思わぬ邂逅
領主の怒りを恐れたエク・グレアは早々に彼の館から逃げ出した。彼は出し抜かれることや秘密を造られることを何より嫌う人間だった。別に騙したかった訳ではなかった。彼女を探す方法を他に知らなかっただけのことだ。
6年を捧げて作り上げた、彼とエク・グレアとの間にあった信頼関係の程を鑑みるに案山子の領主はそれほど怒っていないに違いないが、それでも次会うまでに数日は空けた方がよろしいだろうし、何か彼の好きな酒でも持参するのが礼儀だろう。その時には気の利いた言葉があればもっと良いかもしれない。
ルートハイデン郡は、酒と馬で大きくなった地だ。彼好みの酒など探せばいくらでもあるだろうと彼女は近場の酒場へと向かった。その道中で否応なしに見える町の光景は、お世辞にも良いものとは言えなかった。それは別にルソルヴィンのやり方が悪いわけじゃない。ただ、今は戦時中だった。
巡回中の兵士の如く歩きまわる病気の男や、女の泣き声。広場のロッカの木には吊るされた死体が強い風に揺られている。鞭打ちの鋭い音や痩せた野犬が走り回る姿。家から外へ一歩出れば簡単にわかることだが、見せしめや焚書や懲罰が町では溢れかえっていた。
ジョッキに見立てた看板がからからと回っているのが見えた。酒場だ。いつ見ても明かりのあるそこへ着くころにはエク・グレアの胸の内はラーマルの沼よりもずっと沈み込んでいた。
酒場の前には馬が何頭か繋がれている。
エイデアンと彫られたブリキのぶら下がる扉を開ける前より、中からは賑やかな喧騒と歌声が聞こえ、扉を開ければ酒樽に顔を突っ込んだような強いアルコールの臭いが鼻を刺した。中ではジョングルールが朽ちかけた楽器を手に歴史的事変を歌い、農民や兵士や放浪者が安いワインで呂律や頭を馬鹿にしていた。
エク・グレアがその中に入っていくと、カードゲームに興じていた内の誰かが床に唾を吐いた。それを誰かのブーツが踏んでいった。
おいおい、あいつ今度は酒場に調査に来やがったぜ。酒が不味くなる。喧騒に紛れて一人の男がそう言った。その横に座っていた男が、そうだなと頷いて痰を吐き捨てた。その男は確かにグレアを見ていたが、グレアは男を見なかった。
お前が今飲んでいる酒は、端から不味いんだと教えてやりたかったが、エク・グレアは黙って奥のテーブルについた。
酒場の主人が薄いビールを運んで来ては去って行った。それを一気に流し込んでジョッキを空にしても、今日は酔えそうになかった。だがこの不味い酒で酔えたとしても、胸糞の悪い不快感しか翌日には残らないだろう。
ジョングルールは酒の入った木箱に座って、昔の伝説について歌っている。不思議とグレアはそれに聞き入った。オレンジ色の照明がそうさせたのかもしれないし、領主の言葉が今も彼女の中に引っかかっていたのかもしれない。
少女が剣を取り、見事怪物を打ち倒す。少女は英雄となるが、怪物退治をする内にやがて自分が怪物になってしまう。そんな歌詞だった。
酒場の主人がもう一杯運んでくる。その英雄の名はニア・ジルテレイ。放浪の詩人はそう歌った。エク・グレアはその名前を以前より知っていた気がした。どこでかは分からない。ただそんな気がしたのだ。それは不味い蒸留酒による錯覚かもしれないが、その名前を彼女は大切に思った。
「一人のようだが、ここに座っても?」
頭上から声がした。半ば酔いの回ったグレアの頭でも、それが異常なことだと理解できた。自分と相席しようなんて特殊な事を考える人間は、そうそういない筈だった。瘴気に毒された極北に赴くだけで、人はグレアを穢れた病原のように扱うのだ。
「ええ、どうぞ」
エク・グレアは重くなった頭を上げて声の主を見た。頭から足元まで外套に覆われてはいるが、背格好や声色で若い女だと分かった。彼女は明らかに放浪者の類だったが、酒場に来るくらいだから巡拝者ではないのだろう。腰には変わったレイピアを挿していて、右手を三角巾で吊っていた。彼女は左手でビールの入ったジョッキをテーブルに置き、煩わしそうに椅子に座った。
グレアにとって、こうやって面と向かって誰かと酒を飲むのは本当に久しぶりだった。唾を吐かれ酒を掛けられ背中を蹴られといった風に酒場には良い思い出がないのだ。
「貴女、どこから?」
グレアが聞くと放浪者はフードを脱ぎ、北からだと答えた。女は深い緑の瞳をしており、プラチナブロンドの長髪を後ろで一纏めにしてあった。その青白い膚や鷲鼻を見るにドフネイフ人ではなかった。
北の人間だというのは恐らく本当だろう。アリアンドラのような浅黒さやドフネイフのような泥臭さが彼女からは感じられなかった。貧相な旅装で押さえつけられてもなお、彼女の潔癖な美しさは損なわれていなかった。
最近忙しいので更新が・・・




