ズノンルルフ
長い階段を抜けて、廃坑から出たところで、ニアは居る筈の者がいない事態に気付いた。脇に寝かせておいた筈の騎士が消え、後には大破した血塗れの鎧が脱ぎ捨てられていた。逃げられたとニアは歯噛みした。彼女はこの不可解な現状の解を得られるかもしれない貴重な情報源であったというのに。意識がないからといって放置すべきでは無かった。縛り付けてでも拘束しておくべきだったのだ。こんなことになるなら、手足を斬りおとしてでも。
「くそ、駄目だ」
そこまで考えてニアは頭を振った。こんなことを考えるなんてどうかしている。きっと自分は未知の場所に叩き落とされて動揺しているのだ。恐らくは。
ニアは脱ぎ捨てられた鎧を腹いせに蹴り飛ばして平原へと足を向けた。ここにいても事態は何も進展しないし、好転する事もない。人が居る場所へ向かいたいがマップが使えない以上、現在地も分からなければどうする事も出来ない。
マップも使えなければファストトラベルも出来ず、このだだっ広い平原の中心でニアは途方に暮れた。見知らぬ世界に放り出されたのだから無理もない。
徐にインターフェースを開き、クロックを見たとき、アナログ時計の止まった針の下の文字が目に入った。それはデジタル時計で、明らかにアナログとは示している時間が食い違っている。12時を示すクロックに対してデジタルの方は1時を表示しており、その横に日付と暦が示されていた。
珀歴1425年。珀歴、それはエン・オーター・オンラインの舞台となる世界の歴と同じだった。エン・オーター・オンラインは、7いる異形の王の中の1柱が人の住まう世界であるディーンガルドへ侵攻してきたために、プレイヤーが残りの王たちの眷属となってディーンガルドを守る、というストーリーである。だがゲームの舞台となったのは珀歴1225年の筈だった。
もしここがエン・オーター・オンラインと同じ世界であったのならば、単純に考えてもあれから200年後ということになる。
もしも本当に200年の歳月が経っており、そこへ自分が放り出されたのだとしたら。私の古城はどうなっているのか。私のギルドは、皆は。
200年だ。とっくにサービスなど終了している。プレイヤー達はどうなっているのか。取り残されてしまったような孤独感にニアは眩暈がした。一刻も早く私の城を見つけ出さねば。ニアはオーンブレイカーを引き摺って歩き始めた。
ニアが廃坑の底から階段を上がってくる音で、彼女は意識を取り戻した。テンヌ騎士団の副隊長であるエリスは、今日ほど日々の訓練に感謝したことは無い。 咄嗟の行動で砕けてばらばらになった鎧を捨てて、身軽になった彼女は廃坑の瓦礫の影に隠れた。息を潜め、それから暫くして廃坑から地上へと姿を現したニアを見て、エリスは恐怖からその場を動けなかった。
返り血を一身に浴びて、まるで亡霊か悪鬼のような出で立ちになった彼女は、すぐに騎士の消失に気付いたようで辺りを見回した。そして逃げたと知ると、苛立ちを抑えられないといったかのように悪態を吐いた。
エリスは心臓が凍り付いた。袖の内に隠しておいた仕込み刃を出そうとしていた手を即座に下ろした。反抗するべきではないと本能が判断を下した。かといって今出ていけばどうなるか分からない。手足をもがれて深淵へと引き摺られていく自分が容易に幻視できた。
アサシンはここら一帯を捜索するようなことはせずに、崩れた鎧を蹴るとその場を立ち去った。
がりがりという重たい金属を引き摺るような音が遠ざかり、やがて聞こえなくなって初めてエリスは忘れていた呼吸を再開した。背は汗でびっしょりと濡れて寒さを覚えた。物陰から虫のように這い出たエリスはよろよろと大破した鎧の元まで這いよると、その場に座り込んだ。レイニーフ神父に祝福をかけてもらった白銀のミスリルは砕け散って鎧としての機能を果たせそうもない。
だが、あれほどの強化魔法を重ね掛けした上での蹴りをこれだけの被害で済ませたのだから、ミスリル(聖銀)の名は伊達では無いのだろう。アサシンが一瞬にして発動させた膨大な強化魔法は、それほど恐るべきものだった。
10程同時に発動させた彼女の魔法の内、エリスが理解できたのはたった2つだけだった。身体機能を飛躍的に上昇させる魔法と膂力を上昇させる魔法だ。そこから先は術が難解かつ高度な魔法故にどんな効果を齎すのかさえ把握できなかった。
あれの脅威を伝える為にも、急いで本国に帰った方が良い。急がねばあれは我らがテンヌ騎士団に対する剣となるかもしれない。
辺りを見回しても他に人は無い。彼女は五体満足に逃げ遂せたろうか。エリスはここまで共に来たノルンの顔を思い出した。エリスに何かあった場合にはノルンが撤退し、本国に報告する手はずとなっていたが、あのアサシンを前にして生きて帰れるとは思えない。
そこまで考えてエリスは何故自分が生きているのかと気付く。剣で切り捨てられ、そしてあの朦朧とした意識の内に起こった出来事を思い出した。彼女に何か薬品のようなものを飲まされ、自分は一瞬とはいえ意識を失ったのだ。エリスは自らの腹部に視線を下ろした。あれほどの攻撃を受けたというのに、傷どころか傷跡すら見当たらない。そしてそれ以前よりあったはずの古傷すらをも綺麗に消し去っていた。
「安心して、これはソーマだ」
彼女の言葉が唐突に思い出される。ソーマ。伝説の秘薬である。エリスは呆然と熱をもった自らの唇に触れた。
ノルンは愛馬で本国へと駆けた。後ろからあの女が追ってくる恐怖に暫くの間は苛まれたが、いくら走ろうとも彼女は来なかった。それでもまだあの光景を目撃してしまった自分の手は震え、唾液は枯れ、舌は乾ききっている。
もしかしたらあのアサシンはノルンを見逃したのかもしれないし、音もなく後をつけているのかもしれない。だが振り向いても人影はなく、だだっ広い平原が横たわっているだけだ。
本国で我らの帰りを待つ彼等は想像すら出来ぬだろう。あのエリスがやぶれたなどとは。幾つかの渾名が送られ、数々の功績を残してきた彼女がまさか一蹴されて地に伏すなどと誰が予想できようか。今回の仕事を任された時、いつもの賊狩りか、と楽観視していた自分を叱りたい。
ここから本国まで寝ずに馬を走らせたとしても一日か二日はかかるだろう。
それまで自分が正気を保てるかどうか定かではない。
だがあの竜の一撃すらをも堪え凌ぐといわれるミスリルの鎧をただの蹴りで砕いたアサシンの存在は、自分の命と引き換えにしてでも本国に伝えねばならないだろう。あれがどうして今まで世間に露見しなかったのか不思議で仕方がない。
終始放っていた身の毛のよだつような気配や、異質な防具、黒くくゆる剣。あれは人の血を飲む悪鬼である。神が造りし人の子などでは決してない。
聖国の剣テンヌの副隊長が死したなどと知られれば、テンヌの存続すらをも危ぶまれる事態だ。聖国の抱える3つの騎士団の内の一つテンヌ。それが圧倒的な武を誇ったエリスの死によって、傾きかねない。テンヌは死んだと本国の彼等に言われてしまえば、最悪テンヌ騎士団そのものが瓦解しかねない。
だがエリス亡き後、あの女を討てさえすればその信用は回復できるはずだ。何も騎士団は彼女だけで回っているわけでは無いのだから。我らが聖国は血に埋もれながらも、ただ一つの宗教を生き永らえさせてきた。
レネメン教は不敗。900年以上続くレネメンの流血の歴史の前に奴は膝を屈する事になるだろう。エイメン。ノルンは胸の前で十字を切った。




