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ジルテレイ  作者: 小町
1.アンダーワーツの死
12/26

モノクロン

ユリ描写チュウイ

 誰でも始めはそんなものだと女は言った。それは安易な慰めなどではなく、経験から来る実感の伴った確かな言葉であった。外界で吹き荒れる風が、この廃屋をなぎ倒そうと音を立てている。

 ニアは力を失したように頷く。自分の瞬きによって、彼女は死んでしまうのではないかと不安になるほどに今の少女は希薄な影でしかなかった。それを見た女は、見かねてある提案をした。


「今回の調査では何ら異常は無かったわ。前回の調査より百メートルは侵食が進んでいるけど、それだけだった」

 ここまで来てあれだけれど、あなたも雇い主に同じ報告をすれば良い。女はそう話を完結させたが、ニアはゆっくりと首を振った。ここで引き返してしまえばこの道程の意味すらを失ってしまう。女はそれを、仕事に対する義務感や責任といったものに駆られての選択と捉えたが、そうではなかった。


 女は奇妙な旅装の闖入者を、感心(それは別の感情をも包摂していた)した風に眺めた。女の周囲の人間は始末の悪い連中ばかりであったために、このような汚れを知らぬ透き通った存在は知らなかった。冗談にも私は素晴らしい人間ですとは言えぬ経歴を有した自分と接触することで、少女の清廉さが損なわれてしまうようだった。


 普段の彼女なら、このような素性も知れぬ人間に対しては視線すらくれてやらぬのだが、今日ばかりは違った。

 どうしても先を行くと言うのならと、女はこの愛らしい後輩へここ灰の海の歩き方について指南してやることにした。調査員同士助け合わねばならないし、それに少女にはどこか放っておけない雰囲気があった。


「寒いでしょう?」

 女はニアに毛皮で防護された服をくれてやり、それからこの汚染された大地を征服することがどれだけ偉大な事なのかを語った。この毒に塗れた寒冷地を歩くことは、おぞましい民族とその神の住まうイデア諸島を歩くよりも、イデア人狩りを目的とした討伐隊と遭遇するよりも、遥かに危険を伴うからだ。


「第一に気を付けるべきは方角で」

 と女は棒で足元の灰へ線を引いた。この荒廃した地を歩くには、まず方角を見失わないこと。これが最も重要なことであると女は言った。

 ここにはルークルックの目印もなければ、当然親切な標識もない。頼れるのはこの大海に於いて針一本分の価値もない自分の感覚だけだ。女ほどになると、この何もないだだっ広い灰の上でも土地勘を発揮できるが、それは長年の積み重ねというものである。


 一部の例外、つまり私を除き誰であろうと、一度方向感覚を失ってしまえば、それはもう死を決定付けてしまうのである。女はブルネットを掻き上げて、灰にまみれた頭髪を梳いた。好いた男を目の前にしたように、彼女は自分の身嗜みが気になった。


 彼女に言わせれば、雪より温度の低い灰を、ただのブーツで踏んでしまうことは錘を背負って泳ぐようなものである。踏んだが最後、自重が重ければその分足は沼のように零下の灰へともっていかれるのだ。灰は柔らかく崩れやすいために蟻地獄のように永遠と足を取られかねないばかりか、地盤沈下や雪崩によってそのまま生き埋めにだってなりうる。

 それを防ぐ為にはやっぱりかんじきを忘れてはなら……。とそこまで聞いた辺りでニアは話を遮った。


 この少女に関して言うのならば、女の話は完全に手遅れであった。ニアはモビングブーツを脱いで、女に凍傷になった足を差し出した。右足は中指と親指が、左足は全ての指に渡って凍傷になって腫れ上がっていた。女は痛ましげな眼で、ニアの変色し始めている足を手で包みこんだ。この状態では、指の切断をも有りうるだろう。

 凍傷になった場合の処置としてはすぐにでも暖めた方が良いのだが、生憎女は毛布などは持っておらず、これが出来うる精一杯のことだったのだ。


 それからの女は、彼女の足を両手で暖めながら語りかけた。ニアの足に感覚や温度覚はなく、女の温もりは直接的には伝わってこない。だがニアは、年の離れた姉に全てを包まれるような、穏やかな心持ちでそれに聞きいった。

 女の静かかつ落ち着き払った低い声を聞くだけで、ニアは庇護される感覚に沈み込み、僅かに満たされていた。そして女の話中に、ニアの気を引いてやまないものが一点あった。


 それは、沈没した古城と、王の墓地には近付いてはならないというものだ。その古びた二つの建築物は奇妙なことに、強大な灰の嵐にも埋もれずに、まだ地に屹立しているのだという。

 ニアはその二つに聞き覚えがあった。城は言わずもがな、ニアの城であるあの古城に違いない。問題はもう一つの墓地で、それは地形が変動などを受けずに記憶の頃のまま正しければ、恐らくはディアメトンの墓である。

 ニアが害しかないこんな辺境にギルド拠点を建てたのは、他でもないディアメトンの墓があったからなのである。


 ここが灰となる原因。それは狂気のノウァ・ディアメトンと反旗を翻した異形の王との大戦の戦禍である。この北方の大戦が終戦するまでの間、両者は盛大に毒の灰を撒き散らし続けた。


 エン・オーター・オンラインで起こった大戦は、多人数参加型のクエストとなっており、プレイヤーはどちらかの眷属となって戦争に参加する。ニアは当然のごとく気狂いの異形へと傅き、彼の勇士となることを選んだ。結果、勝利を収めたのはノウァ・ディアメトンだった。

 だがディアメトンは大戦で大きく力を失って、墓に籠り死を待つ身となったのである。ニアの記憶の中の墓が、この女の言う墓地である可能性が極めて高かった。興奮して思わず膝を揺らした。ニアはあの孤独の王を信仰してやまなかった。あの王には肯定以外必要ない。


「その城はどこに?」

 ニアが地図を取り出して尋ねれば、女は快く地図に古城の地点を書き込んでくれた。ニアは無機質なNPCとの会話に慣れ切って、粗雑な話し方になっているが、女はそのようなこと気にも留めなかった。この女はどうやら良い人間のようだ。ニアはありがとうと囁いて、女の荒れた手へ自分の細い手を重ね合わせた。女は狼狽を隠そうと、僅かに顎を引いて眼を伏せた。明日、朝一番でここへ向かうこととしようとニアは密かに決断した。


「もう直冷えてくるけど。あなた食事は?」

 女は灯ったままの羞恥を悟られまいと、話の矛先を変えようとした。

「まだ、とっていない。これから」

 疲労の蓄積したニアのぽつぽつとした言葉に、女はそれならばと、暗がりにぽつんと置かれたバッグへ手を突っ込んだ。女はこの肉の付いていない少女へと、食料を分けてやらねばといった気持ちが湧いて来たのだ。


 だが女は既に死地へ赴き、そして帰る最中である。凍死せぬようにと、行きに殆どの物は胃に収めてしまっていた。

 高栄養価の物を胃に詰め込まねば、直にここでは歩けなくなるからだ。空腹が気力を蝕み、脳髄が凍結していく。食うことは即ち生きることであり、当然のことながら食料バッグには碌なものが残されていなかった。


 女は悩んだ末、元が何であるか不明なほどに乾燥した肉を取りだし、ニアに分け与えた。それは薫製した鮭のような、赤黒い肉片だった。犬の死骸を焼いてスモークしたかのように、それは僅かに獣臭かった。ニアはそれを感謝と共に、半ばまで口に入れてじわりと食んだ。

 無味、というよりはごみのような味がした。繊維が絡まって出来たワイヤーのように肉は固く、一瞬間違えて塩漬けの板切れを食べてしまったのかと思ったほどだ。とても食えたものではなかったが、寒さに縮み上がっている胃にいきなり物を入れるよりはこれを噛み続けている方が幾分ましかもしれない。凍った胃にいきなり熱い紅茶をいれれば、それは拷問と相違ない。


 ニアはこれは如何なる肉かと尋ねた。女は肉片を噛み千切りながら、蟇であると返答した。ニアは特に何か感じ入ることもなく頷いて、肉の表面を舌で舐めて湿らせてみた。だが異物感も嘔吐感もない。

 この寒冷と疲労の極致に至っては、あらゆる事が麻痺している。蛙の肉だろうが蛞蝓だろうが豚だろうが、最早それらは些事な事にすぎない。今を生きるのにニアは精一杯で、他の事を考える余裕がなかった。


「もしかしてだけど、火はあるか?」

 女は底が真っ黒になった鍋を取り出して言う。ニアは何に使うのか分からぬままに頷き、スクロールで雁字搦めになった腕を差し出した。女は困惑の表情と共にその手を取った。ニアもなんとなく握り返したが、決してそうではない。


 首を振って説明すれば、女は手を名残惜しそうに解いて、廃屋内の木切れを拾い集めてきた。ニアは腕に巻いたスクロールの一枚に意識を向ける。巻かれた内の一枚に描かれた陣が消えてゆき、スクロールの端から燃えて屑になった。

 その燃えかすは空を流動して、ゆらりとニアの手のひらに渦を巻いて収斂していく。それらを食らうようにして、燃えかすは原初の火となってニアの手上に突然発現した。

 それは、一瞬にしてどんな照明器具よりも鮮烈に廃屋の内部を照らした。まるで目の前の彼女がオレンジ色の小宇宙を誕生させてしまったかのように女は驚き、固唾を飲んで炎を見守った。頬が熱されて心地よい。


 風通しの悪い廃屋にたまっていた、視認できてしまうような濃密な冷気は途端に焼かれていく。それはまるで、内に秘めていた(あるいは孕んでいた)熱をニアが放出したようであった。

 炎に下から照らされて僅かに赤らんだニアの顏は一種幻想的で、女はそれに魅了されたように視線を外せなかった。


 揺れ動く炎によって投影された二人の影が、決して重なることなく地面を踊った。女は、誰も見た事の無い、存在すら不確かなもの(例えば教皇庁の暗殺団だとか、最近噂のソルジャーだとか)を、直接この目で見てしまったような気分だった。ニアは木切れに火を移し、どうぞと言いたげに女を見やった。


 女は思考すら忘れて、驚愕を露にした。遥か過去スクロールは一般的だったとされるが、もうその技術はとうに失われて久しい。今日流通しているスクロールは、明らかに本物を模しただけの紙切れであって、ここまで高性能ではなかったのだ。

 過去存在したものが今あるとは限らない。その例の一つがスクロールなのである。


 明らかに、これは旧時代の遺物である。恐らく、自分はそれを目撃したのだ。だが詮索は身を滅ぼすと女は知っていた。例え相手がどんな好人物であろうとも、踏み込みすぎて、気付けば足元が無くなっていた何てことはよく聞く話であるから、女はそこの所をよく弁えていた。

 この世界で途方もない価値を持つ本物の魔法が込められたスクロールを、ニアはただの火種程度にしか認識していなかった。


 鍋で女は湯を沸かした。それを防水製の袋にいれて、足の患部に当てたが果たしてこれが正確な治療なのかは不明だった。それでも、少女の緩んだ頬を見て女は自分の行いの正しさを知った。

 女はバッグからブリキの缶を取り出して、箆と共にニアへ渡した。ニアはブリキの底に詰まった半ば饐えかけた豆を箆で掬って舌へ擦り付けた。鉄臭い匂いがしたが、久しぶりのマトモな食事にニアは満たされた心地で礼を言った。


 それから二人は他愛の無い事を話して、お互いに敵意がないことを再び確認し合おうとした。それは今から眠りにつかねばならないからである。無防備を晒すのは、たとえ今まで親切にされたからといって、拒否感を拭えるものではない。 お互いが寄り添い、顔を近づけて話して、自分に情を移らせようとした。危害を与える事に、多少なりとも抵抗を覚えるようにだ。


 そうする内、夜も遅くなってきた。遠くで、何かの遠吠えがした。ニアは禁断症状に負けて、スキールを一瓶開けてから、眠りに付くこととした。ニアは女と回し飲みし、底の浅い親睦を深めようとした。口に清涼感ある液体を流し込めば、すぐにでも酩酊感はやってくる。

 頭蓋を食い破られて、そこに直接快楽を流し込まれるような感覚だ。スキールには、脳の働きを止めるような強い力があるのかもしれない。


 ニアは、飴細工のように曲がった支柱へと凭れ掛かって、ゆっくりと沈むようにして眠りに付いた。埃臭く、陰気な廃屋であったが、隣で人間が寝ているという事実は、心を落ち着かせる何かがあった。

 女は少女の眠りを見届けてから、一つ決意したかのように咳払いをした。そして、可愛らしい寝息をたてるニアの方へと少しばかりにじり寄った。こんな腐ったような灰の真っただ中にいても、彼女からは僅かに優しいスイセンの香りがした。やがて女も、淡い香りに包まれながらじきに船を漕ぎ始めた。


 夢を見ていた。ぼんやりとした明かりに部屋が浮かぶ。この一部屋を照らすものは、頭上にあるオレンジの燐光でしかない。部屋にはタンスやダブルベッド。ドレッサーには、粉末状の薬とガラス瓶。見たこともない突起物のある楽器。

 夢の中で、女は少女とベッドを共にしていた。昨夜はお互い名を名乗り合わなかった。だが女は、この少女の名がニアだと夢の中では不思議と分かっていた。少女は毛布にくるまって眠っており、それを女は抱き寄せた。彼女を所有物が如く扱っても、彼女は嫌がったりしないと女は知っていた。

 腕を腰に回して優しく抱けば、途端に甘いスイセンが漂い始める。それは心を落ち着かせる匂いだ。しかしそれと同時に女の情欲を掻き立てるものでもあった。ニアに起きる様子はない。だが女は、起きていても彼女は抵抗しないと知っていた。女は夢中でニアに。


 女は鈍痛と共に跳ね起きた。モノクロの朝が見える。そしてすえた匂いが鼻を突き刺した。地面に転がる木切れが、腰の下辺りを圧迫している。痛みはそれだ。女は夢の続きをと、ニアの姿を探したが何故か見当たらなかった。

 もうあのスイセンの香りは廃屋から霧散している。そこは自分以外、無人だった。昨夜の闖入者は廃屋から姿を消していたのだ。夢のなかでは呼べた筈の名も思い出せない。


 ただ一晩共に過ごしただけの間柄であるというのに、女の心中は寂寞していた。突如、幻想を打ち砕かれた気分だった。女は項垂れて、彼女の残した痕跡を探した。昨日の出会いまでもが嘘だったとは思いたくはない。ぼんやりと光を残したままの鉱石が、やけに侘しかった。







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