1 杖と杖
『脚の数が朝は四本、昼は二本、夜は三本。この生き物は何?』
子供の頃、そんななぞなぞ遊びをしていたことを思い出した。
なぞなぞの答えは『人間』。産まれたばかりの頃は四つん這いのはいはい歩きで四本脚、成長すると直立歩行になり二本脚、晩年は杖を突くようになるので一本増えて三本脚。朝・昼・夜というのは人間の一生を一日に例えているという訳だ。
(老人なら必ず杖を突く……とは限らないと思うけどね)
赤毛の青年は、窓枠に掛けられた一本の杖を見た。彼の対面の座席にはうつらうつらと舟を漕ぐ老人が座っている。
次の停車駅を告げるアナウンスが聴こえ、青年は立ち上がり横の座席に置いていたダッフルバッグを抱え上げた。人の動く気配を感じたのか、老人は一度がくん、と激しく首を揺らして目を覚ました。
「……ん、ああ……お若いの、ここで降りるのかね?」
「うん。おじいさんはこの次の駅で降りるんでしょ?」
「おお、そうじゃった。ええと、切符はどこへやったかね……?」
列車の乗り降りに必要な切符をどこへ仕舞い込んだのか忘れてしまったらしく、老人は衣服のポケットをあちこち探った。その様子を見かねて、青年は再び声を掛ける。
「おじいさん、名前はなんて言うの?」
青年と老人の関係は、たまたま同じ汽車の対面の席に乗り合わせたというだけに過ぎない。長旅の退屈しのぎに会話を交わしもしたが、互いに名を尋ねたりはしなかった。別れ際になって名を尋ねてきたことを不思議に思いながら、老人は名を告げた。
青年は一度だけ老人の名前を反復した。
「おじいさん、切符は鞄の外側のポケットの中だよ。それじゃ、寝過ごさないようにね」
しばしの間の旅の道連れに別れを告げて、青年は降車口へと向かった。
左の肩にバッグを掛けて、右の手で杖を突いて。
「よっこいしょ……っと」
爺むさい掛け声を掛けて、青年は駅のホームへと降り立った。
「うう、寒っ」
予想以上の寒さに上着の襟を立て、首をすぼめた。荷物になるので現地調達しようと思い厚手のコートを置いてきてしまったが、考えが甘かった。まだ冬とは言い切れない季節であったはずだが、元いた土地とは寒さが段違いだ。悠長なことを言っていては凍えてしまう。
新天地に北を選んだのは失敗だったかもしれない、と列車を降りて早々に後悔する。ある程度判り切っていたことだが、それでも北を選んだのは、逃亡者は北へ向かうのが相場というものだからだ。
(脚も痛むしなぁ……)
寒さの所為かいつも以上に痛む右脚の付け根をさすり、足を引き摺りながら歩き始める。歩くくらいならばなんとかなるが、段差の上り下りには時折顔を顰めてしまう。
これでも一年前と比べれば随分と快復したものだ。以前は車椅子での移動が主で、立って歩くには松葉杖が二本必要だった。
先程のなぞなぞに当てはめるのであれば、四本脚から三本脚への一段飛ばしの進化である。
杖を突き、周りの人間に次々と追い抜かれながらも歩を進める。
初めての土地なので駅を出る前に地図を入手しておきたい。ホームを抜けて駅の構内に入り、売店を探して首を回すと、雑踏の中に見覚えのある顔を見つけた。
「げっ」
「あっ」
即座に顔を背け、回れ右をした。
「あにさーん!」
相手も見知った顔であることに気付いたらしく、青年に向かって呼び掛ける。しかし青年は気付かなかった振りをして、折角難儀して進んできた距離を引き返した。
「あにさんあにさん、ヤっタにーさぁーん! オレですよオレー、ジロですよーっ」
顔が解らなかったのかと気を遣い、被っていたニット帽を取って呼び掛けるが、尚も無視。代わりに呼び掛けに反応した周りの人間がなんだなんだと振り返った。
「あにさんってばー。あ、荷物重そうですね。オレ持ちますよー」
「あっ! ちょっ、コラ!」
精一杯の早足で逃げていたがあっという間に追いつかれ、スキンヘッドの男に後ろからバッグを引ったくられてヤタはようやく足を止めた。
「久しぶりじゃないですかあにさん! 何でこんな所にいるんですかあにさん? 脚大丈夫ですかあにさん?」
「あーもうっ! 目立つから大きい声で呼ぶなっての。てゆーか、そんなに歳変わらないんだからあにさんあにさん連呼するなよ……」
他人から軽くてお喋りだという評価を受けることの多いヤタであるが、こいつには負けるだろう、と自分よりも少し背の高いジロのつるりとした頭をじとりと睨みつけた。
「そんな嫌そうな顔しないでくださいよー」
「あのねぇ……こちとら過去のしがらみとは一切手を切って、新しい土地で新しい生活を始めるつもりでいたんだよ」
だというのに、新天地に降り立って早々に見知った人間と出くわしたのだ。嫌な顔にもなる。
「よりにもよって、キミみたいなヤツに会うなんてさぁ……嫌だ、嫌過ぎる」
「その言い方は傷付くっすよ。ところであにさん、しばらく音沙汰なかったですけど、どうしてたんですか? なんか警察から逃げるために入院してた病院抜け出して、身を隠してたって聞きましたけど。肉屋も辞めちゃったんですよね? 一部は拠点移したらしいですけど。あ、脚、それ後遺症残ってるってマジなんすね」
「ほとんど全部把握してるじゃないか……ああもう、だから嫌なんだ。まったく、相変わらずキミは、一体どこから情報を仕入れてくるのさ」
「それはまぁ、企業秘密ってヤツですよ」
にやり、情報屋の男は不敵に笑った。
「それよりこんな場所で立ち話ってのもなんですし、どっか入りません? 寒くって敵いませんや」
「そりゃハゲてるんだから寒いだろうさ。いいから荷物返してくれない?」
「これは剃ってるんですって。毛根死んでるみたいに言わんでくださいよ」
ニット帽を被り、ヤタのバッグを担ぎ直した。
「まぁいいやー、行きましょ行きましょ。確か駅の中にコーヒー飲める所があったはずー」
「だから、俺の荷物っ!」
バッグに手を伸ばすがジロはその手をひらりとかわして歩き出した。引き離そうという気はないようだが、ヤタが手を伸ばしても届かない距離と速度を保っている。
足を止めることなく、ジロは首だけを回して肩越しに振り返った。
「オレが奢りますよ?」
「当たり前だ!」
バッグを盾に取られ、ヤタは否応無しにジロの後を追いコーヒーショップへと向かう形となった。
「……で、なんでキミはこんな所にいるのさ?」
ヤタはミルクと砂糖を放り込んだコーヒーをティースプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、それなりに付き合いの長い知人に不機嫌に問うた。
「仕事ですよ、仕事。情報は足で稼ぐのが基本ですからね。情報求めて東奔西走、遠路はるばるこんな所までやって来ているワケですよ」
カップを手で包んで暖を取りつつ、ジロはそう答えた。
「そりゃご苦労なことだね」
「オレはいつも通りのことですけど、それよりもあにさんのことですよ。ここで生活するって、住む所とか仕事とか、もう決めてあるんすか?」
「いや、それは今から」
コーヒーを混ぜるのを止めてスプーンを置く。カップに口を付けるが、熱くて少ししか口に入れられなかった。
「随分とのんびりっすね」
「ま、俺も汚い商売で儲けてたからね。貯蓄は充分あるし、そう焦る必要はないよ」
「そうっすかー。……あ、仕事ないならオレと情報屋やりません? オレとしては、足は多い方が助かりますし、あにさん情報集めるの得意じゃないですか。本職のオレより情報持ってることもありましたし、向いてると思いますよ?」
「やだよ」
ジロの勧誘をヤタは一刀両断に断った。
「俺は汚い商売からは足洗いたいんだよ。あんまり無理出来ない身体だしさ、他人から恨まれるような危ない仕事にはもう関わりたくないの。それに、俺が情報通だったのは肉屋の仕事柄、色んな方面と付き合いがあったからだよ」
その頃は仕事での付き合いで自然と情報が耳に入ってきていたが、ヤタ個人は他人と必要以上に関わり合うことは苦手だと自称している。
ヤタの前職は『肉屋』と呼ばれているが、それは食肉販売業者を指しての名称ではない。場合によっては商品を食肉として販売することもあったが、それはごく一部の特殊な趣味の顧客に対してだけだ。
ヤタは脚を傷める以前、非合法な死体処理を生業としていた。『肉屋』というのは、裏社会の死体処理業者の隠語として使われていた呼び名である。
一年前、ヤタは脚の怪我と、ある事件をきっかけに死体処理業を引退した。事件には直接関与してはいなかったのだが、警察に疑いの目を向けられることを避け、療養も兼ねてしばらく肉屋の仲間と共に身を潜めていた。
そのような事情を把握しているジロとの再会は、新たな生活を始めようとするヤタにとっては不本意だった。
さっさとコーヒーを飲み干して別れるつもりであったが、結局はコーヒーが冷え切ってしばらく経つくらいにまで話し込んでしまった。情報を得るのが仕事なだけあって、ジロは相手から話を引き出すのが上手い。商品になるような大した情報ではないが、身を隠していた一年の近況をほとんど話し尽くし、ようやく二人は店を出た。
「いけね、帽子忘れてきた」
店を出て早々、忘れ物をしたと言ってジロは今出てきたばかりの店の中へと引き返して行った。
(今の内にずらかるかなぁ)
コツコツと杖の先で地面を叩きながらそんなことを考える。
席を立つ際にバッグを取り返し死守したので、ヤタにはもうジロを待つ理由はない。このまま姿を消して縁も切ってしまおうと企て、ジロに見られていないことを確認するために店のガラス戸の奥を覗き込んだ。
「?」
不意に、袖を引っ張られる感覚を覚えた。
杖を持った手の方へ視線を向けると、見知らぬ少女がヤタの袖の端を掴んで横に並んでいた。
(親と勘違いしてるな……)
子供というのは身長が低い分、視点が低く視野も狭い。人ごみの中で一旦親の姿を見失うと、服の色だけを見て別の人間について行ってしまうこともある。
少女は視線を正面に向けていて、見知らぬ男の袖を掴んでしまっていることには気付いていない様子だ。おそらくは隣にいた親が移動したことに気付かないまま、近くにいた人間に手を伸ばしてしまったのだろう。
ヤタはやや乱暴に腕を引き、袖を掴む少女の手から逃れた。冷たくあしらえば、相手が親ではないと気が付くだろう。まだ親も遠くまで離れてはいまい、間違いに気付かせるならば早い方がいい。
少女から一歩距離を取り、再びジロの様子を探るべく店の中を覗きこむ――と、またしても袖を引っ張られた。
「!?」
今度は勢いよく振り返り、袖を掴む少女の方を見た。慌てて構内を行き交う人の波を見回し、それからもう一度少女の方に視線を戻して、その手に白い杖が握られていることに気が付いた。
正面を見据えているように見えた少女は、その目に何も映してはいなかった。
「……冗談だろ……」
ヤタの袖を掴む、見知らぬ盲目の少女。
新たな生活を始めようと新天地に降り立ったヤタは、それを何者かに邪魔されている気がしてならない、と頭を抱えた。