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ジルテレイ  作者: 小町
2.オルスタシアの王
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カルテロンの喉底

 明り取り窓は隙間なく閉じられ、その上何者の侵入すら許さないよう厳重に施錠されている。この部屋を夜から守護し、照らしてくれるのは天井に吊るされた小さな明かりだけで、他には一切の邪魔や環境音が入り込む余地がなかった。


 トレーにのせた食事を彼女の傍に置く。まるで誰かの嘔吐物のような流動食が、銀皿の底で波打った。数日前にニアが目を覚ましてからというもの、下半身が麻痺した主人の世話を、レイシャはヘーゼルの瞳を歪めて嬉々として行っていた。

 それは彼女にとってはまるで、神から与えられた崇高かつ全人生を捧げるに足る使命であるかのようだった。


 あの灰海より彼女を引き上げてからずっと、小さな従者レイシャは、ニアを肉体的に支配する事だけに意を注いでいた。

 食事や湯汲み、果ては排泄に至るまで、主人に関する全ての権限は今や彼女が完全に握っているのだ。当人にそれを取り返す術がない事実が、レイシャをどうしようもなく高揚させる。

 それはともすれば、二人の主従という関係性さえ忘れさせるほどの温度と強さを持つものだった。


 これは体感的な話だが、次第にニアは自分へ依存し始めているようにレイシャは感じていた。それはニアの行動の節々で、確かな証拠として現れ始めていた。

 それをレイシャは歓迎した。何故なら時間は、二人の間やベッドの上に無限に横たわっているのだ。


「ニア」

 レイシャは主人に、食事の時間を告げた。彼女の人差し指が僅かにだが動いた。ニアの聴覚は微小にではあるが、回復の兆しを見せ始めていた。片方の耳殻を喪失しても尚、彼女の感覚器官は快方へ向かっている。それは、レイシャの望むところではなかった。

 ニアは自分を取り囲むもの全てから逃避するように、固く眼を閉じている。埃で紡がれた糸が編み込まれたような古いネグリジェを着せられて、もう何日もベッドの上でただじっと、主人はそうしていた。呪いの刻まれた防具類は全て、レイシャが解呪し取り払った後だった。


 細切れになって、元が何だか分からないような液状をスプーンで掬ってニアの口元へもっていく。

 そしてあの日のように、唇を指でなぞる。それは、既に慣習化した食事の合図だった。するとニアは口を開けて、まるでレイシャの全てを受容するようにスプーンを咥えた。喉が鳴る。それはニアの白く細い喉ではなく、赤らんだレイシャの喉だった。


 ニアは咀嚼すらをも放棄して、口内に入れられたものを機械的に飲み込んだ。

 その余りにも衰弱した姿を見て、嘗ての主人の、圧倒的な姿をレイシャは思い起こした。レイシャが従者として生み出された時から既に、ニア・ジルテレイはニア・ジルテレイだった。草臥れた古城を有し、十二人のアサシン、つまり十二人の同胞を従えていた。あの時からもう、主人は個人としての極みに達していたといえる。

 ニア・ジルテレイの前に立った時、誰もがまるで手も足も出なかったのを記憶しているし、それを誇りに思ったものだ。彼女は常に戦いの中にあったが、レイシャが知る限り、人と対してニアが敗北したことは一度として無かった。ニアが血に濡れているとき、それは必ず相手のものだった。

 

 そんな彼女を自らの物とし、時に管理し、生かしているという、背筋に震えと痺れが走るようなこの感覚は、レイシャをいたく興奮させ、感激させもした。嘗ての、尊敬する主人に仕えるだけで満足だった自分とは、もう時代も状態も何もかもが違うのだ。

 以前の自分の存在を客観的に見れば分かるのだが、昔の自分はニア・ジルテレイが取り損なったスキルを覚えさせられただけの云わば歩くスクロールのようなものだった。必要があれば参じ、役目を終えれば下げられる。

 そんなまるで道具のような位置付けに自己の意義を見失っていた過去に比べれば、例えそれが造り上げたものだとしても、今の自分は目に見えた形で主人に貢献していると言える。


 食事が終わると、トレーを下げた。

 そしてベッドの脇に腰掛け、シーツの上にばら撒かれた淡い銀の髪を整えた。過去のレイシャならば、主人の髪など畏れ多くて触れられなかったに違いない。だが今のレイシャにとって我慢など、まったくの不要な存在と成り果てている。

 レイシャは暗鬱な空気が垂れ込めるこの部屋で、ずっと永遠に暮らしていたかった。不自由ない二人だけの世界は、レイシャの空白と引き換えにニアが二百年間をかけて見てきたどんな場所よりもきっと素敵なものだ。


 だがニアが自分に向ける愛は、親が子へ注ぐような肉欲の伴わない、清廉かつ精神的なものだとよく理解している。例え自分が何かしらを求めたとしても、それが叶えられることは無いだろう事も、よく理解していた。

 それに反するようにレイシャが主人へ向ける愛は、誰もが認めるような普遍的で綺麗な型には収まってはくれないような、醜く絡まったものなのだ。


 レイシャはそれを、ただ受け入れてほしかった。その為にレイシャはここ数日あらゆる手を尽くし、ニアに僅かに残された殆どのものさえをも奪った。自発的な行動を制限したのも、それが理由だった。

 ニアの腕も脚も、レイシャの使う錬金術の中の治療系のスキルがあれば、元通りとはいかずとも直すことはできる。それに同胞達が残していった余りあるアイテムの山を駆使すれば回復など容易いことだ。だが敢えてそうしなかった。そうする必要を感じなかったのだ。


 ニアが以前の姿に立ち返ることは、同時に自分の存在する意味を失うことと同義なのだ。レイシャはそれだけが怖かった。もう少しだけでいい。彼女にとって、自分だけが絶対的に必要な存在でありたかった。求められることの喜びをまだ、噛み締めていたかったのだ。


 その思いからレイシャが産み出したあの兵達も破棄した。あれは姿を消した同胞の代替品として、ニアへ捧げる予定だった。ニアが仲間の喪失に悲しまないように、と。だが改めて考えてみれば、ニアには自分さえ居れば他には何も必要では無く、例え過去の記憶と化したあの同胞たちが帰ってきたとしても、ニアは古城へ入れることすらしないだろう。同胞達は古城を去った。その事実をレイシャは忘れない。あの同胞たちはレイシャよりずっと長けていたが、それだけだ。

 ニアの心中に空いてしまった際限ない穴の全ては、他の誰でもないこのレイシャが、残らず補って埋めてあげるのだ。



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