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ジルテレイ  作者: 小町
2.オルスタシアの王
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暗中のアリア


 外の白銀と、この暖かな一室は完全に切り離されている。レイシャはゆっくりとだが癒え始めている両手の包帯の交換を終えた。死地帯の毒に染まってもなお何の医療行為も必要としないニアの肉体にレイシャは恐ろしさを覚えた。

 ただ安静にしているだけで、あの毒々しかった色は引き始めている。シーツの上に殆ど動かない腕を横たえて、枕を高くした。


「ニア、もう寝ましょう?」

 レイシャは毛布を掴んで主人の喉元まで引き上げた。この城の主人は唸るだけで返事をしなかった。

 古城での一日は一日としての意味を持たない。この城の停滞した時間をレイシャは好んでいたが、彼女はどうやらそうではないようだった。こうやってレイシャが就寝の時間を告げると決まってニアはおよそ生きる気がないような声色で、思い出したように家へ帰りたいと言うのだ。


 まるで今の彼女は夢の中にでも生きているような有様だった。つまり不安定で儚げで、そこに居ながら不確かな存在として消えかかっている。彼女からは現実感というものが日増しに欠如していき、今にもこの世界から剥離してしまいそうだった。もう、レイシャは彼女をベッドに繋ぎ止めたくて仕方がなかった。

「ねえ、帰りたい」

「駄目」

 レイシャはそれきり黙して、カンテラを消した。明かりが消され、この城本来の暗闇が部屋へと舞い戻ってくる。静かな暗闇は、小さな従者の心の内から際限なく湧き出してくるようだった。


 闇に沈殿したベッドに眠るニアを眺めた。レイシャは夜目が効く。この眼球は猫の目なのだ。主人は苦しそうに、僅かに口を開けて呼吸している。今にもその口から、レイシャを詰る言葉が大声で吐き出されそうで、目が離せなかった。

 身勝手で不埒な劣情を理由に、主人の治療すら放棄するこの従者の内心を知った時、ニアはどうするだろうと、夜になるとそればかり考える。

 レイシャは幸福と同時に底知れぬ罪責感をも背負っており、自分を従者として失格だと断じていた。


「おやすみなさい、ニア」

 カンテラの灯が潰えても、まだ獣脂特有の獣臭い匂いが部屋には漂っている。

「家は?」

 譫言のように彼女は繰り返した。家はここだ。ここ以外有り得ない。

 彼女の苦悩を、この小さな体では受け止められそうにない。レイシャはただ悲しかった。帰りたい家とは、ここではないのか。ここで永遠に暮らすことの何が不満なのかレイシャには分からなかった。


 この古城は、もう名前や存在すら過去に置き去りにしてしまった。今あるのは過去の栄光の名残のみで、ここを覚えている者が、この世界にまだ一体どれだけいるだろう。もうここは、彼女の帰る場所では無くなったのかもしれない。

 彼女が築き上げた一切や、嘗て娘のように愛を注いでくれたレイシャを捨ててまで帰りたい家とは、どれほど素敵なのだろう。レイシャの脳裏に浮かび上がる光景はいつも、自分よりもずっと綺麗な従者と抱き合うニアの姿だ。現実が、そうであってほしくはない。


 でもきっと、その家の事も直に忘れるだろう。いや、忘れさせるのだ。そんな家なんかよりも、もっとずっと素晴らしい事がレイシャとニアの間には厳然と存在するのだと何れ分かる。

 障害故に、従者なしでは生存すら不可能な卑小な存在へ成り下がったのだという自覚を持ち、深い依存へとニアが嵌りこむ未来は、もうすぐそこだ。その甘美な想像はレイシャを魅了し酔いしれさせた。


 もう自制は出来なかった。これはそういった行為では無いと言い訳しながら、レイシャは主人の頭に巻かれた包帯に唇を添わせた。これは紛れもないおやすみの挨拶なのだ、と。闇の中でさえ、この行為を誰かに見られていて、咎められるような不安がずっと背中には張り付いている。


 失われた耳に手を重ねた。自分自身がニアの眼となり耳となる準備も覚悟も出来ている。そしてきっとニアも、一時は混乱したとしても時が経てばレイシャがこれから行う過ちについて、長すぎる禁欲の年月を考慮した結果これは戯れだと理解してくれるだろう。そしてもっと時が経てば、そんな夜もあったなと許してくれるに違いなかった。


 額から鼻梁を下り、暗闇の中で彼女とニアの顔がそっと重なった。もうそれは言い訳の可能な域をはるかに凌駕していた。主人の感触と温度を直に感じて、レイシャはこの世を手にした気分だったが、ニアは反応すらしなかった。

 それがレイシャの胸を突き刺した。だが彼女はここで踏み止まれるほど、賢明な女ではなかったのだ。明日、自分は彼女に仕える従順な従者となるだろう。だから今だけは、創りあげた夜の内だけは、少しの勝手を許してほしかったのだ。




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