第一話 インド洋の刺客
――インド洋 日本海軍 潜水艦 伊62 発令所
藍色の海面を一筋の白波が切り裂いていた。その下には透明度の高い海水を通して黒々とした影が朧げに見える。それは潜望鏡をあげた潜水艦であった。
昭和十七年(1942年)二月、この日、第5潜水戦隊に所属する伊62はインド洋のセイロン島沖で通商破壊任務に就いていた。
伊62は昭和三年(1928年)に建造された海大型の一艦である。航続距離こそ長いが艦齢14年と潜水艦としてはかなりの古参であった。可潜深度は浅く聴音装置も旧式である。彼女の後に就役した艦と違い酸素魚雷も搭載されていない。開戦前の5年間は予備艦に指定されていたくらいの老嬢である。
しかし艦長の木梨鷹一少佐はその事を全く気にしていなかった。海大型とは中尉の頃からの付き合いである。それに酸素魚雷は無いが、代わりに支給された新型魚雷はなかなか使いでが良かった。この海域に進出して1ケ月で既に英国籍タンカーを2隻撃沈している。
そして現在、伊62は先程水平線上に発見した艦隊を追尾していた。
発見後すぐに艦を急速潜航させた木梨は潜望鏡を覗きながら敵艦の特徴を隣の先任大尉に伝える。運良く敵艦隊の方から近づいて来てくれたため距離は10000mを切っていた。
「敵艦隊は空母1隻、駆逐艦3隻。空母はハリケーンバウ、中央右舷に煙突と一体の大型艦橋。艦橋上部煙突前にマスト。艦上構造物は前部より丸い対空砲座2基、艦橋、……」
「空母の方は英軍のイラストリアス級、駆逐艦も同じく英軍のJ級かN級駆逐艦かと。通報しますか?」
艦型識別表のページを繰りつつ先任大尉が尋ねた。
「今通信を行えば傍受されて警戒されるか逃げられるよ。どういう訳か知らんが奴らは航空機を飛ばしていない。つい先日戦艦を沈められた連中がたるんでるとは思えない……恐らくは運搬任務の最中かな。護衛も少ないから好都合だ。このまま接近して襲撃しよう」
試してみたい事もあるしね、そう言って木梨は先任に微笑んだ。
木梨が伊62艦長に着任して半年経つ。物腰の柔らかな木梨は先任大尉や士官らとも上手くやっていた。水兵達からの信頼も厚い。旧式艦ゆえ古参兵も多いが新兵も多い。半年間の訓練を経て現在の伊62はその能力を十全に発揮できる状態にあった。
木梨らが発見した艦隊は英海軍の空母インドミタブルとオーストラリア海軍の駆逐艦ネイピア、ネスター、ニザムの4隻から成る小艦隊であった。
彼女らは木梨の読み通りセモリナII作戦と呼ばれる戦闘機の運搬任務に就いていた。輸送していたハリケーン戦闘機は既に全機が輸送先へ向けて発艦済みであり現在は空船状態である。今は補給を受けるためセイロン島のトリンコマリーへ向かっている所であった。
3隻の駆逐艦は空母の前方と左右に展開し周囲を警戒している。艦隊は潜水艦の襲撃を警戒して不規則な乙字運動を繰り返しながら進んでいた。
「ちょうど商船に食い飽きた所です。初めての大物の味が楽しみですな。まだ距離が有りますが如何します?」
「この艦にも酸素魚雷が有ればここからでも狙えるんだけどね。無い物は仕方がない。手持ちの新型魚雷だともっと距離を詰める必要がある。どうせ目的地はセイロンのコロンボかトリンコマリーだろう。敵の次の変針の先に回り込もう。先任、進路算定を頼むよ。潜望鏡降ろせ。これより無音潜航を徹底せよ」
その後、伊62は敵艦隊との距離を詰めることに成功した。艦は現在、敵艦隊の右前方に在り、先頭の駆逐艦までの距離は2000m、空母までは3000mほどであった。
しかし潜望鏡を上げた瞬間、伊62は敵に察知された。
3隻の駆逐艦は前方投射兵器こそまだ備えていないものの、最新のレーダーと水中聴音器、そしてアスディックを備えていた。更にこれまで大西洋で独軍の潜水艦と死闘を繰り広げてきたことから対潜水艦戦闘の豊富な経験もあった。
直ぐに右側の駆逐艦がアスディックの探信音を響かせながら伊62の方へ舵を切った。空母と他の2隻の駆逐艦は別の潜水艦の襲撃を警戒しているのか増速や変針の動きはない。おそらく耳を澄ませているのだろう。その落ち着いた様子は明らかに対潜水艦戦闘に慣れている証であった。
一般に雷撃とは潜望鏡や聴音観測から敵速や敵針を計算し、雷撃方位盤に諸元を入力して初めて可能になる。潜望鏡を上げた途端に敵に探知された潜水艦には雷撃を諦めて潜航してやり過ごすしか手は無いはずであった。しかし新型魚雷を持つ伊62の戦い方は違っていた。
――英海軍 セモリナII作戦部隊 嚮導駆逐艦ネイピア
「日本の潜水艦乗りは素人なのか?」
艦隊の先頭を行く嚮導駆逐艦ネイピアの艦長は、敵潜水艦の制圧を艦隊右翼の駆逐艦ネスターに指示すると戦闘の様子を観察していた。なにも敵潜水艦を撃沈する必要はない。任務は空母インドミタブルの護衛である。頭を抑え雷撃を阻止できれば十分であった。潜航した敵潜水艦の頭上に爆雷をばらまいてしばらく大人しくさせるだけで良かった。
しかし目の前の潜水艦は潜航せず潜望鏡を出したまま艦隊に向かってくる。ネスターが探信音を盛大に出して接近しているのだ。自分が既に探知されている事は分かっているはずだ。ネスターの下を潜り抜けてまっすぐインドミタブルに向かうつもりかもしれないが、その前に爆雷を食らうのは間違いない。大西洋のUボートを知る彼にとって日本の潜水艦の動きは無謀としか思えなかった。
その時、潜水艦の前方に気泡が上がった。気泡は潜水艦の発射管から魚雷が圧縮空気で押し出された証だった。
「敵潜水艦より魚雷発射音!」
「敵潜水艦、魚雷発射!目標インドミタブル!」
ソナー室と見張りから同時に報告があがる。
「インドミタブルに警告しろ!」
即座にネイピアの艦長は指示を出す。だが彼はあまり危機を感じてはいなかった。インドミタブルと潜水艦との距離はまだ3000mほどある。この距離なら魚雷到達まで2分以上はかかるはずだ。しかも発射された魚雷は1本だけらしい。インドミタブルは簡単に躱わせるだろう。やはり相手は素人だ。彼は心のなかでそう断じた。
だが信じられない事が起こった。ゆっくりと回避運動を開始したインドミタブルの舷側に水柱が上がったのである。まだ敵潜水艦の魚雷発射から30秒程度しか経っていない。
「インドミタブル被雷しました!」
「馬鹿な!」
予想外の事態に思わず動揺が口に出る。艦尾近くに被雷したインドミタブルはみるみる速度を落としていた。右舷に若干傾斜もしている。思ったより被害が大きそうだった。
「インドミタブルに被害状況を確認しろ!」
指示を出しつつネイピアの艦長は思った。3000mは離れていたはずなのに、なぜインドミタブルはあんなに早く被雷した?自らの経験からその理由を類推した彼は一つの結論を導き出す。
「畜生、あの潜水艦はブラフだ。他にも敵が潜んでいるぞ!ニザムにインドミタブルを護衛して出来るだけ早くこの海域から離れる様に伝えろ!ネスターは引き続き目の前の潜水艦を制圧。ソナー室、もう一隻近くに居るはずだ、探せ!」
「インドミタブルより入電。右舷機関室および推進軸損傷。応急完了までは10ノット以上の発揮不可。応急処置完了まで2時間はかかるとのことです!」
インドミタブルは沈むことはないだろうが、この海域からすぐには離脱できなくなった。これから何隻居るか分からない敵潜水艦から足の止まった空母を3隻の駆逐艦で守らねばならない。ネイピアの艦長は声にならない呻き声をあげた。
――日本海軍 伊62 発令所
「魚雷命中」
潜望鏡を覗いていた木梨が落ち着いた声で告げる。水中の音波伝搬速度は速い。すぐに重々しい爆発音と甲高い金属の軋む音が聞こえてきた。歓声をあげようとする発令所内を先任が目で黙らせる。
「お見事です」
「新型魚雷のお蔭だよ。さて、これで空母の足は止めた。邪魔な駆逐艦を先に始末してから最後に空母を食おうか」
「先に空母に止めを刺さないので?それより退避しないのですか?」
「僕は好物を最後まで取っておく性質でね。それに臆病なんだ。危険の芽は先に摘んでおきたい。連中はまだこちらの戦い方を知らない。今なら手間をかけずに始末できる。それに目撃者が居なければ、この先もまた同じ様に襲撃できるだろう?」
「艦長も相当な欲張り者ですな」
「君は失礼な奴だな。僕は欲張りじゃない、臆病なだけだよ」
木梨は潜望鏡を覗きながら先任に答えた。楽しそうに物騒な会話する艦長と先任を見て萎縮していた発令所の水兵達の顔にも笑顔が戻る。
木梨は左右に潜望鏡を振って素早く周囲を観察した。相変わらず1隻の駆逐艦がこちらに向かってくる。先頭の駆逐艦は明後日の方を捜索している。もう一隻は空母の周囲を回っている。
「敵は良い具合に勘違いしてくれているらしい。どうやら他にも潜水艦が居ると考えている様だ。まずはこちらに向かっている駆逐艦を仕留めようか。微速前進。進路12」
「微速前進、進路12よーそろー」
木梨は伊62の艦首を向かってくる駆逐艦に向けた。距離は1000mほどに縮まっている。
「2番発射管、即時発射準備。調定深度3m。斜進角0度」
「2番発射管準備よし」
「2番発射管、発射」
伊62は艦首4門、艦尾2門の発射管を備えている。先程インドミタブルに対しては艦首の1番発射管を使用した。次発装填は可能だが危険な作業のため戦闘中は行えない。艦尾の発射管は余程の事が無いと使えないため木梨は残り3本の魚雷で当面戦う必要があった。
本来、魚雷戦は一発必中を期すものではない。目標の未来位置を予測し複数射線を扇型に発射して目標予想進路を包み込むやり方が基本である。
しかし伊62はインドミタブルに対し魚雷を1射線しか発射しなかった。それにも関わらず命中している。更にこれからも一発必中で戦うつもりの様であった。これは従来の魚雷戦の常識から考えると異常であった。
――英海軍 嚮導駆逐艦ネイピア艦橋
「敵潜水艦、魚雷発射!」
次に狙われたのはネスターらしい。ネイピアの艦橋からもネスターが回避運動を始めた様子が見て取れた。潜水艦との距離は1000mほど。ネスターはアスディックを使っているため15ノット程で潜水艦に接近している。魚雷の到達は30秒程かかるはずだ。雷数はまた1射線のみ、正面からの雷撃なので今度こそ十分回避は可能だろう。ネイピアの艦長はそう思った。
しかしそのわずか数秒後、ネスターの艦首が吹き飛んだ。一瞬遅れて更に大きな爆発が起こり艦前部のA砲塔とB砲塔も宙に舞う。弾薬庫に引火したらしい。艦の前半を失ったネスターは艦尾を水面に上げて瞬く間に沈んでいった。
「ネスター被雷!沈みます!」
静まり返った艦橋内に見張りの報告が響く。轟沈である。あれでは生存者は望めないであろう。ネイピアの艦長は一瞬指示を出すことも忘れてネスターの沈む様子を見つめていた。なぜ予測より遥かに早く魚雷が到達する?二度も続けて複数の潜水艦がタイミングを合わせた雷撃をしたと言うのか?
一瞬思考が止まりかけた彼だったが艦長という役職が意識を引き戻す。とにかく目の前の潜水艦が攻撃の起点になっているのは間違いない。まずは奴を始末する事が先決だ。我に返った艦長は矢継ぎ早に指示を出した。
「どういう手品を使っているか分からんが、まずは目の前の潜水艦を片付ける。ニザムに連絡。戻って本艦と共同で潜水艦を制圧するように伝えろ!両用砲と機銃は奴の居るあたりに弾を叩き込め!効果は期待薄だが牽制にはなる。機関室、全速即時待機!」
ネイピアから見て敵潜水艦は右舷の2000mほど先に居た。相変わらず潜望鏡を出したままで深く潜る様子は無い。水中に居る敵に砲弾を撃ってもほとんど効果が無いのは分かっているが、相手の攻撃手段が不明な以上、とにかく邪魔をするしか無かった。
次に狙われるのは間違いなくこのネイピアである。艦の安全を考えると舷側を晒して被雷面積を増やすのは危険であるが、艦首を敵に向けてしまうと船首楼が邪魔で発砲できない。横ならばほぼ全ての火砲を敵に指向できる。ネイピアは敵潜水艦の方へは向かわず右舷に向けて指向可能な砲全てで攻撃を開始した。
あっという間に潜望鏡周辺の海面が大小の水柱で覆われる。これでニザムが来るまでの時間稼ぎができれば……艦長はそう願った。
「右舷、魚雷来ます!」
再び見張りから報告があがった。今度はほとんど悲鳴に近い。やはり水面下への砲撃は効果が無いか……それに砲撃の水柱と音で発射の瞬間を見逃したらしい。艦長は自らの失策に内心で歯噛みしながらも素早く指示を出す。
「機関全速!面舵一杯!各機銃座は魚雷を狙え!」
ネイピアの艦長は指示を出すや右舷のウィングに走り出た。そして見張りを押しのけると海面を見つめた。機銃の着弾の水柱を抜けて一本の魚雷が恐ろしい速度で向かってくるのが見えた。なんだあの速度は?そうか、ようやく手品のタネが分かった。
そして悟った。畜生、この魚雷は避けられない。
「総員、被雷に備えよ!」
それが艦長の出した最後の命令であった。
魚雷は艦橋の直下に命中すると駆逐艦の薄い船殻を貫通し艦内で爆発した。爆発の圧力がほとんど艦内に放出された結果、その威力に比して控えめな水柱が舷側に立つ。その代わり横に向かった圧力は全速発揮に向けて圧力を上げていたボイラーを滅茶苦茶にして二次爆発を誘発した。
そして上に向かった圧力は駆逐艦の小振りな艦橋ごと艦長を吹き飛ばした。ネイピアは艦中央部の強度をほとんど失った結果、二つにへし折れると瞬く間に海面下へと消えていった。
――日本海軍 伊62 発令所
「魚雷命中……敵駆逐艦、撃沈確認」
木梨の落ち着いた声が発令所内に響く。さすがに3度目となれば先任が注意しなくても水兵達は黙っている。だがどの顔も喜色に溢れていた。
「進路35。半速」
木梨は残り1隻となった駆逐艦とノロノロ這い進む空母に止めを刺すべく指示を出す。最後の1隻となった駆逐艦は戦場の反対側に居たため状況が分からない様だ。2隻の僚艦が立て続けに失われたのを見て空母の傍らに戻る事にしたらしい。ちょうど反転のため舷側を晒していた。
木梨は艦首発射管に残った最後の魚雷でその駆逐艦を始末した。その様子は先程沈めた駆逐艦の最後を再生したかの様に同じだった。
その後は空母に近づき艦を反転させると艦尾の2門の発射管で魚雷を打ち込んだ。右舷に3つの巨大な破孔を空けられた空母は甲板から乗員を砂粒の様に落としながら横転すると数瞬後にボイラー室に流れ込んだ海水で盛大に水蒸気爆発を起こしインド洋に沈んでいった。
「周囲に敵影なし。敵艦隊の全滅を確認。戦果、空母1、駆逐艦3」
空母の横転沈没を確認した木梨は潜望鏡から目を外すと発令所内に振り向いた。
「皆、ご苦労様でした」
どっと発令所内が湧く。階下の艦内からも歓声が聞こえた。流石に今回は先任も苦笑するだけで騒ぎを止めない。
「浮上確認はしませんので?」
「上は溺者やら何やらで一杯だよ。新兵には少々キツイ風景だ。それに空母は悲鳴のように救援要請を出していたはずだ。すぐに航空機や敵艦が駆けつけるよ。せっかくの戦果を台無しにしたく無い。一旦ここを離れよう」
「戦場に慣れさせるのも教育なんですがね……艦長がそうおっしゃるなら今日は止しときますか。進路は如何します?」
「魚雷もだいぶ使ったし報告も必要だろうから一旦ペナンへ戻る事にしようか。進路120。半速。発射管が全部空っぽだから再装填も忘れずに頼むよ」
「承知しました。進路120。半速よーそろー。お前ら、いつまでも騒いでないで魚雷再装填急げ!」
「夜になったら浮上しよう。今晩は酒保も開放だ」
艦内の歓声がまた大きくなった。
伊62の行った特殊な魚雷戦の秘密ついては次話で明らかになります。