間に舩坂の全身の骨は砕かれ内臓も損傷を受けた。それでも舩坂は首から手を離さず銃剣を抉り続けた。


 そしてついに銃剣が分厚い羆の筋肉層を突破し頸動脈を切り裂いた。銃剣の隙間から盛大に血が噴き出す。


 それでも羆は暴れる事を止めない。さらに銃剣を奥へ進めた舩坂は背骨を探り当てると椎間板の隙間から銃剣を脊髄に差し込んだ。


 脳と体を結ぶ神経を断ち切られた羆は一瞬全身を硬直させると次の瞬間に弛緩させ、ついに息絶えた。



――東ロシア帝国 国境警備隊 BPK内


「「「やったーーー!!!」」」


 日本兵がヒグマを仕留めた瞬間、カーチャ達は歓声をあげた。あの命の恩人である日本兵には絶対に礼を言わなければならない。しかしいつまで経っても日本兵は立ち上がらなかった。どうやら彼はヒグマの巨体の下敷きになっている様子である。どう考えても非常に不味い状況だった。


「不味いわ!助けに行くわよ!」


 カーチャ達は船室を飛び出してヒグマと日本兵の元へ向かった。


 やはりその日本兵は倒したヒグマの下敷きになっていた。声をかけても反応がない。ノーニャが悲しげに首を横に振った。それを見たカーチャが叫ぶ。


「彼は生きてる!絶対生きてるから!助け出すのよ!」


 それからが大変だった。女性の力で300kgを超すヒグマの死体を動かすのは簡単な事ではない。日本軍のトラックの力も借りてどうにかやり遂げた彼女たちは、そのトラックに恩人の日本兵を乗せると街に向かったのであった。



――東ロシア帝国陸軍病院 入院病棟


「なんで生きてるの!?て言うか、なんでもう普通に歩いてリンゴ食べてるのよ!」


 羆との死闘から三日が経っていた。最初に舩坂が病院に担ぎ込まれてきた時、誰もが死体だと思った。医師の話では間違いなくその時は脈が無かったと言う。実際その日は病室ではなく死体安置所に寝かされていた。


 しかし信じられない事に舩坂は息を吹き返した。それでも全身には40ヵ所を超す大小の裂傷があった。両大腿骨と右の肩甲骨、肋骨のほとんども骨折している。左肩は脱臼していた。内臓にも多数の内出血が認められた。失血量も多い。重傷という言葉すら生ぬるい程の容態であり蘇生したとは言っても予断を許さない状況であった。だがその後に彼は信じられない程の回復力を見せ医師たちを驚かせる事となる。


 最初、せっかく病院に連れて来たのに舩坂の死亡が確認されただけの形となったカーチャはずっと泣き濡れていた。


 しかしその後に蘇生したと聞いて狂喜乱舞し、まだ重体だと聞いて急いで病院に駆けつけてみれば、重体なはずの舩坂が廊下に立って普通にリンゴを食べていたのである。


「私がどれだけ心配したか分かってるの!ノーニャもラーラもニーナもアリーナも!みんな心配したんだから!」


 病院の廊下で突然見知らぬロシア少女に喚かれ、しがみ付かれて泣かれた事に舩坂は困惑したが、その拙い日本語で泣き喚く内容から漸く彼女が先日羆から助けた女性兵士の一人だという事に気付いた。


「自分はどういう訳か昔から怪我の治りが早い体質なんだ」


 そう言って苦笑すると舩坂は泣きながらしがみ付くカーチャの頭を優しくなでた。


「お互い生きてて良かったな」


 カーチャは顔を上げると涙と鼻水でグチャグチャの顔で笑って頷いた。この時舩坂は、カーチャの羆より激しい襲撃アタックをこの日から連日受けるようになるとは知る由も無かった。



――渋谷センター街入口 大盛堂書店本店


 渋谷センター街の入口にある「大盛堂たいせいどう書店本店」。戦後この地に店を構えたこの書店は当時としては珍しいビルを丸ごと使った大型書店である。昨今は近隣に同業他社の出店も相次ぎ、若者の本離れもあって業績は苦しくなっていると聞く。しかし数年前に他界した創業者の遺志を継いだ、創業者の妻で現会長の強い意向で苦しいながらも何とかこの激戦区に留まり、時代が昭和から平成に変わった今も営業を続けている。


 その日、会長に会わせて欲しいと一人の青年が店を訪れていた。見るからに鍛えられた筋肉を誇示するためか上半身はタンクトップ一枚のみというちである。会社を訪問するには如何なものかという服装ではあったが、見かけと裏腹に礼儀正しい物腰であった事と、たまたま当日店に居た会長が彼の訪問用件を聞いて面白がった事からアポイントが無いにもかかわらず奥に通される事となった。


 彼が応接室に通されてしばらくすると会長が若い女性秘書を連れて入室してきた。


「本日は約束も無いのにお会いして頂き本当にありがとうございます。本でご主人のお話を知りまして、居ても立っても居られずに押しかけてしまいました。本当に申し訳ありません」


 彼は慌ててソファから立ち上がると礼儀正しく挨拶した。


「あら、本当に格好以外は礼儀正しいのね。どうぞお座りになって。私も久しぶりにあの人の話を出来るから嬉しいのよ。楽にしてくださいな」


 そう言って彼女は壁に掛けられている創業者である夫の写真を嬉しそうに眺めた。既に卒寿も過ぎているはずだがピンと伸ばされた背筋と意思の強そうな青い目は老いを感じさせない。背は低いが明らかに日本人と異なる容姿を持つ彼女は流暢な日本語で応対した。


「では早速、ご主人がかつてヒグマと戦われた時のご様子を……」




「お可哀相に……あのお客様は自信を無くされてしまったご様子ですね……」


 肩を落としてトボトボと帰っていく青年を見送りながら秘書が言った。黒髪を持つ彼女は一見すると日本人にも見える。しかし良く見ると明らかに白人の血が色濃く入った顔立ちをしていた。


「うーん何でかなー。百獣の王を目指してるって言うから私も一生懸命説明したんだけどなー。きっと参考になると思うんだけどなー」


 会長がその高齢に似合わぬ口調で答える。その顔はまるで悪戯が成功した子供の様だった。


「元会長の話を聞けば羆と戦う事がどれだけ凄いか分かりますから。彼は絶対に越えられない壁を知って自信を無くしてしまったのでしょう。私もはじめて曾お婆様から聞いた時は全然信じられませんでした。普通の人間にあんな真似は不可能だと断言できます」


「まぁ当然よね。主人は特別だから。世の男達はね、全てが主人より下なの!強さも度胸も身長もね!」


「Он не человек(人間じゃないし)……」


「すみれ聞こえたわよ!主人を侮辱したらシベリア送りよ!」

 架空の河川砲艦や簡易水上魚雷まで出したのですが、まるっとすっきり全然ストーリーに関係していません……本当にごめんなさい。


 一応、小説タイトル通り『超高速ロケット(水上)魚雷(を積んだ装甲艇の横)で日本(陸軍の舩坂弘)が(羆を相手に)無双』するお話になっております。

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― 新着の感想 ―
現実には九九式の7.7mm弾はアメリカでもグリズリーの頭蓋骨を貫通可能だそうです。(日本では九九式は許可がおりませんが。)ちなみに30-06と308ウィンチェスター弾共に撃ったことはあります、
分隊がほぼ全滅したときのセリフはコンスコン少将のあのセリフですね~
気落ちした筋肉モリモリの青年はなかやまきんに君?もしくは武井壮?ぽいですね(笑)
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