ハコ・バシャ
ニアは数時間にわたって歩き続け、漸く発見した街道を辿るようにして歩きながら疲労を感じていた。ゲームの中では疲れなど知らなかったこの身体は、今汗を流し、鉛を積んだような気怠さもある。長時間にわたって歩き続けたせいか足裏に僅かな痛みを感じ、膝は曲げる度に軋むようだ。
一度休息を取りたいが、先程獣の類を見かけたために休むのも躊躇われた。カンストした強靭な身体をもってしても人間には変わりないのだろう。総レベル1600が聞いて呆れる。
轍の跡がある街道をぼんやりと歩き進めながら、ニアは所持品を閲覧していた。アイテム欄にあるアイテムのほとんどがAからSランク級のもので、効果としては莫大なものだ。それに、どういう原理なのかアイテム欄にて選択したアイテムは光のエフェクトと共に手元に現れる。僅かにゲームの特性を残しているこの身体は便利極まりないが他人から見てどう映るのだろうか。虚空から物を出現させる人間を見て、疑問に思わない者がいるだろうか。
ニアは人前では多用しないようにしようと決め、所持品を物色した。アイテムはどうしてかホームの倉庫に入れていたものまでが一緒くたにされて詰め込まれており、実用的、非実用的に関わらず溢れかえるそれらは煩雑を極めた。
しかしギルド拠点である古城にある共有倉庫内に入れてあったアイテムに関しては1つも入っておらず、ニアは首を傾げた。
ギルドメンバーが取って行ったのか、そもそもニアの所有物扱いになっていないのか定かではないが、そこのところも含めてやはり古城を確認しに行く必要がある。あそこにはニアの作成したサポートキャラもいることであるし、現時点において現状の確認よりも優先するべき事柄など何一つとしてないのだから。
ニアは蹄の音を察知して顔を上げた。ごろごろという音と共に、馬の嘶きが追って聞こえてくる。馬車か。ニアは後ろを振り返った。すると遠方に馬車の影が見える。影はどんどんと大きくなっていき、やがて姿をはっきりと視認することが出来た。ここはあまり遮蔽物が無く見通しもきく。向こうもこちらに気付いたようで速度を落とした。
あの距離から音が聞こえたのもそうだが、どうやらこの身体は常人のものよりもはるかに高性能に出来ているらしい。
あの馬車を捕まえるべく、ニアはタクシーよろしく手を上げて脇にそれた。
これで止まってくれなければ次を待てばいい。街道の整備の具合や轍の跡から察するに、ここは人通りが少ないわけでは無さそうだ。それに、情報を得る手段はなにも人が必要なわけでは無い。無知を晒さないで済む書物という手もある。
やがてここまで辿り着いた馬車はニアのやや手前で静止した。栗毛の馬に引かせた四輪の荷馬車は酷く粗末で、一言で言えば天井の無い箱だ。軽トラックを思わせるそれは幌もなく、天蓋もないために、荷が剥き出しになっていた、穀物を豊富に積んだ馬車を操る馬車夫は、これまたえらく簡易的に造られた御者台から此方を見降ろした。
「少し乗せていって貰えないか」
ニアの言葉に彼は困った顔をした。
「乗せるのはやぶさかではありませんが、その……」
ニアは知らず知らずの内に、いつもゲーム時にNPCに話しかけるような口調で言葉を返した。しかしこれは悪い癖だ。
「どうした?」
「いえ、何でも」
歯切れの悪い言葉だ。ニアは馬車夫の視線を辿って自分の身体を見降ろすとああと納得の声を上げた。自分は今血塗れだった。そしてそれは明らかに返り血だ。今そこで人を斬ってきましたと言わんばかりの恰好では彼の困惑も大いに理解出来よう。そして極め付きに片手には血の付いたオーンブレイカーをぶらさげている。
なんということだ。これでは半ば脅しているようなものだ。農夫然とした彼には少々酷な事をしたかもしれない。エンオーターオンラインにおいても、NPCの農夫や村民には戦闘能力はなかったはずである。
「荷台に乗せてくれればそれでいい」
万が一血の付いてしまったものは買い取る、と言ってニアは荷台に積まれている穀物を指差した。彼はふんふんと頷き、ニアが護衛も兼ねようと言うと、おお、と彼は顔を綻ばせてそうですかそうですかと喜んだ。
「すまないな」
ニアは荷台の木枠に足をかけて上がり込むと、座り込んだ。剣を立てかけ、片足を伸ばす。狭い空間でしかも脇の穀物が身体をちくちくと刺すが、荷台からの眺めは中々に良いものだった。馬車はほどなくして動きだし、穏やかな景色が視界を流れ出した。
寒空と、小気味の良い蹄の音と、少々手荒い馬車の揺れの中で、ニアは田舎にある実家を思い出す羽目になった。こんな体験をしているのは果たして自分だけなのだろうか。他にもこのゲームとは剥離した世界へと迷い込んだ人間はいないのだろうか。
しかし考えても答えはない。仕方なく少々ニアに対して怯えを見せる馬車夫に語り掛けて暇をつぶした。情報収集も兼ねて話す内に、彼もニアに対しての警戒を僅かに解いたようであった。
彼はニアのことを女らしくない無愛想な口調やその装備から、流れの傭兵とでも判断したのか、何を聞いてもへいへいと恭しく頷くばかりだった。それでも判明したことは幾つかあり、まず貨幣についてであるが、この世界では国ごとにおおまかに分かれているらしい。ニアの持つ17億相当のゲーム内の共通貨幣であるソリウド硬貨は、最早共通では無くなっており、ドフネイフの国の貨幣となっているらしい。
しかしどの町にも両替を生業にしている者……両替商や両替人が少なからず居る為に、どんな硬貨を持っていようが心配はいらないようだ。早速彼の商品である穀物をわずかではあるが血に染めてしまったため、支払いを申し出ると、彼は支払いはソリウド硬貨で良いと言ってくれた。
そうかそうかと礼を言っていると町が見えて来た。それほど大きくはない町のようで、ゲーム内では珍しくなかった外壁もなく門もない。周囲には田畑が広がっており、小川と隣接するように建てられた風車小屋が遠目に見えた。
「あれか」
「ええ。ルドワでございます」
ルドワという名の田舎臭い町は、何もないことで知られる何とも味気ない地であるらしい。ここでの情報収集は無理そうであるから、ここを経由してもっと大きな街へといった方が良さそうであった。
ルドワに着くと、彼は御者台から降りて町の入口にぼうっと突っ立っていた衛兵らしき人物と何やら話し、戻って来た。どうやら荷を改めるらしい。危険物を持ち込むことは犯罪であるらしい。衛兵は荷台まで来ると、血塗れのニアに委縮しながらも挨拶し、馬車夫の彼が護衛だと紹介してくれた。
彼と衛兵は顔見知りらしく、荷のチェックはかなり優しいものであった。彼は二年に渡ってこのルドワに商品を卸しているらしく信頼関係が構築されているようだった。
荷の改めが終わり、無事町へ入れたニアは彼と同じ宿へ部屋を取ると、一階の食堂兼広間で彼と共に食事をとった。出されたジビエ料理へ手をつけつつ、ソリウド硬貨を彼に支払うべく、血に染まってしまった穀物の値はいくらだと聞く。 彼はソリウド銅貨にして3枚だと答えた。日本円にして、3円である。なんということだろう。ゲームとは金の価値が変わってしまったのだろうか。
ニアは懐から銅貨を3枚出すと男に手渡す。彼は有り難そうに金を受けとるとそそくさと金をしまい込んだ。3円貰って喜ぶ男の図である。
ニアはなんとも可哀想になって汚した分の穀物を彼に譲る事とした。あれはもう売れないだろうから食べるといい、と言うと彼は手を擦り合わせてへらへらと喜んだ。なんて卑屈な男だろうか。
しかし後々になって考えると、誰の者とも知れぬ血で汚れたものを食えだなんてどうかしているかもしれない。
しかし言ったことを取り下げる気も起きずニアはそのまま食事を終えた。話してみると、どうやら彼は明日朝いちばんで村へ帰るらしく、短い間だったがとニアは礼を言って別れを告げた。
12/1