番外篇 シュレデンガーの三毛猫はご主人様から逃げられにゃい!
もっと話を進展させてから投稿しようと思って書き溜めていたものだけど。えーい面倒くさい載せちゃえー。
わたしのはじまりの記憶。
目が開いたばかりのわたしは小さな箱の中にいた、降り注ぐ水の玉が薄ぼんやりと輝いた世界を見上げていた。
なんだか身体に力が入らない、鳴き喚くこともできない。わたしは気が付いていたんだ、多分もうすぐこの美しい世界ともお別れになるんだと。
黒い大きな鳥がわたしを迎えに来た。大きなくちばしがわたしの脇腹を突っついてくる、何だかこそばゆいようなかゆいような気持ちになった。
次にやってきたのは梅干しみたいに皺くちゃの人だった。皺くちゃはわたしの周りにいた鳥達を追い払って、わたしを箱ごと持ち上げた。
とんでもない皺くちゃに捕まったような気がして、わたしはしめやかに失禁した。
やはりとんでもない皺くちゃだった。
皺くちゃはわたしを家に連れ帰り、あろうことかわたしを暖かい湯に漬けてから身体中を執拗に揉み始めたのだ。お湯攻めだ。多分わたしは猫鍋にされて食べられてしまうのだろう。わたしはしめやかに失禁した。
お湯攻めが終わり熱風や布によってゴシゴシされたわたしを、次に待ち構えていた拷問は小さな哺乳瓶を使っての兵糧攻めだった。
恐縮して胃が縮んでいるわたしの事情などはお構いなしで無理矢理にでも生暖かくて白い液を飲ませようとしてくるのだ。多分、肥え太らせてから猫鍋にして食べようとしているのだろう。もちろんわたしは失禁した。
わたしの予想を裏付けるように、皺くちゃはわたしを日毎に計量器へと乗せて太り具合を確認していた。
皺くちゃに養われていると気が付いたのは出会いから数週間後のことだ。
一人で歩き回れるようになったわたしは、皺くちゃの家を歩き回った。
わたしの他にも沢山の猫が住んでいたのだと知った。
自然豊かな農村の小さな家で、庭先には柿の木があって、裏の雑木林では沢山のえのころ草が揺れている。猫達は気だるげに縁側で寝転がっていて、偶に毛繕いをしたり爪を研いだりしながら気ままに暮らしていた。
わたしの抱いた第一印象は、まるで猫の楽園、そう猫の国だった。
「そろそろチビちゃんの名前も決めないとねぇ」
皺くちゃが言う。
「三毛猫だから多分メスだねぇ、そうだねぇ、ミケコ(三毛子)ちゃんなんてどうだろうねぇ」
皺くちゃは短絡的だ。
わたしがミケコになるのと同時に、皺くちゃはわたしのご主人様になったのだ。
ご主人様は基本的に狩りが苦手なようだ。
経験の浅いわたしにすら腕前で劣っていた、けれどどうしたことだろう、狩りをしていないご主人様はどこからともなく美味しいご飯を用意するのだ。
わたしが内心で、狩りが下手なくせに生意気な、と毒づいているとも知らず。わたしが一心不乱で食事をしている時などはご主人様がわたしの頭を撫で回していた。
本当はベタベタ触られるのはプライドが許さなかったけれど、まぁ、ギブアンドテイクだ、ご主人様だけは特別に触らせてやってもいいかな。餌をくれる時だけ。寛容なわたしは大目に見てあげることにした。
猫の国でわたしは一匹の高齢なトラ猫と出会った。変な言葉遣いをする猫だったけれど、彼は年相応に物知りでわたしの抱いた疑問などを解決する天才だ。わたしは彼のことを尊敬の意を込めてトラ爺と呼んだ。
「うむ吾輩に聞いて正解だぞ。貴様の想定している通り、この世にはオスとメスの二種類の生物が存在している。オスはメスと出会い番い子を授かる、次へ託し、またオスとメスが出会い子を授かる、これを永遠に繰り返す。これは所謂フラクタルだ、吾輩達は大きな連鎖の一部でしかないが過去も現在も未来も全てが同一の形で吾輩達の目の前に横たわっているのだ」
「そんな急に捲し立てられても困る。要するにわたしにも母と父が居て、いずれはわたしも母になるということなの?」
「…………、んなこと知らんわ、吾輩に聞くな。子供を授かれるかどうかなんて結局運だ」
「ちょっと! フラクタルはどうしちゃったの?」
次の瞬間にトラ爺は狸寝入りしていた。何か都合の悪いことがあるとすぐこれである。
わたしは母を知らないけれど、トラ爺の話が本当ならばわたしにも確かに母親がいて、いずれはわたし自身が母親になってわたしに似た子供達を授かるのだ。これは凄いことを知ってしまった。わたしはこの世にたった一匹だと思っていたけれどいつか家族ができるのだ。
「あらあら、ミケコはなんだか上機嫌だねぇ」
ご主人様がわたしに笑いかけた。彼女の皺くちゃの顔を見ていると何だか暖かい気持ちが溢れてきて居ても立っても居られなくなった。わたしはご主人様に顔を擦り付けた。
「どうしたんだろうねぇ、今日は甘えん坊さんだねぇ」
今日は特別に餌と交換せずに頭を撫でてもいいよ、と行動で示したわたしに対して、気持ちが通じたのかどうかわからないけど、ご主人様はのほほんとわたしの頭を撫ぜた。
ある日、トラ爺が居なくなった。
常日頃からトラ爺は知的好奇心を満たす目的で旅に出たりしていたけど、誰にも何も言わないで出かけることは無かったのにどうしたんだろう。
友達の白猫が言うに、トラ爺は死を悟って隠れてしまったらしい。またその友達の友達の黒猫が言うに、トラ爺はふくよかなメス猫に一目ぼれして出て行ったらしい。
猫の国中の猫に意見を求めたけれど、みんながみんな違う回答をした。
真実は分からない、トラ爺は死んでしまったのか、それともメスの尻を追いかけて行ったのか、まるで沢山のトラ爺が同時に存在しているみたいで不思議だ。
確かトラ爺に教わった中で似たような話がある。
しゅ、しゅ、シュレデンガーの猫? 合ってるかな、わからないけど。誰かがトラ爺の行方を確認するまで沢山のトラ爺が同じ確率で同時に存在しているのだ。
「最近はトラオ(寅夫)を見かけないねぇ、お迎えが来たのかねぇ、ずっと傍にいてほしいけど猫だから仕方ないねぇ」
縁側に腰掛けたご主人様が寂しそうにつぶやいた。
ご主人様はトラ爺死亡説を信じているみたいだ。わたしはご主人様に近寄って彼女を励ますように身体を擦り付けた。
シュレデンガーの猫だよご主人様! 元気を出して! トラ爺は死んだかもしれないけど、それと同じ確率で生きているんだよ。だからそのうちまた「その解釈とは別にエヴェレットの多世界解釈がどうのこうの」とか言いながら現れるかもしれない。
「ミケコは優しいねぇ、私よりもずっとずーっと長生きするんだよ」
わたしの気持ちはご主人様に届かない。でもわたしは諦めていない今よりももっとずっと沢山の人類語を覚えて、いつの日にかご主人様と会話するのだ。わたしが喋りだしたらご主人様は驚くだろう、シュレデンガー状態のトラ爺もきっと羨ましがるに違いない。
ある朝、ご飯時になってもご主人様は起きてこなかった。
ご主人様は美味しいご飯をわたし達へ提供することを至上の喜びとしているのに、ご飯を忘れてしまうとはどういうことだろうか。まぁわたしももうすぐ一歳になるのでちょっとした他人のミスを見逃してあげる寛容さも兼ね備えている。今日はその辺のバッタとかを捕まえよう。
次の日も次の日もご主人様は起きてこなかった。
見慣れない人がやってきて招かれても居ないのに猫の国へと上がり込んだ。
わたしは何とかして食い止めようと抵抗したのだけれど、如何ともし難い体格差の前にあっさりと掴みあげられて外へ放り出されてしまった。
見慣れない黒ずくめの人たちが集まって猫の国を黒色に飾り付けた、何やら黒ミサ的なものを開催していた。なんて身勝手な連中だろうか、わたし達の許可を取れとまでは言わないけど、最低限ご主人様へ話を通してからおこなってもらいたいものだ。
そういえば、最近ご主人様の皺くちゃな顔を見ていない。なんだか心にぽっかりと穴が開いたみたいで落ち着かない。
黒ずくめ達の何人かがわたし達に群がった。
彼らの会話内容から事と次第を伺い知ろうと試みたけれど、「里親」とか「保健所」とか「愛護団体」とか、わたしの知らない人類語が使われていて判然としない。
ただ、彼らがわたし達をどこかへ連れ去ろうとしているということは漠然と理解できた。
わたしはここを離れたくない、ずっとご主人様と一緒に居たい、いつかわたしの子供達を皺くちゃの手で撫でてもらいたい。
黒ずくめ達の一人がわたしに気が付いた。わたしを容易に掴みあげた彼は、わたしのデリケートゾーンを確認して目を丸くした。傍らにいた人に話しかける。
「見ろよこいつ、三毛猫のオスだ」
「あん? それがどうした」
「わかんねーかな、三毛猫って本来は遺伝子的にメスしか生まれないんだよ。それがクラインフェルター症候群っていう染色体異常で稀にオスが生まれるんだ。な? 珍しいだろ」
人間達の会話を聞いて、わたしは頭を金槌で強か殴られたような衝撃をうけた。
どうやら、わたしはメスではなくてオスだったらしい。
わたしは母親にはなれない、なれるのは父親だったのだ。
「お、じゃあもしかして高値で売れたりするのか?」
「……お前まじか、流石に引くわ、金に絡めてものを考えるの止めた方がいいぞ。確かに血統書付きのオスなら家が建つくらいの値が付くこともあるけど、こいつは雑種だから金に換えてもたいしたことない」
「なーんだ、そうなのか」
人間達から品定めするような目で見降ろされて、わたしの心は底冷えのようなものを感じていた。
人に対してこんな気持ちを抱いたことはなかったけど。わたしの脳裏はただ一言『きもちわるい』という言葉に支配された。
そこで気が付いた。わたしはご主人様以外の人を知らない。
嫌だ、嫌だ。
気持ち悪い。
ご主人様の所に行きたい。あの安心する皺くちゃな笑顔を見たい、また撫でてもらいたい。
ここに居たくない。
「おっとっと、ははは、暴れるな」
「くそー、儲けられると思ったのに」
「まだ言ってるのか。あぁでも、雑種でも繁殖能力があったら値打ちが上がるんじゃないかな」
「おお! まじか!」
「でも確率は低いぞ。染色体異常をもった個体だから大抵は子供を作れないんだ」
「ぬか喜びさせやがって!」
わたしの視界に映った世界から色彩が失われた。
笑いあう気持ちの悪い人間達。彼らがわたしを見る目は雄弁に語っていた、価値の無い失敗作、この世に生を受けて子孫を残すこともできない劣等種、生命のフラクタルから洩れた異常者。
自分でも何をどうやったのか覚えていない。
わたしは気持ちの悪い人から逃れるために無我夢中で暴れた。
放り出された後も懸命に走った。彼らはわたしをご主人様から引き離そうとしているのだ、彼らに捕まったら二度とご主人様に会えない。
わたしが冷静を取り戻した時には、わたしは軽トラックの荷台に揺られて見知らぬ町に辿り着いていた。
今までに見たことが無い量の人間達が暮らしていた。
人間達はわたしを見つけると囃し立てて遠慮なしに触ろうとしてくる。彼らに共通しているのは皆が同じような毛の生えていないツルツルとした顔で気持ちの悪い笑みを湛えている事だ。これはわたしに現実を叩きつけたあの黒ずくめの人間達と同じ特徴だった。
気持ち悪い、キモい、キモい。
ご主人様以外の人は誰も彼も同じだ、誰も等しく全員気持ち悪い。
この町とわたしの故郷がどれだけの距離で隔てられているのかは分からない。けど、絶対にわたしはまた猫の国に戻る、絶対にまたご主人様のもとに戻るのだ。
それからわたしが子孫を残すことはできないという話に関して、わたしはもう考えを改めていた。これもトラ爺の一件と同じだ。
全てはシュレデンガーの猫、わたしが子供を授かる未来もそうでない未来も等しく存在しているのだ。へこたれてはいけない。
まずは生き方を変える所から始めよう。わたしはどうやらオスだったようなので、素敵なメスと番いになれるようにオスらしく振る舞う必要がある。
さしあたり一人称を変えてみようか。
『わたし』じゃなくて、『おれ』? 『ぼく』? 『せっしゃ』? 『しょうせい』? 『それがし』? 何だかどれもこれもしっくりこない。
そこでわたしは自分が一番尊敬している先達の猫を真似することにした。
「吾輩、ふふ、そうだ吾輩」
わたしは……吾輩は空模様が変わっていることに気が付いた。いつの間に曇ってしまったのか曇天から白い氷の結晶が降り出していたのだ。
吾輩は戦々恐々としてこの異常気象を眺めていた。最近寒くなったと思っていたがまさか氷が降り始めるなんて、もしやこれがトラ爺の言っていた究極の自然災害『氷河期』なのでは!?
当然ながら吾輩はしめやかに失禁したのだった。
本編の前日譚でした。
主人公『吾輩』が何故人間を毛嫌いしているのか、とか、タイトルの『ご主人様』は誰を指しているのかなど、漠然と思い描いていた設定のパレードでした。
『吾輩』は佐藤ノナリーの事を毛ほどもご主人様とは認めていないので、早くこの話を載せないとタイトル詐欺になってしまうと焦っていました。
次回からは佐藤ダンジョン篇(全一話)に突入です!