第六章 ログの幽霊
二人は再現実験を行う。
外部ログだけが残り、内部ログは消失。
そして観測直後、主人公は“誰かの名前”を思い出せなくなる。
実験は理論を裏付け始める。
ログは嘘をつかない。
少なくとも、そう教えられてきた。
人間は嘘をつく。記憶は改竄される。
だがログは時刻と事象をそのまま残す。
それがこの研究所の信条だった。
だから僕たちはログを信じる。
自分よりも。
端末の画面には、僕の行動履歴が並んでいる。
九時五十九分三十秒。キー入力。
九時五十九分三十一秒。キー入力。
九時五十九分三十二秒。キー入力。
正確だ。正確すぎる。
僕はタイピングの練習をした覚えはない。
むしろ打鍵は遅い方だったはずだ。
誤字も多い。修正も多い。
だがこのログにはそれがない。
均一なリズム。誤差ゼロ。
人間ではない。
僕はキーボードから手を離した。ログは止まった。
当然だ。当然のはずだ。
僕はもう一度キーを打つ。画面に文字が出る。
ログに時刻が刻まれる。
普通だ。
普通とは何だろう。
普通という言葉は定義が曖昧だ。
真白はそう言っていた。
“平均値は個体を説明しない”
彼女の口癖だった。
平均的な人間など存在しない。
存在するのは平均値だけだ。
僕は平均値に近づいている。
誤差ゼロの入力。均一な間隔。
それは人間ではない。
ドアの向こうで足音が止まった。
ノックはない。
「起きているか」
霧島の声だ。
「起きている」
僕は答える。
声に出した。今回は確実だ。
ドアが開く。
彼は入ってきて、端末の画面を見た。
「まだログを見ているのか」
「ログは嘘をつかない」
僕は言う。
彼は首を振った。
「ログは“嘘をつくように使える”」
言葉の順序が逆だ。
真白ならそう言うだろう。
僕は椅子を回して彼を見る。
「observer.log を見た」
僕は言った。
霧島の眉が動く。
「どこで?」
「真白のフォルダ」
彼は沈黙した。
数秒。
「中身は?」
「一行だけ。観測しているのは誰?」
霧島は小さく息を吐いた。
「彼女らしいな」
らしい。その形容が妙に具体的だ。
「観測者問題だ」
彼は言う。
「ログは事象を記録するが、誰が観測したかを記録しない」
僕は首を傾げる。
「サーバーが観測している」
「違う」
彼は即答した。
「サーバーは“書き込む装置”だ。観測者ではない」
観測者。
「ログを信じるという行為自体が観測だ」
霧島は続ける。
「誰がログを読み、どう解釈するかで事実が決まる」
解釈。
僕は自分のログを見た。
均一な入力。誤差ゼロ。
解釈は一つだ。
自動入力。
「君のログ」
霧島が言う。
「マクロを使った形跡はない」
「なら問題ない」
「だが人間の入力でもない」
循環だ。彼の仮説はいつも循環する。
「第三の可能性がある」
彼は言った。
僕は何も言わない。
「記憶補完アルゴリズム」
その言葉で空気が変わる。
真白の研究。
「ログを基に記憶を補完するだけでなく、
逆に記憶を基にログを生成することも理論上は可能だ」
僕は笑った。
「ログは過去の記録だ。未来から作れない」
「君は“過去”をどう定義する?」
彼は問い返す。
時刻。
ログ。
記憶。
どれも基準になりうる。
「もし君の記憶が“ログに合わせて補完されている”なら」
霧島は言う。
「君はログが示す行動を“したことになる”」
言葉の意味が一瞬理解できなかった。
「僕がログを作ったのではなく、ログが僕を作った?」
「そういう仮説だ」
仮説。また仮説。
だが彼の仮説はいつも現実に近づく。
「真白はそれを完成させていた」
彼は言う。
「記憶とログの双方向補完。観測者を含めた閉ループ」
閉ループ。
僕の頭の中で円が描かれる。
A:記憶
B:ログ
C:観測
循環。
「もし犯人がそれを使ったなら」
霧島は静かに言う。
「アリバイは完全になる。自分の記憶すら改竄される」
僕は喉が渇いた。水を飲む。
コップの水位が一定に見える。
飲んでいるのに減らないように感じる。
錯覚だ。
「君の記憶」
霧島が言う。
「九時三十分から九時四十分、何をしていた?」
論文を書いていた。ログがある。
「それ以外は?」
それ以外。思い出そうとする。
空白。
霧がかかる。
「空白がある」
僕は言った。
彼は頷く。
「それが不自然だ」
普通の記憶は曖昧でも連続している。
完全な空白はない。
「補完されていない部分だ」
彼は言う。
僕は端末を見た。
ログは連続している。空白はない。
記憶だけが欠けている。
「逆だ」
霧島は言う。
「ログだけが存在している」
僕は自分の手を見る。
震えている。寒いからだ。
暖房は入っている。
「真白は君を信頼していた」
霧島が言う。
「管理者権限を共有していたのは君だけだ」
事実だ。
共有鍵。バックアップ用。
「もし彼女が“観測者”を設定するとしたら」
彼は続ける。
「誰にする?」
僕は答えない。答えは明白だ。
僕。
「observer.log は君宛てだ」
霧島は言う。
観測しているのは誰?
僕だ。
ログを見ているのは僕だ。
僕が観測している。
なら。
僕が現実を確定している。
「犯人は“観測者”を操作した」
霧島の声が遠く聞こえる。
僕の視界が揺れる。
ログを確認する。
九時三十五分。
キー入力。
だがその時刻、僕は――
何をしていた?
思い出せない。
霧島が僕の肩に手を置く。
「休め。顔色が悪い」
顔色。自分では見えない。
「君は被害者かもしれない」
彼は言う。
「記憶を改竄された」
被害者。
その言葉は安心を与える。
僕は犯人ではない。被害者だ。
そう思うと呼吸が楽になる。
ログを閉じる。画面が暗くなる。
そこに一瞬だけ文字が浮かんだ気がした。
“観測をやめるな”
錯覚だ。ログには残らない。
霧島は僕を椅子に座らせる。
「今日はもう寝ろ」
「ログの監視がある」
僕は言う。
「私がやる」
彼は端末を操作する。
管理者権限を要求される。僕が承認する。
ログに残る。
承認時刻。
二十二時十分。
彼は画面を見ている。僕を見ていない。
観測者は彼に移った。
僕は立ち上がる。ドアに向かう。
カードキーをかざす。
時刻が表示される。
二十二時十一分。
数字は正しい。ログと一致する。
廊下を歩く。足音が均一だ。
自分の歩幅が機械のように一定であることに気づく。
部屋に戻る。ベッドに座る。
眠気はない。だが横になる。
天井を見る。白い。
雪の色と同じだ。
観測をやめるな。
誰の言葉だろう。
真白か。
霧島か。
僕か。
僕は目を閉じる。ログには残らない。
残らないはずだ。




