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ただ名前を呼ばれるまでの放課後

作者: なるる
掲載日:2026/06/07

 窓から入る風には、微かに生ぬるい初夏の匂いが混じり始めていた。

 高校に入学してから、早くも一ヶ月が経とうとしている。新しい環境、新しい人間関係。その中で俺は、自分の立ち位置を慎重に、そして確実なものとして構築してきた。


「なぁ、今日の放課後遊びにいこうぜ」


 背中越しにかけられたクラスメイトの誘いに、俺はシャープペンシルを動かす手を止めず、視線をノートに向けたまま返答する。


「悪い。今日は予定がある」

「えー。城戸(きど)くんこないんだー」


 左隣の席から身を乗り出した女子生徒の声には、期待が外れたという落胆が素直に混じっている。その反応に、俺は内心で小さく安堵の息を吐きながらも、表情には一切それを出さず、柔らかな苦笑を作ってみせた。


「また埋め合わせさせてくれ」

「ラインは絶対返してよ」

「ああ、わかってる」


 当たり障りのない会話を終え、俺は軽く手を振って教室を後にした。背中に向けられた好意的な視線を感じながら、廊下に出る。

 他人の期待に応え続けるのは、ひどく疲れる。けれど、誰からも期待されない人間になるのは、もっと恐ろしい。

 今の俺は、クラスの皆が抱く「爽やかで、少し大人びた好青年」というイメージの通りに動いているはずだ。

 毎朝、鏡の前で今風の髪型に整えて、誰に対しても等しく愛想よく振る舞う。

 その仮面が絶対に剥がれないように、静かに慎重に日々を過ごしている。


 進学校特有のどこか冷ややかな静かな廊下を歩く。

 俺が地元から離れたこの高校を選んだのは、過去の自分を知る人間から逃げるためだった。

 幸か不幸か、同じ中学から進学してきたのは一人だけで、それ以外の連中は俺の過去を何も知らないはずだ。


 窓の外から、グラウンドの土を蹴る音と、鋭いホイッスルの音が響いてきた。サッカー部の練習風景だった。

 その音を聞くたびに、右膝の奥底が、今はもう存在しない痛みを訴えるように微かに疼く。


 中学二年生の秋。俺のすべてだったサッカーは、膝の故障によってあっけなく終わりを告げた。トレセンにも選ばれ、将来を期待されていたという自負は、ピッチに立てないという現実の前では無力だった。怪我で休んでいる俺へ向けられる、チームメイトたちの冷ややかな視線。次第に省かれ、居場所を失っていったあの時の孤独が、今も足元にこびりついている。

 

 俺が向かおうとしているのは、校舎の最奥にある図書室だ。

 ふと、入学直後の記憶が脳裏に蘇る。

 満開の桜並木の下で立ち止まっていた女性。

 周囲の生徒たちと同じ、見慣れたはずのブレザーの制服。だが、彼女には、他者とは明確に一線を画す空気があった。


 顎のラインは驚くほど凛と引き締まり、横顔には一切の無駄がない。春の風に揺れる黒髪の毛先が、ふわりと肩口で踊っていた。色素の薄い瞳が遠くの空を仰ぎ、その視線の先にある何かを見つめているような――どこか浮世離れしている美しさに、俺は足を止めて、息を呑むことしかできなかった。


 入学からしばらくして、教室でその特徴を口にすると、クラスメイトたちはすぐに答えを出した。


「それ、緋山先輩じゃね?」

「二年生で、学校一の美人と評判だぞ」

「えー!陽向くんも先輩狙いなんだね」


 周囲の口から語られる彼女の輪郭は、どれも現実味に欠けていた。告白して砕け散った男たちの数は知れず、他校に年上の彼氏がいるだの、実家がとてつもない資産家だの。嘘か本当か分からない、下らない噂ばかりが広まっている。


 ただ一つ確かなのは、そんな噂の中心にいる緋山凛(ひやまりん)が、毎週水曜日の放課後には必ず図書室のにいるということだ。

 その部屋に入る重い扉を、音を立てないようにゆっくりと押し開く。古い紙の匂いと、微かな冷気が肌を撫でた。


 迷うことなく奥へ進むと、窓際の席に彼女はいた。夕陽が斜めに差し込み、本に視線を落とす彼女の輪郭を淡く、そして白く縁取っている。一枚の絵画のように完成されたその光景に、俺はまたしても目を奪われる。


 俺の気配に気づいたのか、彼女は読みかけていた本から視線を外して、こちらへと顔を向ける。

 互いの視線が交差して、ほんの数秒だけ、世界から音が消え去ったような錯覚に陥る。

 ――相変わらず、ひどく綺麗だ。


「……また来たのね」


 彼女の口調は、決して歓迎しているとは言えない。温度がなく、ただ事実だけを述べるような響き。だけれど、そこには明確な拒絶も存在していなかった。

 俺は「完璧な後輩」の顔を崩さぬまま、彼女の向かいの席へと歩みを進めた。


「先輩も『また』いますね」


 努めて自然な動作でカバンを机に置く。彼女は眉ひとつ動かさず、再び手元の本へ視線を戻した。


「……ここが静かだからね。君も、勉強熱心なのはいいけれど」


 彼女はそこで言葉を切り、ページをめくる手を止めた。そして、少しだけ視線を上げて俺の顔を一瞥する。


「あまり無理をすると、顔に出るわよ」


 淡々とした、まるで明日の天気の話でもするような口調だった。

 俺の作り上げた完璧な防御壁を、いともたやすくすり抜けてくるその言葉の意図がわからず、俺は一瞬だけ呼吸を忘れた。


「……何のことですか?」

「さあ……。ただ、見ていて疲れていると思っただけよ」


 彼女は興味を失ったように、再び自分の世界へと意識を戻した。それ以上は何も追求してこない。


 俺は喉の奥が微かにひきつるのを感じた。心臓が嫌なリズムを刻み始めている。俺の何が彼女にそう言わせたのか。誰にも見せていないはずの泥臭い部分を、まさか見透かされているのか。


 湧き上がる動揺と不快感を悟られまいと、俺は少しだけ口角を上げ、あえて挑発するような言葉を選んだ。


「俺のこと、よく見てるんですね。……それとも、先輩も似たような経験があるんですか?」


 皮肉を込めたその問いに、彼女の手がピタリと止まる。

 俺は心の中で小さく冷笑した。図星だったのだろうか。高嶺の花と称される彼女もまた、俺と同じように重圧の中で何かを演じているのかもしれない。

 しかし、彼女の口から紡がれた言葉は、俺の予想を静かに裏切った。


「さあね。どうかしら……? あまり自分にも他人にも興味がないので」


 彼女は表情一つ変えず、そう言い捨てた。


 ――ああ、なるほど。


 この人は本当に、どこまでも冷めているんだ。他人を理解しようとする気も、自分を理解させようとする気もない。

 突き放されたような感覚。それと同時に、妙に肩の荷が下りるような不思議な安堵感が広がっていくのを感じた。

 他人の視線に怯え、期待に応えようと演じることに疲弊していた俺にとって、彼女のその徹底した無関心は、何よりも心地よい距離感だった。


「……そうですか。なら、よかったです」


 俺は誰に聞こえるでもない小さな独り言をこぼし、参考書を開いてペンを走らせる。そこからは、言葉を交わすことはなかった。本をめくる音と、ペン先がノートの紙面を擦る音だけが、等間隔に部屋中に響く。


 遠くのグラウンドからは、相変わらず運動部の生徒たちの声が聞こえてくるが、厚いガラス窓に阻まれて、まるで別世界の出来事のように遠く感じられた。騒音はなく、ただ静かに二人だけがそれぞれの作業に集中できる空間。


たまに先輩を見ているときに、年上の姉を思い出す。

先輩の容姿が時横、姉と重なって見えるからだろうか。

姉も口数が少なく、自分を表現することは少なく見えた。

そうやって、昔の事を思い出していると一つのことを思い返す。


『お前は本当に出来損ないだな』


 都内の難関国立大学の受験に失敗し、地方の大学へ進学した姉。かつては天才ともてはやされた姉に向かって、父が吐き捨てたあの冷酷な声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。

 姉のようにはなりたくない。誰かに見下され、価値がないと切り捨てられるのは嫌だ。だから俺は、努力していることを隠しながら、生まれつき何でもそつなくこなせるように演じている。水面下で必死に足掻く泥臭い部分は、決して他人には見せない。


 俺は問題集を解きながらも、時折視界の端に映る彼女の姿を意識していた。整った横顔、文字を追う伏せられた睫毛。この静寂が、永遠に続けばいいとすら思い始めていた。

 だが、唐突にその空気は途切れた。彼女が、静かに椅子を引いて立ち上がった。


「……帰るんですか?」


 自分でも驚くほど、間の抜けた、そしてどこか引き留めるような問いだった。

 彼女はバッグを肩にかけ、冷めた眼差しでこちらを振り返る。


「そうね。そうしようかしら、えっと……」


 彼女はそこで言葉を詰まらせた。普段の、迷いのない佇まいとは違う、ほんの少しの躊躇がその表情に浮かぶ。


「ん……?」

「……その、名前を聞いていなかったと思って」


 彼女は俺の答えを待つことなく、そのまま出口へと歩き出す。後に残ったのは、図書室の静かな空気と、夕陽に赤く染まった俺の机だけ。


 名前を、聞かれた。

 彼女の背中がドアの向こうに消えようとしている。

 ここで何もしなければ、俺はまた「ただの後輩」に戻る。

 波風を立てず、誰にも深く関わらず、仮面を被ったまま生きるなら……。


 ――いや、ここで終わらせてたまるか。

 俺は衝動的に椅子を蹴り、図書室の出口へと足を向けた。

 床を叩く自分の足音がひどく大きく聞こえる。重い扉を押し開け、廊下を歩く凛の背中を追った。


「き、城戸陽向!」


 自分のものとは思えないほど、焦燥に満ちた声だった。

 俺の声に、凛がゆっくりと足を止め、振り返る。夕陽が廊下に長く、彼女の細い影を伸ばしていた。


「陽向……もっと殺伐とした名前かと思ったわ」


 彼女は小さく肩をすくめ、俺の顔を見つめる。


「どういう意味ですか」


 思わず問い返すが、彼女は答えない。ただ、いつもは冷たさしか宿していないその瞳の奥に、ほんのわずかな、悪戯っぽい光を滲ませた。


「ふふふ……さよなら、城戸くん」


 彼女はそのまま、何事もなかったかのように歩き去っていった。

 廊下に取り残された俺は、微かに熱を持った自分の顔を自覚しながら、名前を口の中で転がしてみる。


「陽向」


 いつもは、日陰を歩く自分の本質に合わないと、疎ましくすら思っていた名前だ。

 だが、彼女の唇から放たる響きは、不思議と悪くなく感じられた。

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