シャハート
跡地を発ってからどれほど経ったのか。頭が先ほどから断続的に鋭い痛みに襲われている。内側から痛みの原因に頭蓋をこじ開けられて、外に這い出て行ってしまうような。痛みの場所が絶えず移動するそんな気持ちの悪い痛み方なのだ。神経は滞り、吹き荒れる有害な砂塵は冷たく彼女を蝕んだ。
ニアは最早役に立たなくなった両足を懸命に動かした。足は泥濘を進むが如く灰へと容易に呑み込まれていく。女から譲り受けたかんじきは、奥へ進めば進むほど役に立たなくなった。私たちが跡地と呼んでいた場所など、所詮はこの死地帯の入り口でしかなかった。
ニアはふと、長らく無音だった世界へと音が発生したのを感じた。頭上だ。何か奇妙な声がする。怪鳥が喉を絞って発するような鳴き声だ。だが見上げても何もいない。幻聴だったのか。
地図を関節が白くなるまで握りしめて、ニアは息を吐いた。それはたちまち凍り付いて白くなって消えた。昼夜の概念を消し去ったこの銀世界は終わりを告げてはくれない。どこまでも同じ景色が続き、その地平線上の彼方には紫苑のようなオーロラが降りている。それを全く美しいとは思えないほどに、彼女の精神は擦り切れていた。
寒さはもう、脅威ではない。感じないからだ。あらゆる感覚器官が鈍麻している。今ニアのもっとも恐れるのは意思を失って道半ばで朽ちることであり、そうならない唯一の策は歩き続けることだった。だがそれも限界に近い。
頬は強張り、唾液は氷漬けになって下顎は動かず、眼球には涙が凍って出来た膜が張っている。それは古ぼけたレンズのように、外界を濁らせる。やがて凍結した耳殻は蔕がとれるようにもげて、喪失してしまった。
だがそれが現実かどうかもわからないのだ。認識は常に間違っているような気がした。呼吸は灰の嵐に遮られて、脳へあらゆるものが届かない。もう手や頭がどこにあるのかも確かではない。意識だけが、体を抜け出て行ってしまったようだ。そんな中で、自分はどうして今正しく歩んでいると確証を持って言えるというのか。
一瞬あのブリュネットの女の顔が脳裏に浮かんだが、噴き出した他のものと混ざり合ってすぐに判別がつかなくなった。
一歩、一歩と足を進める内、膝が突然に動かなくなった。泥濘に足を取られたのだ。ニアは体を灰の上へ投げ出した。彼女は終わりを感じた。逆に、今まで歩けていたのが不思議だった。ある筈のない力を振り絞って、手足を動かす。だが左手の親指が僅かに反応しただけで、両足は微動だにしなかった。
灰の上に転がったニアの頭部が、ただ虚空を覗いている。氷の膜を通して見えるのは、極限にまで侵入者を排斥しようとする銀世界のみである。そしてふと気付いたようにああ、とニアは声にならない声を発した。遠くに、僅かな輪郭が見える。ぼんやりと、白い世界に浮かび上がった影。あれは古城、古城に違いなかった。
もう、手の届く場所にあれはあった。見えなかっただけで。なのに、これは。ニアの眼がゆっくりと閉じていく。レイシャ。急速に黒に塗りつぶされていく視界のなかに、何時か見た影が映りこんだ気がした。
部屋は薄暗かった。それは彼が、明かりをアレルギーが如く嫌うせいだ。僅かに灯ったカンテラの灯は、天蓋の付いたベッドの脇にいる一人の男の為に用意されたものである。
その男は、湿り気を帯びたベッドを覗き込むようにして座っている。室内は全てにおいてを白で統一され、この領域内では汚れ一つ、例えばコーヒーの一滴すら許されないような潔癖さを感じさせる。完璧な清潔の保たれるこの部屋で唯一、ベッドの主がこの空間を穢していた。
ベッドに横たわる彼は、おぞましい外見を惜しげもなく晒していた。それは他に表現のしようがないといった醜悪さだった。醜い顔を下から見上げたようなグロテスクな頭部と、見る者を構わず不安にさせるようなその裸体は、昼夜の別なく絶えず自壊しては再生していく。
沸騰するように肉は泡立ち、膿んだ眼球は弾け飛んだ。ありとあらゆる不快感を催させるようなその相貌で、彼は男を見て莞爾として笑った。彼は今目覚めたばかりだったのだ。
「フェンティスか。愛しい子よ」
彼からの言葉に、男、フェンティスは感極まったように眼を瞑った。フェンティスはきっと、温かな言葉によって生じた涙を堪えているのに違いない。
「教皇選は、どうだね。順調かな?」
君のことだから、うまくやっているようだが。そう彼は言って、首をもたげたが、腐りかけた頸椎は言うことを聞かず、骨の折れる音がした。フェンティスは慌ててその補佐をしながら、万時順調であると答えた。
「それは良い」
彼は、この世の幸せを噛み締めたような笑みで頷く。現に、来る教皇選に向けての準備をフェンティスは誰にも文句が付けられないほどに完璧にやってのけていた。選挙活動はもちろんのこと、彼と同じ座を狙って高く金を積み上げようと画策する者の排除や、秘密裏に更迭された教皇の隔離。騎士団の統合。その他あらゆることに関して彼は抜け目がなかった。
「そうだレイニーフは。あれはどうなった」
思い出したとばかりに、彼は腐食した息を吹きかけて言った。
ブロイラーの腐ったような匂いが途端に充満した。男、イワン・フェンテス枢機卿は彼に耽溺していることが瞭然とするような声色で、レイニーフ神父の末路を厳かに伝えた。
レイニーフは、教皇庁が保有する暗殺団によってその命を落とした。
何があったとしても、例え信仰を失ったとしても、決して組織への忠誠を欠いてはならない。レイニーフ、彼はそれを分かっていなかった。あろうことかエリス・ズノンルルフの帰還を闇に葬ろうとし、逃亡の援助までもを犯した。神の眼前に居ながら全てをだまくらかすなど、不可能なのである。
大罪人レイニーフは死んだ。間違いなどなく、粛清されたのである。
教皇庁の闇はそれを聞いて喜んだらしく、卑しい顔つきに満足気な雰囲気を漂わせる。フェンティスは、それに惹きつけられたかのように、食い入って見つめた。例え彼が過去の大戦によってディアメトンにスポイルされたとしても、彼は未だ彼で在り続けている。
「結構。私の体も直に良くなる。もうすぐだ」
彼の腕が仄かに発光したかと思うと、砕け散った。
「今は体が危うい。だから最後の問いだフェンティス。あれはどうした。誤りがあってはならないからな」
彼は、鼠を轢き殺したような声を発した。喉が、崩れ始めているのだ。彼の肥大化した頭に浮かぶイメージは鮮烈だった。あれとは、シルバーブロンドを生やしたデーモンのことだ。あの大戦によって負った傷の殆どはある女からのものだった。そして感覚は、賊の子飼いがあの女に違いないと告げている。
きっと、恐らく奴は200年の歳月を経てこの世に帰還したに違いなかった。
彼を殺すために。再び舞い戻ってきたのだ。フェンティスは、万事上手くいっている旨を伝えた。それを聞くと、彼の腹が避けるように大きな穴が開き、そこから夥しい量の腸液が溢れ出した。喜んでいるのだ、彼は。
その様を見てフェンティスのその微睡んだような瞳に一瞬何かがよぎったが、当人を含め、誰も気づかなかった。
「何も案ずることなど在りません。我々こそが偉大な領袖となり、このシャハートが時代の中心となる日は近いでしょう」
イワン・フェンティスはその陶酔しきった顔を悪逆に歪め、腰を曲げて見事に一揖した。




