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ジルテレイ  作者: 小町
2.オルスタシアの王
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万人の王

 女は逃げ惑い、その頭蓋をニアが鷲掴みにする。音を立てて軋む自分の頭部に怯える女は産まれて初めて涙を流し死を感じた。そして急激に床が迫ってくるのを見て女は助けてと叫んだ。女は床に叩き付けられ、顔のあらゆる骨が砕け散り、顎が壊れた。首ががくがくと前後に揺れ、女は自立さえ困難になり横に倒れ込んだ。

 果てしない苦痛の中で女は死を願った。あのイワン・フェンティスでさえこの幽鬼には屈するだろうことは想像に難くない。死の間際に立って、人の身で抗ってはならない存在を前にし女はシャハートや暗殺団の行く末を案じた。自分の失敗を知り聖国はどうするのだろうか。三いるシャハートの剣である内の一人である女でさえこの有様であり、もうどうにもならないことを女は悟った。

 涙が眼から血を洗い流した。耳鳴りがする。もう目は見えなかった。


 女は最後に祈ろうとして、胸の前で手を合わせた。「エイメ……」脳漿が飛び散った。女の頭部は飛来した異形の拳によって無残に潰れていた。カーペットに血が沁み渡っていく。


 その死体になおも食らい付こうとするニアの姿を見て、レイシャはニアがニアでなくなっていない事を悟った。終わりのない悪逆に胸が打ち震えるのを感じる。これだ。そうレイシャは思った。これこそがニア・ジルテレイなのだ。




 イワン・フェンティスはヴェミリアとの視界の繋がりが断絶された事で彼女の死亡を確認するとその目を開けた。そこは教皇庁の一角にある書斎だった。溜息を吐くとイワン・フェンティスはすっかり冷え切ったコーヒーに口をつけた。


 ヴェミリアの死は彼にとって予想を越える出来事ではなかった。だがヴェミリアとは彼女が子供時分の時からの関係だった故にイワン・フェンティスとて悲しみを感じないわけではなかった。ただそれ以上にかの異形に対する驚愕が勝っていたのだ。あれは我々の理解を越えていた。

「不味い。あれは格が違う」

 呟いた言葉は誰の耳にも入ることなく溶けて消えた。それ程までにヴェミリアとあれの能力には大きな径庭があった。更に言えばあれは手負いだったのだ。十分な力を出せていたとは思えないにも関わらずヴェミリアはいいように殺されてしまった。全盛期のあれは如何ほどだったのか。そう考えるだけでイワン・フェンティスは言いようのない寒気に襲われた。


 手負いの今殺さねば、我々の未来は有り得ないだろう。あれが過去の力を取り戻し、完全なる復活を果たしてしまえば何れ明確な障害となって我々に立ち塞がることは明白だった。あれがのうのうと生きている間はシャハートがこの世を領することなど不可能に違いない。

 しかしこれ以上あそこへ何を送り込んでも結果は同じだろう。今のシャハートにヴェミリア以上の人材がごろごろ転がっている訳もなく、そもそもあの古城へと人員を送り込むだけでもかなりの苦労を要するというのに、結果が伴わないのであればただ徒に身を削るだけだ。別の策を考える為再びイワン・フェンティスは目を閉じた。



「もうすぐだからね」

 古城地下の緊急用の脱出路に錆び付いた金属音が反響した。それは車椅子の車輪が擦れ合う音だった。異形化が解け、ぐったりとして動かないニアを乗せたレイシャは足を急がせていた。この地下通路はそのまま墓地へと通じている筈だった。そこへ行けばこの状況もなんとかなるとレイシャは自分に信じ込ませていた。またあのような者がいつ再来してもおかしくはない古城に長居することはとてもではないが出来なかった。そこでレイシャはこの古城を捨てて落ち延びる事を選んだのだ。


 それにレイシャはあのような暗殺者に関して身に覚えがなく、現に二百年の空白の間あのような手合いがこの古城に来たことは無い。ということはニア絡みであることは間違いがなかった。ニアが二百年もの間姿をくらませたのは、あのシャハートの剣なる者が原因であるに違いないとレイシャは思った。

 つまり従者である自分や同胞に危害が及ばぬよう、身を遠ざけて二百年もの歳月を独りで抗い続けていたのだろう。レイシャはそう考えて己が顔を覆いたくなる。そんなことにも気付けずに浮かれていた自分を嫌悪した。どれだけ自分を痛罵してもしきれなかった。


 もうニアを回復する手立ては無いに等しい。ウマラナの短剣を女に踏み折られた事は最後の望みを絶たれたも同義だった。レイシャはニアを助け出したばかりのあの日の自分の行いを猛省した。これを使ってと言いニアが差し出したソーマの小瓶を、あの日のレイシャは使わなかった。いや使った。だが中身を何の効力もない水と差し替えてニアに飲ませたのだ。自分の存在意義を奪われたくないが為に愚かしさを発揮した過去の自分をレイシャは責めた。

 その後ニアの外傷が完治し、謎の後遺症が残ってしまった後、改めてレイシャはソーマを使用した。今度は本物だった。だがニアは治らなかった。ニアに残されたのは動かない両足と醜いケロイド痕だけだ。そしてそのすべては自分の責任だった。


 だが後悔ももう終わりだ。こうなってしまった以上、自分はもう後戻りは出来ないのだ。ニアを回復する残された方法はたった一つであり、それはとてもおぞましいものだ。

 それは動かなくなったニアの膝から下を切り落とし、別の誰かの足をレイシャの秘儀によって繋げるというものであり、それを実行するにはまともな足が二本必要だった。この方法を実行してしまえばレイシャはこれからもニアに後ろめたい心情を隠して接していかなければならない。だがそれでもレイシャは彼女と共に居たかった。脱出路の出口が見えてくる。レイシャは覚悟を決めた。

 あの偉大なるノウァ・ディアメトンを足を切り落とし、ニアの糧へとするのだ。


 一党は忘れ去られ最早過去のものと成り果ててしまったが、その偉業が消えたわけではない。ニア・ジルテレイの姿を見ればきっと、殺せる者を全て殺しあらゆるものを血に染め上げたあの時代を人間達は思い出すだろう。レイシャ自らがニアを世界へと押し上げるのだ。彼女はこのような極北に骨を埋めるような人間ではない。世に再び一党の名は轟き、ニアは万人の王となるだろう。ノウァ・ディアメトンを廃し、ニアこそが8柱目の異形の王となるのだ。

 たとえ望まれずとも、それがレイシャにとっての罪滅ぼしだった。







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