現実
「今日は少し遅くなります」と伝えて家を出たものの、夜遅くに家に帰るのは、いつもよりさらに気が重い。
出掛ける際に義母は笑顔で、
「久しぶりの同窓会なんだから楽しんでいらっしゃい」と
言ったけれど、内心いい気はしていないだろう。
義母と同居を始めて1年が過ぎた。
結婚前、夫の木内修司は都内のマンションで一人暮らしをしていた。
夫の実家は神奈川県にあり、古びた一軒家に義父母が住んでいた。
その家は確かに都内の勤務先にも通える距離にあったけれど、
幸代は夫の親と同居なんて考えたこともなかったし、修司もそうだったと思う。
結婚から半年がたった時、義父が亡くなった。
交通事故だった。
夫婦仲良く暮らしていた義母は、かなり落ち込み、一気に老け込んだ。
そして「さみしい」と何度も夫に電話をするようになった。
「実家で、母親と一緒に暮らしてほしい」
そういわれた時、正直悩んだ。
義母は優しく、明るく、かわいらしい女性で、嫁姑関係は決して悪くなかったと思う。
「私には息子しかいなかったから、娘が出来たら一緒にお出かけしたかったの」と
2人で一緒に買い物やご飯に何度も行った。
嫌なことを言われたり、意地悪をされたことは一度もなかった。
それでも、たまに会うのと毎日会うのとでは話が違う。
きっと、嫌になる日がくる。
最愛の義父を失った義母は確かに可哀想だ。
ここで断ったら、絶対悪者になる。
でも同居して仲が悪くなるよりも、離れていたほうが、
長い目で見たら幸せではないのか。
夫の親と同居なんて、誰もが嫌がる状況なのではないか。
ぐるぐるぐるぐる考えが回り、親や友人に相談した。
やっぱり断って貰おう、そう夫に切り出そうと思った。
結果、私には選択肢がなかった。
いつの間にか引越の手配はとられ、義母からは「ありがとう」と感謝された。
そう、夫は「暮らしてほしい」と言ったのだ。
「暮らしてくれないか?」ではなかった。
私が悩んでいる間に、話は進み、家の一部のリフォームも済んでいた。
「主婦が二人だから、これからは楽ね!助け合いましょう!」
同居初日の日には、お揃いのエプロンを作った義母が待っていた。
「悪い人では無い。何より愛した人の母親ではないか。そして今は私の母親でもあるのだ。
それにもし、子どもが産まれたら、お義母さんと一緒の方がいいに違いない。家賃もかからなくなるから、経済的にも余裕が出来る」
勝手に物事をすすめた夫と義母に腹が立たないわけではなかった。
いや、むしろかなり怒っていた。
でも、こうなったらしょうがない。私は自分自身を必死で納得させた。
あの、お揃いのエプロンの日から、もう一年が経つ・・・。
「ただいま帰りました」
重い足をなんとか進ませ、やっと家に着いた。
義母は私の帰りを待っていたのか、すぐに顔を出す。
「おかえりなさい!楽しかった?」
楽しかったと言うと義母が嫌な顔をする気がして
「久しぶりにたくさんの人と会って、少し疲れました」と答えた。
義母は
「そうなの?もう帰るかと思って、お風呂を沸かしておいたから入りなさい」
と明るく言う。
玄関を見ると、夫の靴はまだ、ない。
「修司さんはまだなんですね」
半年前くらいから、平日夫はめったに早く帰ってこない。
最近は休日も今日のように不在がちだ。
新しいプロジェクトのリーダーになったんだと夫は言う。
プロジェクトが最終段階に入り、休日も休めないらしい。
家に帰って来ると「仕事は大変だよ」と愚痴をこぼすが、その顔は生き生きしている。
「なんだよ、本当は楽しんでるくせに」
夫婦の寝室に入ると、なんだか夫に急にイライラしてきて
夫がいつも使っている枕をベッドにたたきつけた。
本人にいえば
「家族のために働いているのだから文句を言うな」
そういわれるにきまっている。
私も昼間は結婚前から勤めている会社で働いている。
事務の仕事で毎日ルーティンワーク。
残業はほとんどなく、毎日17時に仕事が終わる。
家計の為に、と続けた仕事のときだけが、今の私の自由時間。
心から辞めないで良かったと思う。
夫と二人だったころは、会社帰りは独身時代と変わらず、友人と食事をしたり、遊んだりした。
でも、今は毎日まっすぐ家に帰る。
家事が行き届いたあの家で、寂しがり屋の義母がご飯を作って待っている。
帰らないと、遠回しの言葉で、私を責めてくる義母が待っているから。
「姑の面倒をみなければいけないの」
義母に断りを得て外出するよりも、友人の誘いを断る方が楽だった。
そのうち、誘ってくれる友人の数も減った。
お義母さんは悪くない、たださみしいだけ。
夫は悪くない、仕事が忙しいから。
そう、誰も悪くない。
「修司が中学校の頃はね~」
「修司が幸代さんと出会ったころだったかしら」
義母はキラキラした顔で夫の話ばかりする。
夫の話をすれば、私が喜ぶ、そう思っているのだろうか。
いつも不在の夫の帰りを一番待っているのは多分、義母だ。
毎日毎日、そんな義母と2人きりで過ごす。
「本当に今幸せなの?」
服を着替えてベッドに横たわると、工藤に言われた言葉が胸をよぎる。
結局何も答えられず、
「ごめん、もう帰らないといけない時間だから」
と言ってその場を去った。
あれから工藤はどうしたのだろうか。
ゆきなたちと二次会に行ったのだろうか。
全てを見透かすような工藤の視線に耐えかねて、連絡先も聞かずに帰ってきてしまった。
「私は今、幸せなんだろうか」
ベッドサイドの結婚式の写真立てに手を伸ばす。
写真の中の二人はとても幸せそうに微笑んでいる。
そう、私たちはとても仲のいいカップルだった。
「この時が幸せの頂点だったんだ」
悲しい気持ちになって、そっと写真立てを倒す。
何が変わったんだろう。
なんで変わったんだろう。
どうして夫は帰ってこないんだろう。
もう何日も夫とまともな会話をしていない。
苦しかった。
義母との関係も
変わっていく夫との関係も。
涙が出そうだ。
いけない。泣いてはいけない。
「会いたかったんだよ、ずっと」
久しぶりに会った工藤の顔と声を思い出す。
他の事を考えず、その言葉だけに集中する。
心が少し温かくなった。