8 暖炉の部屋
笑いの発作が治まってようやく、ヤタはリーダーの少年にこの場を訪ねた理由を告げた。
店の中の物を見せて欲しいと頼むと、快くというほどではないが、あっさりと了承した。
「鍵を『返す』ってことはこの店、今はあんたのものだってことなんだろ? 好きにしたらいい」
「しっかし、やんちゃそうな子供ばっかって割には整然としてますね」
ジロが周囲を見回して感心したように言った。子供ばかりが集まっていると好き勝手に散らかしそうなものだが、店内に設置された本棚の中には何冊ものファイルが抜け落ちることなくぴたりと収まっていた。
「奥の部屋は寝床を作るのに色々動かしたけど、この部屋の物はほとんど触ってない。棚の中の物はおれ達が見てもよく解らない物だったしな。ただ、そこら中に貼り付けてあった紙は邪魔だったから剥がしてそこにまとめてある」
机の隅に人名らしき文字が書かれた付箋紙の束が置いてあった。これは名前屋の所謂『お品書き』である。ほとんど文字を読むことの出来ない孤児達にとってはただただ邪魔にしかならない物だろうが、店の物を勝手に処分しないという条件を律儀に守っているようだ。
「荒らしたりはしない。この店は、おれ達の死んだ家族の恩人の店だったんだ。そういう礼儀は、おれ達にだってある」
仲間の死を悼んでいるのか、少年は軽く目を伏せた。
「……そっか。じゃ、俺もなるべく散らかさないように気を付けるよ」
そう言って、ヤタは手近な棚から適当にファイルを抜き取った。
「おお、個人情報だ」
開いたファイルを後ろから覗き込み、目を輝かせるジロ。
「これは名前を買いに来たお客さんに見せるサンプルだから大したことは書かれてないよ」
「ホントだ。ちょっと調べりゃ判りそうなことしか書かれてないっすね。この中から、どういう資料を探せばいいんですか?」
「俺がピンとくるもの」
「それってオレには手伝えなくないですか……?」
探すものが決まった上で索引を見るのではなく、索引を見てさて何を調べようかと考えるようなものである。ピンとくるかどうかはヤタの匙加減次第だ、ジロには判定できない。
「だからついて来なくてもよかったんだって」
「つーか、関係ないとか言ってた割になんでサンプルだって知ってるんですか? やっぱ名前屋さんと関係あるんじゃないすか?」
「もう死んでるヤツに関係も何もないだろ」
「じゃあさっき言ってた鍵を持ってた男ってのは? その人も死んでるんですか?」
「さあ? 生きてるんだか死んでるんだか」
その回答に、ジロは不満そうな顔をした。
「なーんかあにさん、オレに隠し事してません?」
「隠してることは山ほどあるさ。キミにヘタに情報を与えると売られそうだからね」
「そりゃあ、まぁ……買う人がいりゃ売りますけども」
否定はしないらしい。ヤタもそれが彼の仕事だと判り切っているのか、責めるようなことはしなかった。
「でも、さっきのあにさんちょっとおかしかったですよ。その鍵の男のこと捜してるんですか? なんだったら、俺が調べてみましょうか? もちろん依頼料は貰いますけど」
「いーよ。お金払ってまであんな怖い男に会いたくはないし、死んでたらもう関係はない。生きてたら生きてたで、そのうち自然に会うこともあるだろうさ。それより今は、あの子の手掛かりを掴まないと」
ファイルをぱらぱらと捲って軽く目を通し終えると、棚に戻して隣のファイルを手に取った。
「なんかオレ、手伝えることなさそうなんで仕事行ってきていいですか?」
「あーうん。どうぞー」
ファイルから目を離さずに返事をした。
「お嬢のこと任せて大丈夫ですか?」
「大人しいし、勝手にどっか行ったりはしないでしょ。俺が目を離しても、子供達が見てるみたいだから大丈夫だよ」
どこを見つめているのか定かではない杖を持った少女を、孤児達は遠巻きに眺めている。ヤタとジロを含め、来客に興味はあるがまだ警戒しているという様子だ。
「そうですか。じゃあお嬢、退屈でしょうけどお留守番していてくださいねー」
コツン、と杖を突いて、少女はジロを送り出した。
「探してるものは見付かったか?」
しばらくファイルを引き抜いてはページを捲り、棚に戻してまた次のファイルを引き抜くという作業の繰り返しをしていると少年が声を掛けてきた。
「んー……やっぱ記憶に関わる物は、お客に見せるような物の中にはないのかもなぁ。名前見るのも神経使うし、なんかもう疲れた」
「? ……何を調べてるのかよく解らないけど、他の物も調べる気なら奥にもノートが何冊かあったぞ」
「それ、見せてもらっていい?」
「持ってくる」
少年が戻って来るのを待つ間、ヤタは伸びをして身体をほぐした。首をぐるぐると回していて、すぐ傍にあったはずの少女の姿がないことに気付く。
「わあ、じょうずじょうず!」
視線を下げると、少女は数名の女の子達と一緒に床に座り込んでいた。ルールはよく解らないが、小石を弾いて遊んでいる。
言葉を発することのない少女の相手をするのには梃子摺りそうなものだが、子供達は上手くコミュニケーションを取っているようだ。
子供は凄いな、と感心していると、すぐに少年がノートを手に戻ってきた。
「ありがと」
例を言って、受け取ったノートを捲る。
「日記か……?」
日々の出来事を書き綴った日記というほど上等なものではなく、ただの覚え書きのようだ。
ページを捲り続けていると、とある一文に目が留まった。
『この名を忘れてはならない』
その下に、いくつかの名前が羅列していた。
「名前……」
ヤタは、羅列した名前の一つを指でなぞった。
「う、ぐ……っ!」
瞬間、ヤタは口元を押さえ身体を折り曲げた。
「おい、大丈夫か?」
少年が驚いた様子で身体を縮めたヤタの背に手を置く。
「だ……大丈夫。治まった……」
「吐くなら外で吐けよ。掃除が大変だから」
「あ、そういう心配……?」
水が出ないと言っていたので洗い流すのが大変だというのは解るが、心情的にはもう少し素直な心配が欲しかった。
気を取り直して、記載された名前に再び目を落とす。
(この名前は……わざわざ調べたのか? アイツが……)
先程よりも慎重に文字を撫で、考える。
(もしかして、アイツが名前屋になったのはこのため……?)
文字を睨むように考えていると、ふと右横に気配を感じた。
「うっわ、びっくりした!」
先程まで床で遊んでいたはずの少女が、知らぬ間にすぐ傍で佇んでいた。一緒に遊んでいた女の子達はヤタの反応を見てくすくすと笑っている。
「あれ、鈴は……?」
ヤタが呟くと、少女は手に持った杖を揺らした。ストラップに付けられた鈴がちりん、と軽やかに鳴った。
(集中していて気付かなかっただけか? それとも……)
ヤタは光のない少女の瞳を見つめる。
少女は、悪戯が成功して満足したように笑みを浮かべた。
*
ぱちん、と薪の爆ぜる音にアコヤは目を覚ました。
顔を上げると、赤々と燃える炎を囲った暖炉が目に入った。暖かい、と言うよりは少し暑い。
椅子に座った姿勢で眠っていた所為か、身体が痛む。ひとまず立ち上がろうとした。
「きゃっ!?」
立ち上がろうとしたと同時に、椅子もろとも身体が横倒しになった。両手足を縛られ、椅子に固定されていた。
打ち付けた衝撃でぼんやりとしていた意識が覚醒し、自分が現在置かれた状況の異常性に気付く。
見知らぬ場所で、何者かの手によって拘束されている。
なんとか拘束を解けないだろうかともがいていると、部屋のドアが開く気配がした。
「ああ、目を覚ましたのですね」
穏やかな男の声。ドアの方を見ようとするが、首を回しても横倒しの姿勢からでは姿を捕らえられない。
気配が近付いてきた、と思えば椅子ごと身体を起こされた。
声の印象と同じ、穏やかな顔をした司祭服の男が顔を覗き込んできた。アコヤはそれに、睨むような視線を送る。
「あなた誰?」
「ファラリスと申します」
あっさりと名乗られ、拍子抜けした。本名かどうかは定かではないが、顔を隠していない辺り、正体を隠そうとはしていないように思えた。
「貴女のお名前は?」
「言いたくない」
相手が名乗ったからといって、こちらも正直に名乗ってやる義理はない。ファラリスも大して気にした様子は見せなかった。
「ねぇ、わたしをここに連れて来たのってヤタ? ヤタはどこ?」
「ヤタさんとお知り合いなのですか?」
「質問してるのわたしなんだけど」
「ああ、それは失礼を」
尋問をするつもりなのかと警戒していたが、それにしては妙に押しが弱い。縛られて身動きの取れないアコヤの方が尋問をしている気分になってきた。
「ヤタさんは所用で留守にしております。ですので、代わりに私が貴女からお話を聴くようにと承っています」
「何が訊きたいの?」
「そうですね、まずは貴女のお名前……これは、まだお答え頂けないのですよね? ええと、貴女があのお嬢さんを連れて行こうとしていた理由。誰かに頼まれたのであれば、それが誰かということ。それから―――」
「全部ノーコメント」
事前に尋ねるよう頼まれていた内容を指折り確認していると、アコヤに遮られた。全て拒否と宣言され、流石のファラリスもこれには少し困った顔になった。
「時間はたくさんありますし、ゆっくりお話しましょうか」
「いくら待ったって何も答えないわよ。ねぇ、それよりもこれ解いてよ。解いてくれたら、いい思いさせてあげるわよ? 聖職者って、女抱く機会なくて溜まってるんじゃないの?」
何の捻りもない色仕掛け。このような使い古された手に引っ掛かるとは思わなかったが、もしかしてという可能性もある。相手が潔癖を気取った聖職者なら不愉快な顔をさせるのが精々かと考えたが、ファラリスはそのどちらでもない反応を返した。
「貴女のことはとても魅力的だと思うのですが……申し訳ありません、どうにも反応の鈍い身体でして」
先程よりも更に困った顔になって苦笑するファラリス。アコヤは舌打ちをして、小声でファラリスを口汚く罵った。
「……しかし感心致しませんね。見ず知らずの男に身体を許そうとするなど、貴女は自らを蔑ろにしているように思えます」
「は?」
相手を不愉快な顔にさせるより先に、アコヤ自身が不愉快そうな顔になってしまった。
「何、説教したいの? 淫売だって罵りたいの? 身体売るくらいなんだって言うのよ。こっちはあなたみたいに綺麗に生きてないの。使える手はなんだって使うわよ」
苛々とした対応だが、ファラリスは少し嬉しそうに微笑んだ。
「やっと自分の話をして下さいましたね」
ファラリスは時間を掛けて話をするという気に変わりはないらしく、会話を中断して暖炉に薪をくべた。身を屈め、火掻き棒で薪の位置を調整する。
計算か天然かは定かでないが、上手く乗せられてしまった気がする。アコヤはこれ以上余計なことを言わぬように口を閉ざし、逃げ出す算段を立て始めた。
「貴女は、人が幸せになるにはどうすれば良いと思いますか?」
ファラリスはアコヤに向き直り、唐突とも思える質問を投げ掛けた。
アコヤは口を開かず、一瞬だけファラリスの顔を見上げてすぐに目を逸らした。
「人間というものは欲深い生き物です。一つの物を手に入れれば、また次の物が欲しくなる。幸福に上限などない。しかしその一方で、ほんの些細なことでも幸せを感じることが出来る人もいます」
口は閉ざしても、耳までは閉ざされてはいない。ファラリスは続けて語り掛ける。
「小さなことでも幸せを感じられるとすれば、それはとても素敵なことだとは思いませんか? それこそ、生きているだけでも幸福に感じられる……では、そのように感じる為にはどうすれば良いのでしょう?」
暖炉の火の具合が気になるのか、再び背を向けて身を屈めた。先端を火に差し込んだままであった火掻き棒を動かす。
「実はそれはとても簡単なことだと私は思うのです。幸せを感じたいのであればまず己の最低を知れば良い。最低を知っていればそれ以上の不幸はないと知り、全てが幸福に感じられる……貴女がそう感じることが出来るよう、どうか私にお手伝いをさせて下さい」
ファラリスは跪き、片手でアコヤの靴を脱がせた。
口を閉ざし続けるつもりであったアコヤは、思わず声を荒げる。
「何するのよ?!」
「貴女のような方にはまず、自らの命の尊さを知って頂きたい。そしてもっと自分を大切にして欲しいのです。外には洩れない造りになっていますので、いくら声を上げても構いません。ですが、間違っても―――」
アコヤは何も言わない。自らの意思で口を閉ざしたのではない。呼吸が乱れ、歯の根が合わず、舌が回らなかった。
ぱちん、と薪が爆ぜる。部屋の中は充分に暖かいはずなのに、靴を脱がされた足元と背もたれに張り付いた背中だけが異様に冷たい。
ファラリスは何も心配はいらない、と言うように優しく微笑んだ。
その手には先程まで火の中に差し込まれていた火掻き棒が握られている。
「決して、自ら命を絶とうなどとは思ってはいけませんよ?」
優しく諭すようにそう言って、アコヤの足の指の間に棒の先端を滑り込ませた。