ネルス・ミラー
金貨5枚といえば、かなりの額である。それ故ニアは一瞬返事を躊躇った。
銅貨10枚で銀貨。銀貨100枚で金貨になる事を考えるとこれは明らかに破格だ。何か裏があるのではと邪推してしまうのも致し方ないだろう。擬態を暴くだけしか能のない、特に変哲もないただの翡翠色の鏡にどうしてこれほどの値が付くのか。
この店主の目利きがとんでもない方向に勘違いしているに違いない。ニアの知るAランクアイテムの中に魔法を反射する鏡があったが、それでも市に出して良くて金貨8といったところだ。だというのにこんな鏡に金貨。ニアはゲーム時代の常識が最早通用しない事を悟った。
「良い。それで売ろう」
ニアはなかば諦観してそう言った。高く売れるのならそれで良い、とそう思いなおす事にした。
店主はその言葉を聞いてご機嫌になった。そしてやたらとこの鏡の事を質問しながら奥の机を漁り出した。ペンやら今朝の新聞やらが詰め込まれて、ごちゃごちゃとした引き出しの中を掻きまわし、漸くお目当ての物を見つけたらしくカウンターに戻って来た。
数えろと言って差し出された手のひらサイズの麻袋は、口が可愛らしい紐で結ばれていた。ニアが受け取って中を改めると、確かに金貨5枚ある。女の横顔の刻まれた金貨と一緒にパイプが入っているが、これはおまけなのだろうか。
「ちゃんと5枚ある」
そう述べると店主は仰々しく頷く。誤魔化しはしない主義だとでもいうような態度だが、ニアは先程吹っ掛けられたのを忘れてはいない。いや何にせよ、まことに良い取引だった。
ニアは麻袋を懐に押し込むと、こちらをやたらと凝視してくる店主に怪訝な眼を向けた。何しろ先程から店主の眼がニアの腰に挿したオーンブレイカーに向けられていたからだ。これは売るつもりもないし、見世物でも無い。
「その剣をどこで?」
店主は手を合わせて恐る恐るといった風に尋ねる。多くの物を見てきた彼にとっても、彼女の持つ剣は見た事が無く、それでも業物だという事は分かった。ただの鉄を使用しているというわけでもなさそうで、その証拠に濡れたような光沢を放っており、刀身の鋭い返しは鉄では到底再現できそうにない。これはどういった製法で造られたものなのか。彼には原材料ですらも想像がつかない。
ニアは答えを濁すようにはぐらかした。オーンブレイカーの設定としては黒噛という霊脈にのみ存在する希少な金属を使用し、鍛冶師レヌルスによって打たれた剣であると説明には明記されているものの、余りこの世界では一般的では無さそうだ。なにしろあの鏡があれほど有り難がられるのである。余り下手な事は言わない方が良い。
しかし、もう一つ売ろうと思っていた物がこれで途端に売り辛くなった。
もう一つ売ろうと用意していたのはBランクアイテムの燐光竜の鱗なのであるが、最早幾らの値が付くか予想できない。エン・オーター・オンラインでは割と人気の素材で、市ではよく売買されていたものだ。
水晶やミスリル、メタルなどの、我々にとってはお話にならないような素材とこの燐光竜の鱗は同じ鍛冶素材とはいえ、根本的に価値が違うのだ。水晶やミスリルのインゴッドを用いた防具など紙切れ同然であるが、燐光竜の素材を用いた防具は我々カンストプレイヤーから見てもある程度は実用的なのである。
ゲーム時代、水晶やミスリル系の装備の殆どは、始めたばかりのプレイヤーが装備目的では無く、鍛冶スキルを上げる為だけに造っていたようなもので、ゲーム初期の頃は量産のしすぎで買い手もほぼいなかった。
それに反して燐光竜の素材は、まともな武器防具の作成に使われる事から一時は金策の手段にも上がった事があるほどで、当時は確か銀貨20枚ほどで取引されていた……ような覚えがある。
しかしこちらでは鏡ですら金貨5枚だ。たかが燐光竜の鱗を売って金貨20枚などと言われてしまえば此方が困る。そもそも燐光竜などは此方には存在しないかもしれないし、これは何だ、どこで手に入れたんだと詮索され、痛くもない腹を探られるのも厄介だ。
こういったアイテムを売るのはもう少しこの世界を知ってからにしようとニアは自制した。何か売るのであれば、Cランクアイテムが丁度良いだろう。
金貨5枚もあれば、別段鱗を売却しなくても当分の間やっていける筈だ。毎日の飯と宿泊代。それだけで金貨が飛んでいくことはまずない。宿も安宿を選べば済む話である。
「店主、地図はあるか」
ニアは目的を買い物にシフトし、店内を見回しながら尋ねた。この世界がエン・オーターと同一なのかを確かめるにはやはり地形を見るのが一番だろうと判断しての事だ。我がギルド拠点は極北にある。死地帯と呼ばれる、死に晒した北の大地にぽつんとニアたちの誇りである古城は建っている。
「どこのだ」
店主は裏にあった籠を運んできた。丸められた紙の筒が何本も詰め込まれた籠である。どこのだ、というからには大陸丸ごとを書き込んだ地図は恐らくないのだろう。ニアは出来るだけ北のものが欲しいと答えた。
店主は不思議そうな顔をしながらも一本の紙筒を取り出す。
「北の地図なんて買ってどうする」
ニアはどういう意味かと首を傾げる。
ほら、と店主がカウンターに広げた地図を見て、ニアは呆然とした。
「あそこには何もないぞ」
店主は事も無げに言った。見れば、極北の地図は見事に白で埋め尽くされていた。嘗てのエン・オーターのマップと大陸の形は同じだ。しかし死地帯が余りにも拡大しすぎている。ゲーム時代、死地帯は小国程度の面積しかなかった筈だ。しかし店主が言うには、あの死地帯は年々拡大の一途を辿っているのだという。
数百年前の異形との戦争で出来上った草木の生きられない汚染された大地は、今なお周囲を侵食し続けているのだ。
地図は毎年更新されるが、毎年ただ白い部分が大きくなるばかりで、この地図を今年に入ってから買ったのはお前が初めてだと店主は言った。
「ルドワは、ルドワはどこだ?」
店主はもう一つ地図を持ってきて、極北の地図と繋げた。そして小さな点を指差してこれだと告げた。直線距離にしてそう遠く離れてはいない。死地帯へ行くにはここから馬車でもって5日程かかるそうなのだが、そもそも馬車は出ていないのだという。
死地帯の周囲にあった農村や集落に住んでいた連中はもうとっくに南に下ってしまっている為に、誰もあそこへ馬車を出す人間などはおらず、向かう手段も徒歩以外にないということだ。
依頼を受けて定期的に死地帯の侵食の度合いの調査を行いに向かう者が居るには居るが、彼等は余り付き合うべき人間では無いらしい。故に店主はあそこへ行くのは止めたほうが良いと、ニアを引き留めたが彼女の意思は固かった。
また来ると言って、ニアは二枚の地図を購入して店を出た。行きと反してその足取りは重い。そこにはただ、私の城はどうなったのかという疑問だけが胸にのしかかっていた。あそこにはギルドメンバーとの思い出が詰まっている。それにニアの造ったサポートキャラだって古城に残したままだ。
彼女は生きているだろうか。もしかしたら200年という間、主人の帰りを待ち続けているのかもしれないと考えると、あれを愛するニアは居てもたってもいられなくなった。
12/8