エン・オーター
9のバフと2のデバフが掛かったニアは目を細めた。決闘が成立したにも関わらず逃走不可フィールドが発生しなかった。やはり根本的なところで何かが狂い始めているとニアは思う。これは本当に単なるクエストなのだろうか。賊に味方し敵国の騎士を倒す。ありふれたクエストだ。
だが、足元から這い上がってくる現実感を押さえつけることができない。ガスマスクの暗視レンズ越しに目の前の女騎士を見た。
女は此方を見て驚愕を露にしていた。それが何に対してなのかは分からない。だがその人間臭い表情の動きや、手に握るオーンブレイカーの冷たさで、ニアは現状について薄々気付き始めていた。
女は口許を僅かに動かしただけで、他に何の予備動作もなく何らかの魔法を発動させた。それは微小なエフェクトとなって女に纏わりつく。NPCの魔法使用にはパターン化された予備動作があるが、女騎士にはそれが当てはまらないようだ。
そして走り出した女に一瞬にして距離を埋められ、ニアは驚きに思考を一瞬停止させた。それはただのNPCにしては異常な速度だったからだ。このNPCのステータスは桁外れな設定でもされているのか。
女に懐への侵入を許したニアだったが、彼女の恐ろしく鋭い斬撃が自分へ届くことがなかった。ニアは女の剣にオーンブレイカーを添わせ、明後日の方向へと逸らしたのだ。重い金属音がして、女の剣が流されて無防備な隙がニアの目の前に晒される。パリイである。ニアは女騎士の攻撃をオーンブレイカーによって受け流したのだ。
しかしその金属音は紛れもなく本物だった。サウンドエフェクトではない現実からなる音だ。
女の背後の騎士からどよめきが生まれる。それもその筈で、ここらでは最強と謳われる我らが騎士団の副隊長の剣がいとも簡単に流されたのだ。
女騎士は追撃が来ない事を侮りと取りながらも、力量を見誤っていたと一時後退した。ニアは追撃をしなかったのではない。出来なかったのだ。本来有る筈の無い手の痺れと、打ち合った際の剣の衝撃と重みに我を忘れた。ここは本当にゲームの中なのか……。いや違う。
女騎士はまたしても計り知れないスピードでニアに接近し、剣を振るった。
思い金属音が響き渡る。彼女は歯噛みした。またしても受け流された。がら空きになった女騎士の腹部へとニアが蹴りを入れる。それは魔法職などが良く使用する相手と距離を取る為のキックという動作だった。スキルを使用しないどころか通常攻撃ですらないそれを受け、白銀の鎧は無残にも陥没し、彼女はそのまま地面を転がった。ニアが目を剥く。
副官の騎士が助けに入ろうとするも、自制した。決闘では不干渉が守られなければならない。女騎士は大破した自らの鎧を眺めて戦慄した。このアサシンの足は何で出来ているというのか。
彼女は何度となく己の剣を受け流すニアの剣を睨んだ。次に受け流された時自分は死ぬと漠然と感じた。アサシンの持つ、刀身に返しが幾つも付いた奇妙な剣は黒い靄に包まれている。それはエンチャント(瘴気)と呼ばれるものであったが女騎士には分からない。
ニアの持つ剣。オーンブレイカーはアイテムランクSの中では驚異的なまでに攻撃力が低い。それはこの長剣がパリイを前提とする武器だからである。
パリイの仕様は、敵が行う物理攻撃のパリイ受付時間中にパリイを行うと敵の攻撃を無力化し、更に一秒間相手は身動きを取れなくなるというものだ。その間に追撃を行う事で通常の二倍前後のダメージを与えられる。
だがこのゲームのパリイは非常に高リスク高難度で、パリイするより盾受けした方が安全であるからあまり使われる事はない。スキルによって判定はばらばらで、しかも受付時間が短すぎる為、使用者は殆どいないのが現状だった。
しかしオーンブレイカーはそれを前提とする。アイテムランクSの武器の攻撃力は平均して1500近くだが、オーンブレイカーは800にも満たない。一見すると貧弱に見えがちだが、追加効果として敵攻撃のパリイ受付時間を延長させる効果があり、極め付けには物理攻撃以外もパリイ出来る。
魔法、トラップ、状態異常など。他にもアイテムランクSに3本ある霊剣シリーズは本来どれもパリイ無効なのだが、オーンブレイカーだけは霊剣をパリイできる仕様になっている。
「エリス……」
副官の悲痛な声がした。それに応えるように女騎士は手を上げて立ち上がろうとする。内臓か何かにダメージを受けたのだろうか。彼女は上手く立てないようだった。ニアは人間の真似をしようとする動物を見ているような寒気と共にそれを見守った。
だがそれも長くは続かない。ニアの右腕は少しずつ異形のものへと変化し始めていた。ニアは感覚的に不味いと感じて歯噛みした。異形化である。ステータスを開けば状態異常の項目には精神汚染と記載されている。
完全に異形化する前に早く決闘を終わらせなければならない。
ニアは女騎士に走り寄って、立とうとする彼女を蹴って足で押さえつけ、上から鉄屑同然となった鎧を切り裂いた。瞬間短い断末魔が聞こえ、ニアを血飛沫が染め上げた。血によって不明瞭になった視界の外で副官が息を飲み、女騎士は呆気なく血に倒れ伏した。
ガスマスクのレンズは血で汚れ、帷子は赤黒く塗りたくられた。ニアは血を見て疑念が確信に変わった。ガスマスクを外し、飛び散った生温かい血を徐に拭うと、それを舐め取った。鉄臭い味がした。
決まりだ。ここはエン・オーター・オンラインの中などでは無い。エン・オーター・オンラインでは血や性的な描写は一切禁止されているし、そもそも味覚など実装されていない。ここは仮想空間などでは無く、紛れもない現実なのではないか。血に塗れた右手を見つめたままニアは硬直した。ならば今自分は人を殺してしまったのか。
虚ろに、副官へ目を向けた。彼女はまるで神の死を目撃したかのように呆然と2、3歩後ずさると、そのまま馬の元まで逃げるように駆けて飛び乗った。撤退するのか。ニアは安堵した。不安げな馬の嘶きと共にそれは去っていった。
副官の姿が見えなくなるとニアは思わず跪いた。冷静さだけがニアのとりえだ。それ故吐きはしなかったが気分は優れない。女騎士の体はまだ暖かく、それが彼女がNPCではないことを物語っていた。
血に汚れた白銀は目に痛いほどに鮮やかで、ここが現実であることを眼窩に押し入れられるようだった。あの時彼女の肉と臓物を引き裂いた剣の感触は生々しく、まだ手に残っている。あれほどに手に馴染んだオーンブレイカーでさえ、今はまだ触りたくはない。
涙が出そうになった時、女騎士の目が僅かに開かれた。手は痙攣するように動き、ニアの口から嗚咽が漏れる。苦しげな表情だがまだ生きている。ニアは瞠目した。膨大な量を誇る所持品を急へいで開いて、ポーション系アイテムを探した。ソート機能は使用不可になっており、時間はかかったが発見できた。
エルフのポーション、ハイポーション、古代のポーション、ポーション、アムリタ、聖なるソーマ、秘薬、賢者の石……。
混乱しぐるぐると回った頭では、どれが最も効果の高いアイテムか分からない。だがアイテムは何れも最大所持数である999個保有している。効かなければ全てのポーションをぶち撒ければいいだけの話だ。
だがそこまで考えて思い止まる。そもそも人間をポーションなどという得体の知れぬ薬品で治療することが可能なのだろうか。ここは恐らく現実だ。今必要なのは御伽噺のような薬ではなく、彼女に適切な治療を施してくれる者の存在ではないか?
彼女の傷は自分がやったとはいえ見るも無惨なものだった。
鎧は何の防御力も発揮せずに剣を通したらしく、血が止まらない。オーンブレイカーは幾つもの細かな返しがある剣であるから、内蔵は八つ裂きになっていた。それに傷口すらもずたずたになって見るに堪えず、縫合できる可能性は低いのではないか。これを治療できる者は存在するのか?
ニアは焦燥の中、聖なるソーマを選択した。人の死に向き合ったのは初めての経験だった。光のエフェクトと共に手中にソーマが出現する。美しい小瓶に入った毒々しい赤い液体。それを見て女騎士から呻き声が漏れる。ニアは騎士の顔にかかった髪を除けてやりながらガラスの蓋を口で開ける。
騎士の頭を胸元へ抱き寄せ、その口に優しく小瓶を宛がった。
「飲め」
ニアの言葉に騎士は絶望したような面持ちになる。必死に首を振る彼女に見て埒が明かないとニアは無理矢理彼女の口腔内にソーマを流し込む。
しかし騎士はそれを盛大に吐き散らかし、弱々しい目でニアを下から睨めつけた。毒か何かと勘違いしているのだろうか。拒むのは勝手だが早くしないと死んでしまう。ニアはもう一度流し込むが、彼女は頑なに嚥下することを拒否した。
一本のソーマが空になると、ニアはそれを投げ捨ててもう一つのソーマを取り出した。途端に騎士の顔に怯えが走る。
「安心しろ、これはソーマだ」
ニアは不安を取り除こうとして言ったが、彼女は首を振るばかりだった。まさか、ソーマを知らないのか? そんな馬鹿な。ニアは最後の手段としてソーマを自らの口に含み、彼女の唇に自らのものを押し当てた。彼女の表情がみるみる変わる。
そして固く閉じられた口を舌で開いて彼女の口腔内へとソーマを流し込んだ。彼女が吐こうとして噎せても唇は決して離さなかった。暴れようとした手を押さえつける。ニアは見開かれた騎士の目と数秒間見つめあい、彼女の喉が鳴った。飲んだのだ。
ニアはぐったりとする騎士を拘束から解放した。そして傷の具合を確かめた。酷かった傷は逆再生するように塞がっていき、止血され、皮膚は繋がり、遂には傷一つない真っ白な柔肌へと回復した。ポーションは本来の性能を齎したようだった。
ニアは安堵の息を吐いた。傷が回復したというのに動かない彼女を不思議に思い、改めて確認すると意識を失っていた。聖なるソーマは体力回復に加え状態異常も治す筈だが、それは適用されていなかった。やはりここはゲームではなく、ゲームとは差異があるのだろう。
安静にしようとニアは騎士を背負って廃坑前へと運んだ。入口の柱へと凭れさせるように寝かせると、彼女を置いて、人を求めて廃坑へと下った。まだ賊が残っているかもしれない。そいつらから情報を得たかった。
ここはどこで、何年で、どうして私がここにいたのか。いつから私はお前達と行動を共にしていたのか。聞きたいことは幾らでもあった。明らかにあの時の賊はニアと初対面の様子ではなかったように思える。
ニアは階段を降りながら腕に爪を立てた。痛みを感じ、やはりここは現実に他ならないと再確認した。気付けば異形化の症状は収まっている。やはり戦闘が終わると沈静化するようでそこはゲームの仕様と変わらないらしい。
異形化は最上級クラスのハイ・デーモンか上級クラスのデーモンに転職することで発動するパッシブスキルである。デーモンは数少ない異類系のクラスの一つで、転職条件が厳しいためになれる者は少ない。
異形化はその名の通りに、ある条件を満たすと自身の姿が異形化するというものである。その姿はクラスによりさまざまである。変化条件は特定のマイナス系状態異常にかかることであって、それ以外には方法がない。
先程異形化が進行したのは精神汚染の状態異常によるものだろう。アイテムランクSの異類の帷子には装備するだけで精神汚染のゲージが秒毎に蓄積され、溜まりきると精神汚染の状態異常にかかってしまうというデメリットがある。
ゲームではスキルの発動を阻害したり、操作が逆転したりと癖の強い状態異常だった。しかしここは現実であるが故、スキルの阻害などという事では済まない可能性もある。もしも効果が名に忠実ならば、本当に精神が汚染されて狂いかねない。確認のためステータスを開いて、ニアはゾッとして体を抱いた。
ステータスの状態異常の項目から精神汚染は消えていなかった。戦闘終了と共にリセットされる筈の状態異常の継続が何を意味するのかくらい分かる。ゲームでの精神汚染は優しいものだったが、現実においてはどうなってしまうのか分からない。
狂いきり、廃人となった己の姿が過った。ニアは痛む頭を押さえ、慌てて異類の帷子を脱ごうとして、不可能だと思い出した。
異類の帷子は呪われた装備で、スキルによる解呪かスキルによる破壊、または死亡するくらいでしか脱ぐ方法がなかった。ニアは必要性を感じなかった為に解呪スキルなどとっておらず、そしてゲームでは最も簡単な解呪手段だった死亡という選択はとれないとみていい。ここでの死はデスペナルティどころでは済みそうにない。
ニアは一先ず精神汚染という枷を受け入れることにし、廃坑の奥へと目を移した。幸か不幸かゲージの溜まりは停止している為に、まだ時間の猶予はありそうだった。
その後ニアがいくら廃坑を探索しても、地上へ出るときは何人かすれ違った筈の賊が一人も居らず、ここは藻抜けの殻だった。
広いように思えたこの廃坑も、複雑なだけであって敷地面積自体はそれほど大きくないようだった。深く進もうとしても天井が崩落して先へ進めななかったりと、そういった場所などを除けば全て確認したニアは、漸くここでの人との接触を諦めた。
そういえば賊はこう言っていなかったか。いつもの場所で落ち合おうと。だがその場所とやらが何度頭を捻ってもニアには分からず、途方にくれる結果となった。こんなところ、もう出てしまおう。
無理矢理に百合描写を入れた感が否めないですね