幻想のハウカー
湯船で水が跳ねた。湯が張られた木製の浴槽には、凍死体のように青白い少女が漬かっていた。自閉した彼女の裸体には夥しい傷跡が刻まれ、まるで拷訊でも受けた後のようだった。
男でも目を背けるような大きな瘢痕の広がる彼女の左脚を湯船から引き揚げて、レイシャは汚れなどないそれを丁寧に洗った。脚は傷自体完治していたが、何らかの内部的要因によってまだ障害が残っていた。
レイシャはこの時間だけニアの肌へと触れる正当性を主張できたが、恐らくはあの夜をもってこの従者の言葉から証言力は失われてしまっていた。いやそれどころか、あの行為はレイシャによって未だ毎夜行われている始末なのだ。
主人であるニア・ジルテレイはそれに対して無反応という姿勢を貫くことによって、歪んだ従者との猥褻な夜にどうやら折り合いをつけたようだった。あるいはレイシャの只ならぬ献身を感じての寛容なのかもしれないが、ドールのようなニアの内心をレイシャは知ることが出来なかった。
清潔の保たれた主人の脚を湯船に沈ませ、レイシャは濡れたシルバーの髪に手を通して梳いた。こうして体を洗い終えれば質素な食事が待っていて、穏やかな食事が終われば淀んだ就寝の時間になる。
そうやって過ごす内に、気付けばこの城に主人が帰還してから早二か月が経とうとしており、ニア・ジルテレイの容態は日を追うごとに改善されている。
潰れた片方の眼球や削ぎ落とされた耳殻はもう元には戻らないが、例えば聴力や手足の感覚は戻りつつあったし、流動食以外のまともな食事もレイシャが噛み砕いてやれば喉を通るようになった。
依然として手足は不自由であるが、後少しの時間をかけさえすれば、立って歩くことも夢ではないだろう。彼女の自然治癒能力は莫大だった。だがそうなる前に、レイシャは自身の手で完璧な治療を施すつもりだった。
あくまでも、ニア自らの力で完治したのではなく、この小さき従者の施術あっての完治であると彼女に思わせたかったのだ。
時にはこの古城こそが真実の家であると示そうとして、最近の彼女を車椅子に乗せ、この変わり果てた城内を案内したりした。そういった積み重ねによりニアは次第に笑みを取り戻していった。
レイシャはそれを喜ばしく思ったが、あの譫言の中にだけ存在する家への未練をニアがまだ絶ち切れていない現実が、この生活への虚しさをレイシャに植え付けていた。自分だけが満足の出来る環境にニアを閉じ込めることに対し、以前より感じ続けていた罪責感が頂点に達したとも言える。
二百年前だって、ニアがこの古城でただじっとしていた事など無かった。常に彼女は戦争と闘争の中にあって、その姿にレイシャは敬愛を感じたのではなかったか。こうやって戒めるが如く彼女を束縛し、悦楽に浸ることの愚かさをレイシャは自覚しつつあった。
彼女はここまでの障害を背負って自分との再会を望んだというのに、自分は何をしていたのだろうか。
ニアを抱き寄せ、湯船から引き揚げると彼女は両手足をぐったりと垂らしてレイシャに身を預ける他なかった。哀れ過去の偉大なる支配者はここまで落ちぶれたのだ。そしてその原因は自分以外に有り得なかった。
「ありがとう、レイシャ」
自分の世話すら出来ない惨めさを多分に含んだ主人の言葉に、レイシャは胸が痛くなった。酷い酔いや夢といったものから醒めた気分だった。きっと今自分は酷い顔をしていることだろう。愚かさの代償は何よりも高い。
彼女の体を拭いて服を着せ、車椅子に乗せて自室まで移動した。彼女が匙加減一つで容易く壊れてしまうかのようにベッドに優しく横たえてから、カンテラを吹き消してレイシャは部屋を後にした。
彼女が向かおうとしていたのは、同胞たちが残していった余りある遺物が眠っている宝物庫だった。嘗てこの古城を去った彼らは手にした殆どの物をここに置いていったが、それらは今まで手付かずのままであった。
地下へと続く階段を、蝋燭を手に降りる。古城の地下には宝物庫の他に緊急時用の脱出路とそれから地下牢しかなく、地下牢には嘗てニア・ジルテレイが捕獲してきてそのままになっている獰猛な不死の獣が入れられていた。
それらの傍を通り過ぎ、埋葬されるように横たわっている老朽化している宝物庫の重い扉の前に立った。決して認めたくはないものだが、彼ら同胞は偉大だったのだ。レイシャは宝物庫の中に息を殺して入った。
古臭いマットのような匂いのする中は、夥しい量のアイテムが無造作に放り込まれていた。同胞の中に整頓ができるような人間はいなかったと思い出してレイシャは口元を緩ませた。




