羚羊の裂け目
閑話・エリス・その後
水の豊かで、9世紀的な面影を残した寒村ラウン・ヘンで見つかったのは、スルド・ラクノマナルという男の墓だけだった。それは美しい畔にあって、下草と苔の中に蹲っていた。エリス・ズノンルルフはその前に跪いた。彼の墓石は、常に彼を褒め称えていた。
誠実で真に清くあり、レメネンへと人生のすべてを捧げた、と。そこへエリスが花を手向ける二年前にはもう既に、彼は死去しているんですと、彼の良き隣人だった老婆のアウノ・スキャッチは語った。スルド・ラクノマナルは本当の意味での素晴らしい男だった。
スキャッチは突然の訪問者であるエリスに対しても茶を出してくれたが、その粘土のような器の底には埃が沈んでいた。エリスは丁度彼女の孫ほどの年齢に該当した。在りし日の事を想起させる彼女に対し、スキャッチは優しげだった。
エリスが亡くなった彼について尋ねると、彼女は滔々と過去を語った。彼女は思い出を遡ることに、一種の喜びを見いだせるようだった。
ラウン・ヘンに滞在したのは一日にも満たない。エリスはスキャッチと夕餉までを共にしたが、レイニーフ神父が何故ここへ向かうよう言ったのか、終ぞ理解することはなかった。もしかすると彼は友であるスルドの状態に関して無知だったのか。それともただエリスが、彼の示唆した何かを汲み取ることが出来なかったのか。どちらにしろ、エリスは落胆を隠せなかった。
放浪者のような風体の女が、ラウン・ヘンを去るその時まで、スキャッチは亡きスルドの友人に失礼のないようにと気配りを忘れなかった。年老いても、人をどうもてなせばよいかを彼女はよく承知していた。手土産に羊肉のサンドイッチを持たせ、スキャッチはまたスルドの元へ来るようエリスに言って聞かせた。
「どうもありがとう」
エリス・ズノンルルフと名乗った若い女は、スキャッチにとっては久しぶりの客人であり、まだ周囲が賑やかだった頃の記憶を刺激した存在だった。そしてスキャッチは、客人が帰った後の家の静けさについても、十分に承知していた。
エリスはスキャッチに見送られてラウン・ヘンを発った。その両の脚は常に南東を向いていた。見る者を圧倒するようなオルゴン地帯には、灰色の層積雲が重く垂れ込めている。今の彼女の姿は、以前のエリスを知るものから見れば、別人とも言えた。
信仰による完璧な心理的鎧を失った彼女は、襤褸切れを頭から被っただけの過去とは無縁な放浪者だった。教会にあらゆる面に於いて庇護されていた時代にはあった筈の、どこか威嚇的だった雰囲気や、神秘性は消え去り、今彼女から与えられる印象は窮乏さと不潔さだけだった。
低木の茂みや、断層が剥き出しになった高い峰々。エリスはただ南を目指していた。最早故郷では無くなった聖国から、つまりシャハートから遠ざかる為だった。北方に留まるのは危険だと痛いほどに理解していた。死者が動き回る事を、彼らが大人しく我慢できるとは思えなかったのだ。
南下あるのみだ。エリスは、前方に横たわる遥かなる高原を見やった。ずっと向こうに、国境線を示すオベリスクが屹立している。そこから先は確かルートハイデン郡となり、そこからまた更に行けばドフネイフとなる筈だった。
この世界は3つに切り分けられたといってもいい。それは鳥瞰すれば分かることだが、別にフォークとナイフで丁寧に等しく切った訳ではない。国境線は、血によって引かれている。昔相次いだ戦争によって、殆どの物の所有権と現在の力関係は完璧に決定されたのだ。
だが未だ戦争は飽きもせずに継続している。それは、劣悪な環境下に放置していても無尽蔵に増え続ける労働力を手に入れる為である。つまるところ、超大国間に無数にある小国の支配権を巡ってのものだ。
超大国として北に聖国。南東にドフネイフ。そして東にアリアンドラ。これら3国が、この時代、ひいてはこの世界を領している。エリスは剥き出しになっていた花崗岩を踏み砕いた。
支配的な3つの巌。その内の、ドフネイフへと彼女は進路を向けていた。
層積雲の切れ間から降り注ぐ陽光が、鉄底のブーツに反射して目に沁みた。
彼女の腹の底には、まるであの太陽のような、黒々とした熱があれからずっと渦を巻いている。あれから、というのが何時からかは不明瞭だ。レイニーフ神父の告白を聞いた時からなのか、あのアサシンに完膚なきまでに打ち負かされた時からなのか。
だが言わずともはっきりしているのは、その矛先は誰よりも北を捉えているということだ。騎士団の統合。それは聖国をより良いものにする為、換言すれば騎士団を一段階より高次な存在とする為ではないに違いなかった。
エリスの見立てによれば。もっと高いところにある力が、下賤な目的の為にそう定めたのだ。振り返って、地平線を睨めつけた。うねりを産む熱を北方に放出する機会は、聖国との関係悪化が進行する一方のドフネイフにしかないと、彼女は確信していた。
エリスは灰褐色の大地に伸びる古い道を辿った。影が強張っていき、そして太陽が落ちるのを感じた。夜はレイビドーの産卵期よりも確実に危険なものだ。逃げ込むように彼女は、右手にあった陰鬱な冬木の林に身を潜ませた。
落ちかけたオレンジの下で、白と灰の斑が点々とする。エリスは古い道が見えなくなるまで林の中を進んだ。そしてある一本の冬木の足元に座り込み、裏の朽ちかけた木の虚へと荷を放り込んだ。
何か物事について思案するのは、決まって夜だった。それは昔も今も変わらない確かなものとして彼女の中にある。エリスは空腹に耐えかねてスキャッチのサンドイッチを頬張ると、包みを横の地面へと捻じ込んだ。
外では急激に日が落ちていく様が影を通して分かる。頭上では、何かが喉を絞って出したような奇妙な鳴き声がした。エリスは眼を上にやった。枝木を透かし、暗澹とした寒空が見えた。幻聴か。
隆起した木の根に外套を敷いて、後頭部を置き横になった。ぼんやりと視線を上に置いたままにすれば夕暮れはやがて終わり、曇り空は太陽から夜を取り戻したようだった。エリスは寒さに打たれて体の中心を包むように丸くなった。
眼を閉じれば、思い出すのはいつもあの顔だった。薄らとしか自分へ顔を向けてくれない彼女の白い頬。それは、いつも暗闇の中に孤立しており、自分だけを除いて、何も寄せ付けなかった。暗闇は冷たさを放っている。その零下の温度は彼女をどんどんと下へ押し込んでいくのだ。
彼女は今のエリス同様きっと孤独に苛まれており、自分が行けば彼女は自分を常に受け入れてくれるのだという確固たる
ふいに乾いた音がした。枝を踏み折った音だ。急激に意識が浮上してくる。夢は泡のように弾けて消えてしまった。何時の間に自分は眠ってしまっていたのだろう。瞼を持ち上げれば眼窩に乾いた風が吹き込んでくる。眼に入ったのは鮮やかな夜明けの林ではなく、真夜中に立つ騾馬と、明らかに嫌な感じのする二人の男だった。
一人は鉈を手にエリスから離れたところに腰を下ろしており、もう一人はエリスのすぐ脇に立っていた。やあおはよう、と座った男が座ったままに言った。男の襤褸のような服装や言語の訛り、汚い靴。それらから一瞬で現状を理解し、頭から血が引いた。
エリスは自然さを漂わせて腰に腕を伸ばそうとしたところを脇の巨漢に踏み付けられた。彼は右の手の甲を、鉛のブーツで踏みにじった。骨が砕けた。
悲鳴を上げそうになると、しー、と廃馬処理用の鉈を持った男が口に指をあてる仕草を取った。起こして悪いな。
「まあ落ち着こうぜ、お前。食い物は、なにか持ってるか?」
エリスは首を振る。別に豆だっていいんだよ俺達。エリスは首を振る。
「なら金は。ソリウド硬貨だとなお良いんだが」
エリスは首を振った。
「おいおい、なんて奴だ。お前はいつもそうなのか?」
男はさっと立ち上がり、歩いて来て苛立たしげにエリスを蹴り上げた。痛みが脇腹を駆け巡った。エリスは呻いた。荷物はどこだ? と男が言う。エリスは賊にやる荷など持ち合わせてはいなかった。男は周囲を手荒く踏み荒らしてはそれらしき物や、炉穴や、焚火の残骸などを見つけ出そうとしたが、周囲からは何も発見できなかった。
男は鉈を振り回してから悪態を吐き、エリスの両手を押さえつけ始めている巨漢へ、女を押さえてろよと言い残し、荷を探しに暗闇の中へ消えた。
後にはエリスと巨漢が残された。夜はまだ長いぞ。どこにあるのか言ってみろよ。巨漢はエリスの右手と、左手を掴んでそう耳元で囁いた。エリスは沈黙を、最も尊重されなければならないルールであるかのように厳守した。
腹も尻も大きく出っ張っている男は、明らかに空腹で苛立っていたし、それ以上に強い欲求も彼にはあった。エリスの左手を掴んでいた、風船のように膨れ上がった手を離して、巨漢はズボンを片手で下ろそうとした。
だが上手くいかず、彼はそのままエリスに跨って覆い被さろうとした。エリスは解放された左手に意識を振り絞った。必死に腕を伸ばしてレイピアを握る。
鞘から引き抜いた瞬間だった。紅玉の中の色彩が、蜷局を巻いた。手が痺れる程の勢いで、轟音を伴って上方へ何かが放たれていた。見れば、巨漢の腹に直径30センチ程の空洞ができている。その肉の壁に開いた穴からは、向こう側の枝木を透かした空が見え、そこを影が通り過ぎた気がした。
次いで、バケツを返したようにどっと血が降ってくる。エリスの右手を掴んでいた手は力を失し、腕の間接が折れ曲がって、支柱を無くした屋根のように巨漢はエリスの上に落ちてくる。口内に含んだ血を吐き出してから、エリスは自分の上から男を蹴り落とした。立ち上がる際に、右手がひどく傷んだ。剣はもてそうにない。
おい何があった。遠くから、先程の男の叫び声がする。エリスはもう一度唾を吐いてから、外套を拾い上げ、暴れようとする騾馬の頭に被せて袖で結んだ。それから馬の手綱を近場の冬木の幹に括り付けた。
「返事をしろ、ローンズ。どうしたんだ、え?」
声は近付いて来る。薄まった闇の中で息を吐いた。エリスはレイピアを再び鞘へ収納する気にはなれなかった。震えが収まらないのだ。それはあの鉈を手にした賊に対してのものではなく、小さな少女へのものだった。
先程レイピアから螺旋を伴って吐き出された無色の波動は、男の腹部を掘削しながら向こう側へと突き抜けていった。エリスは自分の理解の範疇を凌駕する暴力を任された娘のように茫然とした。
このレイピアは、野に捨てられていた。あの少女が、捨てていったのだ。今はただ、この超自然的な能力を包含するレイピアを単なるごみのように投棄していった、あのアサシンの特異性を再度経験するばかりだった。
「これは、おい。これはどういうことだ?」
あの轟音か、騾馬の嘶きを聞きつけてか、鬱蒼とした暗闇から男が鉈を手にもって現れた。彼の足元には、彼の仲間が腹に穴をあけて横たわっている。男は足元の陰惨な光景を眺めまわしてから、鼻を啜った。
「どうしちまったんだ。ローンズ? え?」
何てひどい真似をしやがる。まるで子供が地面に穴を掘ったように無茶苦茶に削り取られた空洞を見て、彼は吐き気を覚えた。死に方として、こんなに惨い仕打ちを受ける程、ローンズは悪い奴じゃなかった。男は憤りを滾らせた。
「その男がいきなり自分の腹に穴を掘りだしたんだ。」
エリスがそう答えると男は眼の色を変えて、歯軋りをした。
「そいつは驚かせてしまったな」
目の前まで伸びていた冬木の枝の梢を折ると、男はそう言った。今にも彼は走り出しそうな勢いだった。ああ、まったくだとエリスが吐き捨てると、男はぶち殺してやると唾を吐いて、此方へ詰め寄って鉈を振り下ろした。
重たい金属音が静寂を突き破って男を捕らえた。鉈はエリスのレイピアの切っ先によって明後日の方向へと逸らされたのだ。擬似的な動作に過ぎないが、それはパリィだった。今エリスの胸にあるのは高揚だ。エリスは自分をあのアサシンに少しでも近づけようとしていたのだ。
剣で逸らした。次だ。次にアサシンは、どうした? エリスは記憶と現実を重ね合わせようとした。今彼女の胸の内にあるのは、あのアサシンへの憧憬のみだ。
男は態勢を崩したところで足を払われて、無様に転倒した。落ち葉にまみれつつ慌てて立とうとする男をエリスは蹴って足で押さえつけ、上から彼の無防備な腹部を切り裂いた。簡単だった。
瞬間短い断末魔が聞こえ、血飛沫が下から彼女を染め上げた。これはあの瞬間の繰り返しなのだ。鮮明に、あの時の感覚が甦ってくる。
あのアサシンの一挙手一投足までもが、遥か以前より体得していたものとして、自分の体に沁み渡っていくようだった。
血によって不明瞭になった視界の外で騾馬が白く染まった荒い吐息を吐き、男は呆気なく血に倒れ伏した。エリスは顔に跳ね返った男の血を舐め上げる。くそ不味かった。だがエリスは、アサシンと味覚を共有した喜びに満ちていた。あのアサシンは私にとっての幽鬼だった。ならば私は、レメネン教にとっての幽鬼となるのだ。
エリスは賊から金品を剥ぎ取ると、裏の虚から荷を引っ張り出してきて、騾馬の前まで足を進めた。結ばれた袖を解き、外套を取り去ると騾馬は力強く声を張り上げ、地面を蹴り上げた。
エリスは冬木に括られた手綱を断ち切り、外套を羽織った。そして騾馬に跨って、腹を蹴った。騾馬は走り出す。緩やかな全ての景色を追い抜いて、エリスは朽ちかけた林を脱した。林外に出れば、鮮やかな夜明けだった。暗澹とした空はすっかり取り除かれている。夜は最早、数時間毎に舞い戻ってきては彼女を脅かす存在ではなくなっていた。




