涙
久しぶりに穏やかな日々だった。
夫は約束通り、ホームパーティーの土曜日まで、毎日早めに帰宅し、夕食を一緒に食べてくれた。
「仕事が終わってないから、家でも仕事をする」
夫は食事が終わるとPCを片手に部屋に引きこもるので、会話はそんなになかったけれど、ただちゃんと帰ってきてくれるだけで、幸代はうれしかった。
そして義母もとてもうれしそうだった。
お風呂の中や電車の中で一人になると、幸代は工藤の事を思い出す。
それでも柏木に電話をする気持ちには、ならなかった。
良い思い出にしよう。
そう決めた。
そしてあっという間に土曜日がやってきた。
二人でデートをしてからホームパーティーに行く約束だったはずなのに、夫はいつまでもゴロゴロし、家を出るのが遅くなったため、結局手土産を買うだけで夫の友人宅へ向かった。
「木内くん、いらっしゃい!」
出迎えてくれたのは、夫の大学時代の友人、小林の妻・加奈子だった。
「おお、加奈ちゃん、久しぶり!みんなもう来てる?」
夫は友人たちにとても愛想が良い。
最近家ではあまり見せない笑顔を早くもふりまいている。
「佐藤君たちは今日お子さんが体調悪くて来れないみたい。
ちえちゃんたちはさっき来たところ。中村君家族は今駅で、聡が迎えに行ってるよ。
さぁ、入って。奥様も、初めまして!今日は宜しくお願いします」
加奈子には初めて会うが、事前に夫から写真を見せてもらい、顔と性格を教えてもらっていた。
夫が言っていた通り、明るく優しそうに見えた。
「初めまして。木内の妻の幸代と申します。今日はお招きいただきありがとうございます」
初めてで緊張したけれど、笑顔できちんと挨拶をする。
夫のためにも、今日は頑張らないといけないだろう。
夫と加奈子の夫・小林聡は大学のクラスメイト。聡と加奈子は会社の同期であると夫から聞いていた。
夫は幸代より6歳年上のため、今日のホームパーティーの参加者は年上が多い。
先に到着していたちえは、幸代と同じ30歳で、夫と聡の所属していたテニスサークルの後輩である。夫がサークルのコーチとして合宿に参加したときに親しくなったらしい。
ちえは4年前に結婚し、今は3歳児の母親である。
「あ、幸代さん、お久しぶりです。お元気でしたか?今日はまたお会いできるの楽しみでした」
ちえには幸代たちの結婚式が終わった後、二次会の受付をしてもらったお礼にと一度、自宅に遊びに来てもらったことがあった。歳も同じなので、今日のメンバーの中では一番話しやすい人物だろう。
「ちえちゃん、お久しぶりです。元気よ、ありがとう。優実ちゃんも大きくなったね、こんにちは」
以前会った時にはまだ1歳だった娘の優実ちゃんも、すっかりお嬢ちゃんぽくなっていた。
子供の成長は早い。
しばらくすると聡と中村一家も到着し、パーティーは始まった。
「修ちゃんとどうです?上手くいってますか?」
パーティーの途中から自然と、子どもと遊ぶ若者チームと、30代後半チームに分かれた。
ちえと娘の優実と幸代は、リビングの床でおもちゃ遊びをし、他のメンバーは料理をつまみながらお酒を飲んで盛り上がっている。
ちえは夫を「修ちゃん」と呼ぶ。
その呼び方から二人の仲の良さを感じるが、幸代は気にしないことにしていた。
「うーん、普通かな。うちはまだ子供もいないし、付き合っていたころとあまり変わらないよ」
幸代は無難な回答をする。
「修ちゃんって私みたいな後輩にもいばったりしなくて優しくて、女友達も多いじゃないですか。
でも決まった彼女がいなくて、いつもみんなで不思議がってたんです。
結婚したら修ちゃんはどんな夫になるのかなって、友達とも言ってて、だから今日は幸代さんに色々教えてもらっちゃおう」
ちえはとても無邪気でかわいらしい。
でも、まさか夫とあまりうまくいっていないだなんて、誰が言えるだろう。
幸代は話を変えた。
「でも、ちえちゃんの旦那さん、やっぱりすごく素敵だよね。しかもとってもいいパパそう。前に家に来てくれた時に写真は見せてもらったけど、実物のほうがイケメン!」
ちえの夫の諒太は現在は会社員だが、学生時代にモデルをやっていたと聞いていた。
ちえも昔モデルをやっていた時期があり、そこで知り合ったらしい。
「えーそうですか。諒太が聞いたら喜んじゃいますよ。もう中年太りでどんどん太っちゃって。
今日は家族サービスしてますけど、いつもは全然ですから」
ちえと諒太も幸代たちと同じ6歳の差があり、諒太は今年36歳になる。
「そうなんだ。仕事忙しいんだね。まだ優実ちゃん小さいから、ちえちゃん大変だね」
どこの家も夫は家にいないものらしい。
「そうなんですよ。なので私はしょっちゅう実家に帰っちゃってます。やっぱり実家は楽ですね。
修ちゃんは毎日早く帰ってきます?」
「うちも最近遅い日が多いかな。何かプロジェクトを任されている、とかで」
余計な事を言うと、後で夫に怒られそうで、言葉選びには慎重になる。
「そうなんですね~修ちゃん昔から頑張り屋さんだからな。さみしいですよね、家で待っているのって。でも修ちゃんの場合は仕事だからまだいいですよ~。うちは飲み会ですからね。営業だからしょうがないっていうんですけど。何やってるのかわかったもんじゃないですよ」
ちえは夫に会話が聞こえないようにか、少し小声で話し始める。
「私、実はちょっと諒太の浮気も疑ってるんです」
急に会話が思わぬ方向に行き、幸代は戸惑った。
そんなに親しくない相手に、いきなり夫の浮気疑惑なんて話すものなのだろうか。
「諒太さんに限って、浮気なんてありえないよ!だってちえちゃんのこと大切にしてそうだし。優実ちゃんもいるんだよ。そんなこと考えちゃだめだよ」
詳しい事情はわからないけれど、幸代はそう諭す。
「私も確証があるわけではないんですけどね。幸代さん、修ちゃんが浮気をしたらどうします?」
夫の浮気・・・。
疑ったことがないと言えばうそになるが、それこそうちの夫に限って・・・と真剣に考えたことはなかった。
「今まであんまり考えたことなかったなぁ。でも、浮気をするなら、絶対ばれないでしてほしい、かな。もし気づいてしまったら・・・その時にならないとわからないけれど」
なんでこんな質問をされているんだろうと思いながら、幸代は答えた。
「そうですよね。修ちゃんは浮気とかするタイプでないし、考えたことないですよね。
私、ちょっと今悩んでいて、変なこと聞いてごめんなさい!」
そういってちえは話題を変えた。
その後、誕生日が近かった優実にサプライズでケーキが用意されていて、皆でお祝いをした。
優実を囲んだちえと諒太は、誰が見ても美男美女の素敵なカップルで、幸代の心は複雑だった。
どの夫婦でも問題があるんだな。
そう思った。
「今日のあの態度はなんなんだよ」
帰りの車の中で突然夫に言われて、幸代は驚いた。
「え、何か悪いことしたかな?」
幸代には全く身に覚えがなかった。
皆に笑顔で対応したし、気を利かせて片付けも率先してやったつもりだった。
「気を使ってますって感じが態度から出てた。
いつも家では母さんに家事を任せきりなくせに、わざとらしく皿まで洗っちゃって。
あんな態度取られたら逆にみんなも気を使うだろ」
どうやら夫は怒っているようだ。
運転も心なしか荒い。
でもなんで怒っているのか、幸代には理解できない。
「怒らせてしまったならごめんなさい。私、そんなつもりはなかったんだけど」
気まずい空気に耐えかねて、幸代は夫に謝った。
しかし、夫から返答はない。
沈黙が続く。
だんだん涙が出そうになる。
さっきまで皆に気を使った。夫に恥をかかせないようにがんばっていた。
その結果、何で怒られなくてはいけないのだ。
「はぁ」
しばらくすると大きなため息と共に、夫はこう言い放った。
「本当、今日の幸代にはがっかりだよ」
その言葉で、幸代の中で何かが切れた。
「もういい。私電車で帰る」
幸代は鍵を開け、走ってる車の扉を開けようとする。
「おい、止めろよ。何してるんだ」
夫は運転しながら片手で幸代を抑えつけようとする。
「離してよ!」
幸代が暴れると、夫は車を道路脇に止める。
「本当に危ないから、急に止めてくれる?
降りるなら勝手にすればいいけど、ここがどこだかわかってるの?電車賃も高いよ」
幸代は夫の顔を見る。
あきれたような、馬鹿にしたような顔をしている。
悲しい。
何でこんな扱いをされてまで、私はこの車に乗っていなければいけないのだろう。
「降りないんなら、遅くなるから帰るよ」
夫は車の扉の鍵をかけ、車を発進させようとする。
「降ります」
幸代は鍵を開け、ドアを開けた。
「勝手にしろ」
夫は引きとめもせず、幸代が車から降りるとにすぐに車を発進させた。
「何なの何なの何なのよ!!!!!!!」
取り残された幸代は、この怒りをどこにぶつけていいのかわからず、地団駄を踏みカバンを道に投げ捨てた。
ガシャン。
カバンから荷物が飛び出し、道に飛び散った。
もう何もかもが嫌になる。
自分で広げた荷物を拾い集めながら、幸代は泣いた。
悲しかった。悔しかった。
私は何をしているんだろう。
今日の私の何がだめだったんだろう。
携帯が、鳴った。
幸代の知らない番号が、そこに表示されていた。