ホワイトヤード
トルン・ヤードへと続く荒れ果てた街道は、最早通る人間が居ないのか廃道と化していた。
以前は整備されていたのだろう面影を残しつつも、草叢に覆われ、冬の情景と混じり合っている。季節ゆえか獣の類も見られず、道の境は泥と混じり合って判別が付かない。打ち捨てられた看板や、半壊したあばら小屋が道中に時折姿を見せ、ニアは古城と姿を重ねて物悲しくなった。
もうルドワを出てから二日が経過している。旅というものは想像をするよりもずっと過酷だった。孤独で、寒く、餓える。登山や遠征などを経験したことのない彼女に対して、道程は余りにも辛辣だった。古城に取り残された彼女も、こんな自分と同じ思いを抱いているのだろうか。
枯れ木に囲まれながらも半刻程歩き続け、やがて景色は徐々にではあるが移ろい始める。草木を見なくなり、道が途切れる。辿る物を失ってしまえば、やがて方角が分からなくなった。そして地面は歩けば歩くほど白が混じりだす。それは決して雪などでは無く、穢れた灰燼だ。
脇を山岳に挟まれている為に路を誤る事はなかったが、それでも未だトルン・ヤードには着かない。次第に辺りに薄闇が降りてくる。夜は危険だ。ニアは疲弊した身体を休めるべく、野宿出来る場所を探して彷徨った。もう歩き疲れ、足の感覚が薄れている為に、膝から下に肉塊をぶら下げているような錯覚を覚えた。
灰の混じった土は、蟻地獄のように足元を流れて、思うように前へ進めない。体感では十メートル進んでも、実際には五メートル進んではいないなんてこともざらだった。
棒のようになった足を必死に稼働させること暫く、辺りを探索し尽くさんといった様子のニアは、丁度良く、岩の密集した場所を見つけた。暖を求めてニアは亡者のようにふらふらと近付いた。岩の間は風が遮られて余り空気の流れが無く、夜を明かすには打ってつけに思えた。
ニアは岩に凭れるように座り込み、疲れを癒すように足を伸ばした。関節の節々が音を立てて軋むのが分かった。ニアは少しでも身体の痛みを和らげようとして、アイテム欄からスキールを取り出した。
光のエフェクトと共に手中に現れた瓶の中では、透き通った淡い液体が揺れる。高い常習性を持つこの麻薬は、ゲームではドーピング系のアイテムとして知られ、飲むことであらゆる感覚を鈍麻させる。つまりはダメージ軽減である。
ニアは封を開け、瓶を口に宛がって底を傾けた。スキールの原材料はフウシングタケという毒性をもった茸の一種で、調合スキルさえあればだれにでも作成できるものだった。
それゆえニアも量産し、アイテムへと詰め込んである。口へ流れ込む清涼感に脳髄を痺れさせながらも飲み干すと、ニアはやがて浮遊感に襲われ、次に多幸感に身を包まれた。
恍惚感にも似た想いが溢れて寒さを感じなくなり、苦痛は薄れる。なんだか自分が鈍物と化したようだ。水中にいるみたく体がふやけていく。瞼も頭も少し重い。次いで身体が芯の底から温まってくる。それに身を任せるように、ニアは何時の間にか意識を捨てて眠りへと落ちた。
感覚の埒外に放棄された筈の聴覚が音を拾った。遠吠えだ。ニアは先験的な本能から無理矢理に眠りから立ち直り、息を吹き返した死体の如くがばりと身体を起こした。頭はまだ覚醒しきらずに、霧につつまれている。
それでも頭を振って、頬を叩き、体を覚醒に近づけた。
辺りは夜に閉ざされて暗く、視界が効かない。この傑れた視力が無ければ少しの先も窺えぬだろう。ニアは僅かな周囲の輪郭を頼りに立ち上がり、そして覚束ない体幹に舌打ちした。スキールがまだ身体に残っているのだ。麻薬に毒されて視界がぐらつき、足が絡まる。
歪む目を地面に向けて凝らし、どこかへいったオーンブレイカーを探す。だがいくら探しても見当たらない。どこだ。悪態を吐きかけて、そういえば眠る前にオーンブレイカーは仕舞ったことを思い出した。寝ている間に誤って自分を斬らないようにと、その考えが仇になった。
ニアは無駄な時間を過ごしたと、急いで岩の隙間から出ようとしたところで、また遠吠えが聞こえた。音源は先程よりも俄然近い。
「狼だ」
ニアはこの鳴き声に聞き覚えがあった。よく山岳地帯や森林マップに配置されている獣で、一匹の大狼を頂点として群れを形成する事が特徴の冬狼だ。奴らは目も良ければ鼻も良い。もしや人の匂いを嗅ぎ取ったか。
岩の物間から抜け出したニアは、闇夜に進むべき進路を見失った。目印などなく、どこから来たのか。どちらへ進むべきか見当が付かない。もたもたとする内に、遠く闇に光る眼を見た。それに気付いて視界を巡らせれば、夜に浮かび上がる獣達の輪郭が影となって際立つ。
不味い。ニアは薄く見える夜山の稜線に、幾つかの光点を見た。それは緑に耀く獣の双眼である。その点の群れは、恐るべき速度で斜面を駆け降りて此方へむかってくる。草木の根絶やされたここではそれが良く分かった。
迎え討たねばならない。ニアはインターフェースを開いてアイテム欄からオーンブレイカーを取り出そうと手を伸ばす、スキールで震える手で慎重に項目をスクロールする。その間にも狼の群れは此方へと向かってくる。気が逸る。
何ページも繰り返し、やっとのことで雑然としたアイテム群の中から目当てのオーンブレイカーを見つけると、選択しようと手を伸ばし、そこで指が震えた。狼は目の前だ。ニアはしまったと舌打ちした。誤った指先は、オーンブレイカーではなくその下にある水晶の矢を選択していた。
光のエフェクトがニアの手を包む。一瞬闇を撥ね退けた強烈な光の発生に、狼たちは驚いて立ち止まり、ニアの出方を窺うような逡巡した素振りを見せた。
ニアは手中に現れた水晶の矢を苛立ち交じりに握り込むと、裏手の山岳へと身体を反転させて走り出した。それを見て、静止を保っていた狼達が一斉に向かってくる。剥き出しの岩肌に積もる灰を、叩き付けるように踏み締めて逃げた。山岳は勾配が急で、灰が積もっていることも重なって足が縺れる。
上手く走れないニアの後ろからは、獣の荒々しい呼吸が追ってくる。
「くそ」
だがどれほど走ろうと振りきれない。獣の足は人間と比べて異様に早く、強靭である。追われるほどに、焦燥感が募りゆく。何メートル走っても後ろから迫る呼吸音から逃げ切れない。やがてニアの感覚が麻痺していった。
荒れる肺と停滞していく足の回転は、幻想を齎した。前方に自分の姿が見えてくるのだ。それを私は幾匹の狼と共に追っている。爪で地をとらえ、這いずるように駆ける。腹が餓え、思考が失われていく。寒暖を感じなくなる。
私は今狼なのだ。今の自分からすれば、前方のニアは鈍物も等しい。いくら走っても苦痛を感じない。今ならば、どこまでも走って行けそうな気さえした。しかしそれでいて前方のニアが追い付かれる事は無かった。
その事実に嫌な予感が募る。段々と浮遊感が死に、思考が吹き戻った。夢から醒めるように、ふと自分に立ち返る。前足から足へと感覚が生え変わり、忘れていた苦しみが蘇ってくる。
発汗し、足のつま先の感覚がない。喉は痛み、頭は朦朧とした。今のはスキールの幻覚症状だ。ニアは吐きそうになった。先の幻想に、自分の未来を垣間見た。灰にずぶずぶと沈む足を懸命に回転させてその懸念から逃れようともがく。狼達の追跡は、ニアをある地点へ追い込もうと誘導しているように感じられるのだ。このままでは不味い。
逃げ切ろうと疾走するニアの前に、丘陵が立ちはだかる。硫黄にも似た臭気を発する灰の丘陵の斜面へ、水晶の矢をピッケル代わりに突き刺して、それを頼りに登った。斜登高など経験のないニアと同じく、狼も斜面を上手く登れないようだった。ニアはそれでも恵まれた身体を駆使して丘陵を征服し、月明かりに照らされたその天辺に到達した。
ニアはそこで立ち止まって振り返り、荒い呼吸のままに魔法の詠唱を行った。
「ファナタスの右手」
言葉に呼応するように、鐘の割れるような音が闇夜に轟いた。それは腹を底から揺さぶって、鼓膜を貫いた。狼達が堪らないというように斜面から転がり落ちた。そして虚空に、空転する2メートル程の魔方陣が浮かび上がる。それが幾重にも縦に重なり合って完成した巨大な陣から、突如として毒々しい腕が伸びて大地へと落とされた。
それはまるで天から迸る落雷のようだった。
地へと叩き付けられたそれは、ファナタスの名を冠するデーモンの右腕である。下界へと顕現したその巨人の拳が、ニアを追っていた獣の内の一匹に命中した。その柔い胴は押し潰されて呆気なくひしゃげた。爛れて、獣脂の焼ける臭いがする。灰を血で染めて絶命した骸を見て、残りの狼たちはいきり立って吠えた。呼び合うような遠吠えの連鎖。ニアは犬畜生の喧々たる声に叫び出したくなった。
一度振り下ろされた右腕は魔方陣へと戻りゆく。ファナタスの右腕は一撃の威力に長けるも範囲性に欠ける。ニアは歯噛みした。やはり魔法は弱い。マスターアサシンのスキルを使えたなら、こんな状況易々と切り抜けられるというのに。しかしオーンブレイカーは手元にない。
ニアはもう一度ファナタスの右腕を唱えようとした時だった。一際大きな遠吠えが背後から聞こえた。なんだ。身を竦めてニアは振り返った。
80メートル程、遠方にある灰に埋もれた大岩。そこには、傲慢にも岩へ前足を掛けて立つ巨狼の雄々しき姿があった。月光に照らされながら灰燼の大地を踏み締め、巨狼は白い毛並みを逆立たせる。そして此方を戒めるように、彼は頭をもたげて天に咆哮した。耳が割れるようだった。狼はそれに反応するように次々に声を上げた。
そこでニアは確信する。間違いなく、下の狼共は叫ぶことによってあれを呼び寄せたのだ。ニアは頭を掻き毟り、フードを下ろした。巨狼の輪郭が、青に包まれる。
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