ボーン・デッド
どうもありがとうございました、という彼の言葉を背に受けながらニアは階段を上がった。
この時期、外から来る客は少ないのか宿には客がまばらしかおらず、部屋も空いていた。もしかしたらそもそも個室付きの宿に止まる人間の方が少ないのかもしれない。彼と共に宿屋を何件か回ったが、大部屋に大勢で詰め込まれて皆で雑魚寝するような劣悪な安宿の方が割合を占めていた。
指定された突当りの部屋へと入ると疲れ切った身体を休めるべく剣を放り出して椅子に深く腰掛けた。同時に、忘れかけていた疲労感がどっと押し寄せてくる。
腹も膨れ眠気を感じるが、まだ外は明るい。今の内にやれることをやっておくべきであろうか。買い出しもしたいしここでの金を作りたい。
しかし外へ出て暴漢に絡まれたりはしないだろうか。エン・オーターにはそういったクエストがよく転がっていた覚えがある。自衛の手段くらいは確立しておいた方が良いかもしれない。ニアはぼんやりと今の自分には何が出来るのか、を考えた。
ふむふむと船を漕ぎかけて、ニアはぼうっと座ったままうつらうつらした。そして、ふとスキル発動の構えを取った。
エン・オーター・オンラインでの仕様についてであるが、クラスによる恩恵は二つしかない。それはスキルと魔法である。クラスのレベルを上げる事によって習得できるスキルや魔法であるが、魔法のみ他のクラスに転職しても継続して使用する事が出来る。スキルは他クラスには引き継がれず、そのクラスでしか使えない固有のものだ。当然、エン・オーター・オンラインにおいては魔法よりもスキルのほうが圧倒的に優遇されている。
そしてこのゲーム、膨大なクラス量を誇る割には2つしかクラスを選択できないために、使用できるスキルも転職しない限りは2つのクラスの物のみと限定される。あくまでも魔法はまあまあ使えるといった程度で強くはないのだ。
ということは、ゲーム時には本来2つしか設定できなかったラスの欄にあった、過去習得した幾つかのクラスのスキルはどうなっているのか。クラス欄に記載されているという事は使用できるのか、記載されているだけで別に使用できないのかではニアの戦闘能力が大幅に変動してくる。スキルの有無はそれほどまでに大きな要因となるのだ。
マスターアサシンとハイデーモン以外のスペルキャスター、オーディン・ナイト、スクィーラー、ボーン・ロードのクラススキルの数々は、果たして有効なのか。もしもそれらが有効なのだとしたら、もしかすると記載されていない下級クラスのスキルも使えるのではないか。
そう期待するニアの取ったスキルの構えは期間限定クラス、ボーン・ロードの固有スキルの内の一つ。ボーン召喚である。不死の兵を深淵ドーン・ヨリュードより呼び寄せる、といったような設定だった筈のこのスキルは、期間限定だったとはいえ結構な人気を博し、話題になった覚えがある。
「ボーン召喚」
確かこんなだった筈のスキル発動キーを呟くと、ニアの言葉に応じるように、何ら問題なくスキルは発動した。ボーン・ロードのスキルによって、前方の床に円形の魔方陣が生じ、ニアの胸が歓喜に震えた。魔方陣からは腐臭を放つ瘴気が立ち上り、やがてそれはボーンを形作った。紛れもない成功である。
瘴気で出来た不死の骨。紫の斑のある骨格は瘴気に縁取られ、身長としてはニアよりもはるかに大きい。身体は大柄な成人男性程の大きさをもち、その身にはぼろぼろの防具が張り付くように装備されていた。白骨に空いた眼窩に光はなく、膨れるように張り出した頭部や発達した腕部を見ても分かるように、その骨格はおおよそ人の物では無い。
懐かしいボーンの姿が目の前にあった。ボーンは下級も下級の骨格の兵隊である。しかしニアは感動し、声を上げた。眠気も吹き飛ぶというものだ。
ボーンは無限に召喚できる使い捨ての雑兵で間違いはない。フードを被ってみても文句なしの青、格下である。しかしこの屈強な体躯を見てニアは安心せざるを得なかった。
ここは現実で、死は死として機能する。誰も自ら進んで戦いたいとは思わぬだろう。代わりに剣となり盾となり戦ってくれる者が無限にいるというのならば、ニアとてこれほどうれしいことは無い。これでニアの剛臆を問うのはお門違いというものであろう。この身を死から遠ざけるのは当然の努力といえる。
そこでニアはボーンを見て一抹の不安を感じた。ボーンの装備は余りにも粗末な物だ。錆びた直剣にレザーアーマー、ヘルム。申し訳程度の鉄の盾。この世界のモンスターが如何ほどの物なのかは知らぬが、この装備ではニアのゲーム時代の適正モンスターを狩るのは明らかに不可能だ。ボーンの戦闘能力はといえばレベルにして10前後なのである。ニアのスキル補正込み込みで計算したとしても15いくかいかないかでしかない。
ふむ、とニアは考えに没頭した。ボーン・ロードのスキルは何もボーン召喚だけでない。レブナント召喚、イーター召喚、リッチ召喚等というように数種類あるのだが、しかしここでそれらの召喚を行うのは憚られる。
下級のボーンと違って、位列的には中級に分類されるレブナントやイーターは場に居るだけで周囲に恐怖効果を与えてしまう。更に言うと上級のリッチは召喚するだけで、ボーンの召喚時エフェクトとは格の違う本物の瘴気が周囲に撒き散らされる為に、あまりよろしくない。
しかもその有害な瘴気には結構なダメージ判定があるので、ここで召喚するのは些か不味いといえるだろう。宿が一瞬にして腐り落ちたとしても責任はとれない。
ニアはボーンの強化は一先ず置いておいて、スキルが無事使用可能な事に喜んだ。スキルさえ使えるのならば対人経験の豊富なニアであるから、そこらの人間に負ける事はまずないといえるし、最悪リッチでも何でも召喚して逃げればいいだけの話だ。
このボーンを送還するのは何だか可哀想なので、そのまま置いておく事にした。ゲームでは敵を見るや否や見境なく突っ込んで剣を振り回すボーンだが、この世界の彼は物も言わないし、命令しなければ動かないようだ。
刺青塗れの少女はふうと一息つくと立ち上がった。
自衛手段はこれでよいし、もう休息は十分だ。ニアは部屋を出ようとして、ふと立ち止まった。そういえば今の自分の恰好は褒められたものでは無いだろう。表へ出るなら尚更だ。先程もそうだがやはり奇異の眼で見られてしまった。
我が身に塗りたくられた返り血は乾いて赤黒く変色し、ただでさえ気味の悪い異類の帷子が余計おどろおどろしいものへと変貌しているに違いない。ニアはアイテムからネルスの鏡を取り出してみる。鏡面を覗き込めば、血に塗れた美しい白い女の姿が目に入った。現実のニアは残念ながらこのように綺麗では無い。
数多あるパーツから選りすぐって完璧にキャラメイクされた結果である。しかし今の血塗れのままではいけないと判断し、部屋にあったタオルらしき布で身体を一頻り拭った。
今度は布が真っ赤になってしまったが致し方ない。後で洗う事として、ニアは一階へと下った。
一階には先程よりも人が増えたようで、微かな賑わいを見せた。だんびらを腰に提げて食事をしている酔漢や、ぎらぎらした目の異人種が隣の客へ絡みながら酒を飲んでいたりと喧しい。何だか物騒に見えがちだが、この世界では常の事なのだろう。皆が皆寒さに、中央の囲炉裏を囲むようにして座っている。今の季節は冬だろうか、それとも年中こうなのか。
宿屋の主人に聞けば、あの馬車夫の彼はついさっきあの穀物、麦らしいのだが、それを売りに行くと言って宿を出ていったらしい。そうかと頷いて、それを追うようにしてニアも町へと繰り出した。
扉を押し開け表へ出れば、木枯らしに身を吹かれた。雪の降るような空では無いものの、灰色の世界の気温は低い。ニアはゲームにはなかった寒暖の感覚に戸惑いを覚えざるを得なかった。
一先ずここらで使える金を作ろうと、ニアは雑貨店らしき建物へと寒さから逃げるように転がり込んだ。店に入ると鈴の音が鳴る。いらっしゃいの声もなくここの店主はぶっすりとだんまりを決め込んでいた。
壁には棚が置かれ、商品が所狭しと並べられている。いや、まるで積み上げたように雑然としているのを見るにきちんと並べたわけでは無さそうだ。ニアは買う金も無いので物色するのも早々に切り上げてカウンターへ向かった。
客の前だというのに頬杖をつく中年の店主はやってきたニアを見上げ、どのような用だと尋ねた。店主の座るカウンターの奥では暖炉で火が弾け、何やら天井には薬草らしき干された草花が吊るされている。
「これを買い取ってもらえないか?」
ニアはそう言って先程の鏡を取り出しカウンターに置いた。Bランクアイテムのネルスの鏡である。効果としては使用すると敵の擬態を暴くという効果があるのだが、正直なところフードのあるニアには必要のない物だ。あのフードは例え敵が樹木に擬態していようが例外なく輪郭を色付ける。
「どれどれ」
鬱陶しそうに鏡を持ちあげた店主であったが、ネルスの鏡を見て、突然に目を瞬かせた。彼が鑑定眼に優れているようにはとても見えないが、何やら思うところがあったようで、べたべたした手で何やら鏡を触って確かめだした。裏面を擦ったり、光に透かそうとしたりと忙しい。ぼうっと見ていると、今度は目を輝かせた。
「買い取ろう」
店主は一転してにこやかに言った。先程までの憮然とした態度は吹き飛んで何とも愛想のよい顔つきで顎を突き出した。いったいどんな心境の変化があったのかはニアの知るところではないが、そうかそうかと頷いておいた。
このような殆ど使い道の無いただの鏡同然のBランクアイテムでも欲しがるものはいるらしい。擬態する敵など稀であるし、対人においても擬態は使いどころが限られている為に使用される事はあまりない。
とすると、この店主はただの鏡としてこれを買い取ろうとしたのかもしれない。装飾などは華美ではないが、裏面に綺麗な模様の花が彫られて女性に受けるやもしれない。果たして、銀貨くらいにはなるだろうか。
「いくらだ?」
「レドウ金貨2枚だ」
ん、とニアは予想外の価格に首を傾げた。
「いやいや冗談だよ。レドウ金貨5枚」
何を勘違いしたのか店主は値を釣り上げた。
なんと、これは金貨5枚の価値があるのかとニアは驚いた。最初の額はかなり吹っ掛けられていたらしいが、もともと余り期待していなかったためにそこまでの不快感は感じなかった。
「金貨5枚、どうかね?」
店主は馬のような長面を柔らかくゆがめて、笑みを作った。
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