6 攻防
(何って言われても……何なんだろうなぁ)
盲目の少女を連れた女に正体を尋ねられ、ヤタは返答に困った。
元々名乗り文句に使えるような立派な肩書きを持ってもいない上、現在無職。少女との繋がりは迷子を保護したというただそれだけの関係である。異変を感じて追い掛けてはみたものの、それからどうすべきか全く考えてはいなかった。
「ええと……善良な一般市民……かな?」
正義の味方を名乗れるほどの善良ではない。相手が上手く切り返して逃げてくれればそれ以上追わないでおこうと日和見な考えをしたが、予想以上に鋭い視線を送られてしまった。
死体処理業という前職の付き合いで物騒な輩とも交流のあったヤタは、これは人を殺せるヤツの眼だな、と経験的に悟る。
相手に気取られないよう、袖口に仕込んでいた刃を手の中に収める。相手は女とはいえ、本気で襲い掛かられれば今のヤタでは身を守りきれない。距離を詰められそうになった時は刃を投げ付けるつもりだ。投擲には自信がないが、命中せずとも牽制にはなるだろう。
(いざとなったら悲鳴上げて逃げよう)
駅を出てすぐにそそくさと建物の陰に逃げ込んだということは、人目に付くのを避けたかったということだろう。深追いはしてこないはずだ。
自らの身の安全が最優先、あわよくば少女を奪還。会話を引き伸ばして隙を探そうと考えた矢先、既に女との距離は目と鼻ほどの距離にまで狭まっていた。
「え、ちょっと待っ―――!」
音もなく踏み込み、一気に距離を詰めてきた女の手にはハンティングナイフが握られていた。
間合いに入り込まれ、投擲は間に合わない。ヤタは咄嗟に、手にしていた杖で突き出されたナイフを弾いた。
弾かれた衝撃がナイフの刃から柄を握った指へと伝わる。だがナックルガードをしっかりと握り込んだそれが、女の手から離れるようなことはなかった。想定内と言わんばかりに、すぐさま二撃目を繰り出す。
ヤタは杖で女の手首を受け止めた。突き出されたナイフに体重を乗せられ、重みに膝が折れる。
「い、一般市民に対して問答無用過ぎない……?」
「邪魔者は消してもいいって言われてるわ。それに、面倒臭い駆け引きは嫌いなの」
躊躇がない辺り人殺しには慣れているようであるが、直情的なのは如何なものかと思う。しかし今はそんなことを教授している場合ではない。踏ん張った脚に痛みが走り、冷や汗が流れる。
「ハンデのある人間には、優しくしましょうって親に、習わなかった?」
「弱い部分は積極的に狙うべきだとは習ったわ」
ナイフの柄にもう片方の手も添えて、更に体重を掛ける。
ヤタは手の中に隠し持った刃を振るう機会を伺っていたが、反撃に出られるような状況ではない。このままでは押し切られてしまうと感じ、刃を握ったままの手で杖を支え防御に徹した。
女は杖を支える男の手に黒い刃が握られていることに気が付き、直後に驚愕した表情を見せた。
「それは……標? まさか、だってそれはヤタの―――」
動揺が表れたかと思った瞬間、女の身体が弓なりに跳ねた。短い悲鳴を上げたと同時に意識を失い、そのまま地面に崩れ落ちた。
「あにさん、無事ですか!?」
崩れ落ちた女のその後ろに、血相を変えたジロが佇んでいた。手にはスタンガンが握られている。
「ジロ……」
安堵感から身体の力がどっと抜け、ヤタは地面にへたり込んだ。
「いや、びっくりしたっす。追い掛けて来てみたらさっきの女に襲われてるんですもん。護身用に持ってて良かったですよ」
そう言ってジロはスタンガンをズボンの腰に押し込むと、ヤタを立ち上がらせるべく手を貸した。
「今回ばかりは、本当にキミに感謝するよ……ところで、気絶する直前にこの人、俺の名前を言わなかった?」
「え? さぁ……気付かれないように近付くのに神経使ってたんで、何話してるかまでは聴いてなかったです。知り合いなんですか?」
ジロは怪訝な顔をして、足元に倒れ伏した女の姿を見下ろした。
「いや、俺は知らない。けど、相手は俺を知っていたのかも……」
女はヤタの持つ黒い刃を見て『標』という名称を口にした。それは見ただけで名前が思い浮かぶほど世の中に出回っている物ではない。
標の存在を知っていた女。そしてその女が連れて行こうとしていた盲目の少女。
少女との出会いは全くの偶然で、ヤタ自身には何の関係性もないはずであったが―――
「関係……あるのか……?」
ヤタは自らの手の平に視線を落とすが、握られていたはずの黒い標が見当たらなかった。先程腰を抜かした拍子に、自分でも気付かない内に取り落としてしまったらしい。
標を捜して辺りを見回し、その行方に気付いたヤタは慌てふためいた。
「うわっ! ジロ、その子! 刃物!」
「へ? ……って、うわうわうわ! お嬢、それダメ! 危ないっす!」
ヤタの叫びで事態に気が付いたジロは、似たり寄ったりな反応をして少女に駆け寄った。
いつの間に拾い上げたのか、少女は黒い刃を撫で回していた。無理に奪い取るのは危険なので、ジロはひとまず少女の手をそっと包み込み、それから慎重に刃を取り上げた。
「あぁー……やっぱりちょっと切っちゃってますねー。大丈夫っすか、お嬢。痛くないですか?」
ジロは流れ出た血を指で拭き取り、少女の傷の具合を検めた。
「あにさん、ハンカチとか持ってないですか?」
ジロは少女の手を離して振り返ったが、すぐにまた少女の方に視線を戻した。どのような心境か、今度は少女の方がジロの手を握っていた。
手を繋いだまま、再びヤタの方へ振り返る。
「あにさん、どうしよう! お嬢が初めてオレと手を繋いでくれました!」
「嬉しそうに言うなよ……とりあえず、今日はもう帰ろう。この子の手当てをしてやらないと」
「そうっすね。けど、この人はどうしましょう?」
倒れた女を見る。正直これ以上関わり合いにはなりたくない危険人物だが、少女の身元を探る重要な手掛かりだ。
「ファラリスさんには迷惑掛けることになるけど、連れて帰ろう。どうやらこの子はただの迷子じゃない。少し、詳しい事情を訊き出したい」
「ですね。こうなったらオレも、とことんまで調べてみないと気が済まないっすよ」
情報屋の性か、ジロはヤタの意見に賛同した。
「よし。じゃあジロ、よろしく」
ヤタはそう言うと、ジロの手を握った少女の手を引き剥がして手を繋いだ。
「え、もしかしてオレがこの人担いで行くんですか?」
「当然だろ。見ての通り、俺は両手が塞がっている」
少女と手を繋いだ逆の手で杖を突き、ついでに脚も悪い、と付け足した。
「……やっぱ、置いて行きません?」
「堂々と女の子に触れるんだから喜びなよ」
「物騒な女の子は嫌っすよ……」
ジロはげんなりとした顔をして、ナイフを握り締めたままの女の指を恐る恐る外した。
ファラリスが聖堂で遊び回る子供達を残し、通路を通って一人孤児院に戻ると、無人のはずの建物から人の気配がした。
不審に思い玄関の方へ向かってみると、午前中に出掛けたばかりの客人が戻ってきていた。
「随分と早いお帰りですね。あの……そちらの方はどうなさいました?」
迷子の少女の手掛かりを掴めたのか尋ねようとしたが、それよりも先にジロに背負われた見知らぬ女性が気に掛かった。どうやら意識を失っているらしい。
「すんません神父さん、詳しい事は後で。ちょっとヤバイお客さんなんで、暖炉の部屋借りますね」
背負った女がいつ目を覚ますか心配で気が気でないジロは、早口にそう言うと部屋へと駆け込んだ。暖炉の部屋と呼ばれている場所はファラリスのプライベートスペースであり、孤児院で暮らす子供達は無断でそこに足を踏み入れるようなことはしない。詳しくは解らないが、子供達には知られたくない事情があるのだということは察した。
「あの、絆創膏か何かありません? この子、手を切ってしまって」
「怪我をしたのですか? それはいけない」
ヤタに言われて、ファラリスは少女の怪我の具合を見た。傷は深くなさそうだが、傷口を押さえるものがなかったのか、少女の手の平は流れ出た血で真っ赤に染まっていた。手を繋いでいたヤタの手にも乾いた血がこびり付いている。
「救急箱がありますので、こちらへ……その前に、お二人とも手を洗って」
二人に洗面所へ行くよう促し、ファラリスは暖炉の部屋に入った。入れ違いに、身軽になったジロが部屋を出て行こうとする。
「神父さん、縄とかないっすかね? それか、長い紐みたいな物」
「物置にあったと思いますが……」
「ちょっと借りますねー」
そう言って物置へ走って行った。帰って来るなり慌しい。
床に転がされた女性を横目に救急箱を用意していると、ヤタが少女の手を引いて部屋に入ってきた。
「ファラリスさん、この子の手当て任せていいですか? ちょっと俺、出掛ける用意をしたいんで」
「はい、それは構いませんが……今度はどちらへ?」
「少し遠出します。二日くらいで戻って来れると思うんですけど」
「えっ、どこ行く気ですかあにさん? 聞いてないですよ!」
麻縄を手に戻ってきたジロが驚いた様子で顔を覗かせた。
「確認したいことができたんだ。どーもそこの女の人と昔の俺は無関係じゃない気がしてきてね」
「昔の? それってもしかして、ころ――……おっと」
ジロは何か言い掛けたが、ヤタの過去を知らないファラリスの視線があることに気付いて口を噤んだ。
「すぐに出発したいから、その人の尋問任せていいか? それから、この子の面倒も―――」
〈ヤタ〉
杖を叩かれて、それからコートの裾を掴まれた。無言の抗議。
「離れたくないようですよ?」
ファラリスにそう言われ、ヤタは困ったように頭を掻いた。
「ジロさんもお忙しいことでしょう。よろしければ、こちらの方の事は私がお引き受け致しますが?」
「え? いや、でも……」
「この方からお話を聴けばよろしいのですよね?」
世間話でも聴くかのように簡単に言ったが、ヤタの予想通りの人物であるとすれば一筋縄ではいかない相手だ。それに相手はいきなりナイフを振り回してくるような危険人物だ、ファラリスを危険に巻き込むのは気が引けた。
「任せちまいましょうよ。オレは元々手伝ってもらうつもりでいましたし、神父さんはオレよりよっぽど聴き上手ですよ」
尋問上手を聴き上手とは言わないと思うが、普段からファラリスに仕事を手伝って貰っているというジロが言うのだから間違いはないのだろう。
「だけど、危険だ」
「お気遣いは感謝致しますが、同じ屋根の下にいる以上、私とて無関係ではないのですよ。この子の為に出来る事があるのなら、私にもお手伝いをさせて下さい」
ファラリスは少女の頭を撫で、優しく微笑んだ。
ヤタは少し考えて、口の中で目の前の神父の名前を呟く。少しだけ眉を顰めて、頷いた。
「……判りました。よろしくお願いします」
「はい、お任せ下さい」
快い返事に益々難しい顔になったが、ヤタは軽く首を振って気分を切り替えた。
ジロは麻縄を使って床に転がった女の手足を厳重に縛り付けている。
「で、あにさんはどこに行くつもりなんですか?」
「うん……」
ヤタの目的地は一年前まで住んでいた街。肉屋――死体処理を生業としていた頃に拠点としていた土地。
その場所にある、小さな店。
「名前屋、だよ」