壊疽が見せる夢
御意見があったのでエクのその後を書いてみました。
部屋の面積に対して決して充分ではないランプが、壁に掛けられたタペストリーとエク・グレアと、それから『案山子の領主』を照らしている。数本の蝋燭を惜しんだせいで、部屋の四隅までは灯が行き届かず、柱に描かれたエンクタシの花の装飾はよく見えないし、その柱に凭れ掛かっている護衛の男の顔色も全く窺えない。
領主グウィン・ルソルヴィンの背後にある閉じられた建て付けの悪い鎧戸から洩れた僅かな光が、彼の背中を熱している。その顔は逆光になってしまっていて、頭部はまるで小さな影の塊のようだった。
「エク・グレア。お前が優秀な調査員だというのは私もよく知っているが今回の事に関しては、きっと夢を見たに違いない」
案山子の領主は右手に一枚の紙きれを持ってそう言った。左手は羽ペンを持って宙で遊んでいる。エクは領主を睨んだ。彼はそれを左手で遮ってまあまあとおざなりに宥めた。彼は左利きだった。
護衛は呑気にタペストリーを眺めている。麻か何かで織られているそれを、きっと護衛の男はもう二百回は見ているだろう。今更改まってそれを眺めて何の心理的収穫があるのか。貧困の象徴が描かれたタペストリーが、お前の心にゆとりでも齎してくれるのか?
エク・グレアはここ数日で溜まった苛立ちを彼に心中でぶつけた。どうして誰も信じてくれないのか。廃屋で彼女が見たあの少女の事を聞くと、誰も彼もがそいつは夢幻だと言う。お前は夢を見たんだ。もう六回はその台詞を聞いたし目の前の領主を合わせればこれで七度目だ。
エク・グレアは八日前にここルートハイデン郡に帰還し北方の死地帯の腐蝕の程度を報告した。それと同時に、彼女はあの儚い少女の事を雇い主である案山子の領主に尋ねたのだ。あの子が誰か知りたかったし、怪我も心配だった。
しかし回答としては、不明。この一言に尽きた。三本の剣、入れ墨、銀髪。スイセンの香り。白い膚。あらゆる身体的特徴を述べても、この領主はそんな奇抜な女を雇った覚えはないとの一点張りだった。
だが知らない筈はないのだ。この調査員の仕事は、北方の死地帯を蝕む毒の進捗を調べ、ただ帰ってくるだけだ。だがその実情は、向こうで行方知れずになる者や、半分死体のようになって帰ってくる者が後を絶たないような酷く危険な種類の仕事だ。
故に大多数の人間からは、あいつらは調査など出来ない癖にわざわざ向こうまで行って、毒を持って帰ってくるなどと揶揄され、蛇蝎の如く忌避される。その為我々は極めて結束が強い。故に誰も知らないという事は、仲間ではないということだった。
だがあの時少女は自分を調査員だと確かに言ったし、そもそもそうでなければあんな最北の僻地に用など無いだろう。どれほどの無知な愚か者でも、あそこが一利も存在せずに危険だけがある場所だと知っている筈だ。
ならあの少女は何だったのか。可能性としては、調査員を騙ったただの放浪者かあるいはどこにも属していない調査員であるかのどちらかしかない。つまり幻影などでは決してないのだ。
エク・グレアは彼女の体温を覚えているし、頬を寄せ合った時の彼女のからかうような眼が今でも心に残っている。大勢からの少女の存在否定は、その記憶を侮辱された事と同義であり、エク・グレアに苛立ちを募らせるのだ。
「お前が言うような珍しい外見の女、居たらそれこそ皆が知っているだろう。お前は廃屋で酒を飲んだと言ったな? なら、酔いが過去の伝説でも見せたんじゃないのか?」
「なにって?」
「少女の伝説だよ」
レムヒムの暗殺者。クータンバーグの悪鬼。ウッドバックの殺し屋。バインケストの幽鬼。これらはたった一人の少女に対して送られた数々の異名だ。お前、この伝説を知らないのか?
彼女は頷いて、迷信なんか今時誰も信じていないと答えると、領主はため息を吐いて羽ペンをデスクの上に捨てた。
「お前にも分かるよう説明してやろう。少女で、銀髪、そして一本の剣、スイセンの香、入れ墨。お前の言う特徴に全て当て嵌まってる女が過去に居た。確か二百年も前の話だが」
「剣は三本よ」
「もう何百年も前の話だ。二本くらい増えてても不思議じゃない」
「ああそう、続けて?」
「今でも各地で語り草になってるのは、そいつが馬鹿みたいに恐ろしかったからだ。レムヒムでの戦争を例にあげるなら、奴は一晩でルーンデルク軍を壊滅に追い込んだ。剣一本でだ。隊の再編成どころか脱走兵すら許さなかったらしい。それからその女はレムヒムの暗殺者と呼ばれるようになったが、他にも逸話はある、聞きたいか? この女は様々な戦場に姿を見せては場を荒らしている。文献にも残っているし、田舎では今でも子供をしつけるのに使われてる。お前はその話をどこかで聞いて、それを酒が見せてくれたんだ」
「あの娘は過去の亡霊なんかじゃなく一人の女の子よ。それに、貴方が言うような物騒な娘では絶対になかったわ」
「でも剣を三本も持ってるんだろ? 俺ならそんな物騒で馬鹿な女を見たら逃げだしちまうね」
「彼女を悪く言うのはやめて」
「きっとあの娘はどこかに調査員として所属しているわ」
「だがこれによると、そんな少女はうちにはいないと書いてある。後は、これと。これにも。どうしてなんだろう、これにもそう書いてあるぞ。あれ? これにもだ、ああ後それもだ。分かるか? そうだ、全部にだ!」
全てに同じことが書いてあるぞ! 領主は何枚も紙を捲ったり指差したりした後にそれらをぶちまけた。それらの紙は、他の郡に活動拠点を持つ調査員達から送られてきた回答だった。そして残念なことにそのすべてに於いてそのような調査員の少女は存在しないと書かれており、エク・グレアを失望させた。
「でも、全部書面での回答でしょう? 私が直接行って聞いて来ても」
エク・グレアがそう言うと、領主は呆れたように眼を剥いた。
「馬鹿を言うな。たかが一晩過ごしただけの人間に何をそんなに執着してるんだ? お前は他人に興味が無いんじゃなかったのか?」
とにかく、止してくれ。彼はそう言って話を締めくくった。領主の言葉は尤もであり、エク・グレアに反論の余地はなかった。だが護衛がタペストリーを見上げてうんうんと頷いているのは癇に障った。後でその尻を蹴ってやろうと普段は思いもしない事を彼女は考えた。
「他でもないお前に頼まれたからこうやって方方に手紙を出してやったんだ。手を尽くしたし、これがその結果だ。もしかしたら知らないのかもしれないから言うが、実は俺も暇じゃないんだ。これ以上付き合う気はない」
案山子の領主グウィン・ルソルヴィンのその言葉は、もう何によっても覆すことの出来ないような重さを包含していた。エク・グレアも、そうまで言われてはあの少女との再会を諦める他なかった。しかし、彼女はどうしてもあの少女ともう一度会って話がしたかったし、行けるものなら食事にでも誘いたかった。
そう思ってこぶしを握りこんだ彼女の姿を横目に見て、護衛の男が面白いものでも見たという風に、ふいに此方に顔を向けてこう言い放った。
「まさか惚れたんじゃないだろうな。その女に」
エク・グレアは喉を詰まらせたように途端に黙り込んだ。
「おいおいまさかな。勘弁してくれ」
そのやりとりを見て、領主は両手を投げ出した。そして彼は脚の一本歪んだ椅子に深く座り込んで眼を閉じた。その姿はまさに出来の悪い案山子であった。そんな二人の態度や言葉に、まるで自分でさえ思いもよらなかった事実を、思慮のない他人によって突き付けられたようにエク・グレアは頭にかっと血が上った。
「お前は言ったな? 将来に期待できる女の子が居るから引き入れたいと。だから俺は手紙まで出した。決して、お前の恋路を応援する為じゃない」
決してだ。彼はその言葉をもう一度強調して述べた。彼の信用を失ったかもしれないと、エク・グレアは一旦上った血がさあっと引いていくのを感じた。こうなっては、あの護衛の尻は二度蹴らねばならなかった。貴様の要らぬ一言のせいで、立つ瀬がなくなってしまったではないか。
護衛に向かって、後で二発蹴りをいれてやるからな、という意味を込めてグレアが睨むと、彼は笑っていった。
「エク・グレア、お前が女に興奮するような奴だったとはな。帰ったら妹に気を付けるように言わないといけない」
いいや、三度蹴ってやろう。




