リヤネッタ
目の前が光で溢れた。眼を開けたのだと気付くまでに、ニアは数秒を必要とした。彼女は恐ろしく長い昏倒から目覚めた気分だった。ぼんやりとした意識のままに数秒を無駄にし、それからやっと頭が活性化してくる。起きてまず思ったのは体がだるいという事だ。
全身の筋肉や組織が委縮してしまったように感じる。愚鈍な脱力感と無力感だけがニアを包み込んでいた。
いつ意識を失ったのか、ここはどこなのか、自分はどれほどの間意識を失っていたのか、すべて、何もかもが滲んだように曖昧だった。ニアは横たわったまま周囲から情報を読み取ろうとした。
何故か片目しか開かない眼で見えたのは罅割れた天井で、ここが室内であるとそれで理解できた。寒さはない。あの灰の凍てつきは去ったのだ。
天井の木目、模様。ぐるりとニアを囲むもの全てに見覚えがあった。水が砂を侵食するように、段々と理解が及んでくる。ここが空想の最中などではなければ、間違いなく今いる場所は古城の一室だった。
炉格子の裏で弾ける薪や郷愁漂う独特の匂い。全てが懐かしい。自分は、帰還したのだろうか。古城へと。でもどうやって。夢遊病者のように無意識化の内にここまで歩いてきたとでもいうのか。
背中には柔らかい感触、ベッドだ。ニアは上体を起こし、いや起こそうとして不可能に気付いた。腕が自由に動かないのもそうだが、腹部が鉛のように重かったのだ。原因を確かめるべく目線をやれば、そこには懐かしい顔があった。頭の奥が沸騰するように熱くなる。彼女が、つまりレイシャがニアの上に覆い被さるようにして眠っていたのだ。
自分の肩にも届かないような体を無抵抗に投げ出し、ニアの背中へときつく腕を回してあった。そのせいで色々なところが圧迫されて痺れすら感じたが、ニアは気にもならなかった。
ニアは、これが夢ではないだろうかと疑念を持った。彼女の赤く腫れ上がった目元を撫で、柔らかな頬を抓んだ。彼女は子供ほどの小さな体を、ニアの上で扇情的に捩って身動ぎした。彼女は起きない。次第に実感が募っていく。自分は確実に、目的を達成したのである。
ニアは僅かに微笑んだが、それは傍から見れば頬を引き攣らせただけだった。ニアはまだ残酷な事態を察することが出来なかった。
女性的な曲線を描く背中を、ニアは優しく擦った。早く起こして自分の姿を見せたいような、このまま眠らせておきたいような、不思議な気持だった。レイシャがあそこから自分を見つけ出してくれたのだろうか。そして自分をこの城まで。意識が遠のく前見た気がした影をニアは思い出した。あれは、きっと彼女に違いなかった。
彼女の薄い唇を指でなぞったとき、漸く彼女は瞼を持ち上げた。美しい顔に嵌め込まれた、ヘーゼルの瞳が表れた。レイシャは温かく自分を包み込む主の姿を見て、感極まったように、わっと声を出して泣いた。無音だった。
レイシャは途端にニアに抱き縋り、二人の間に出来てしまった距離を埋めるように離れまいとした。ニアもそれに応える。レイシャは何度も夢想し、幻視すらした主人の姿を見て、大粒の涙を零し、嗚咽に喉元を詰まらせた。なにせ彼女は六日も眠っていたのだ。もう、起きないのではと不安に胸が潰れそうだった。
ニアに向けてレイシャが何か言葉を発する。だがニアの耳にその音が届くことはなかった。レイシャとニアの間には、障害という大きな隔たりが隔壁のように立ちはだかっていたのだ。
「ねえ、ニア」
反応を示さないニアをレイシャは不安そうに見上げる。ヘーゼルの球体に映った自分の姿を見て、ニアの口元が固まった。
震えが止まらなかった。これが200年の代償だというのか。ニアの片目は押し潰されたように塞がり、左耳は根元から断裂していた。手足に目をやれば包帯が幾重にも巻かれており、その隙間から見える皮膚は毒々しい紫に腫れ上がっている。自分は今どういう状態にあるのかが全くもって不明瞭だった。少なくとも、半身の感覚と聴覚は喪失している。
ふいに、ニアは不安で堪らなくなった。手足には肉を吊り下げている感覚しかない。自分を把握できていない恐怖が降って湧いてきた。精神を閉じ込めていた外殻が急に誰かのものと入れ替えられたような、そんな恐怖に打ちのめされる。
動悸、発汗、頻脈。ニアは暴れだして、現実を壊してしまいたかった。
だが暴れようにも体はついてこない。ニアの目は虚ろになっていった。
レイシャの眼に映るニアはとても、200年前見失った主人の姿とは似ても似つかないものだった。怯える彼女の片目は潰え、反応を見るに耳は聞こえないのかもしれない。あの灰の上で倒れているのを発見したその時から彼女は既にぼろぼろだったのだ。
だが、レイシャにとってはそれでも構わなかった。彼女が自分の眼の届く範囲から消え去らないのであれば、どこが損なわれようとも、脆弱になってしまってもそれは大した問題にはならない。
今レイシャの胸の内にあるのは、身を犠牲にしてまで自分との再開を求めてくれたニアへの敬愛の再認識と、私はニアから愛されているのだという驕った自負だけだった。レイシャの歪んだ愛と冷え固まった独占欲は、ニアへとひたすらに注がれていた。
レイシャはベッドの上に膝立ちになって、困惑するニアの頭をそっと抱き寄せた。自分の胸元に彼女の頭が埋もれる。彼女は体を不自由にし、抵抗すらできない。そんなことがレイシャを満足にさせた。
ニアが嗚咽を零し悲嘆に暮れている今ならば、無邪気を装って献身的に接し、彼女の周囲から干渉する一切を排除することによって、その心の最奥までをも掌握し、自分だけの物にできる気がした。
聾唖者に成り果てたニアはここを動けず、ベッドに縛り付ける必要もない。これからずっと彼女と古城に二人、閉塞的な環境の中で、時間など無関係に暮らすのだ。これこそが、200年間待ち焦がれたレイシャの望んだ世界なのだ。
明り取り窓から差し込むどぎつい光が、容赦なく二人を焦がした。軋んだベッドの下には、不要となった赤い紐が転がっていた。
一章終




