第三章 語り手の安定
外部ログには“観測イベント”の記録がある。
しかし観測者の名前だけが空白。
さらに主人公自身の記憶にも、小さな欠落があることが判明する。
人は自分の記憶を信じることでしか、自分を保てない。
それは心理学の前提であり、日常生活の基盤でもある。
僕の研究は、その前提を崩すことにある。
だからだろうか。
自分の記憶に穴が空いているという事実を、どこかで冷静に観察している自分がいる。
不安はある。だが恐怖はない。
それがむしろ異常だと、理屈ではわかっている。
大学の講義室で、僕はいつも通りスライドを映した。
テーマは「偽記憶の形成」。
学生たちは事件のニュースを知っているはずだ。
それでも誰も触れない。
僕も触れない。
学術的な言葉の中に隠れていれば、現実は薄まる。
「人間の記憶は記録ではありません」
いつものフレーズを口にする。
「再構成です」
その瞬間、右側に気配を感じた。
真白が立っている。教室の壁際に。
白衣のまま。
学生たちは誰も彼女を見ていない。
少なくとも視線を向けない。
だがそれは、助手が講義に同席しているだけのことかもしれない。
僕はその可能性を選んだ。
選択は安定を生む。
講義後、研究室に戻ると、机の上に整理された資料が置かれていた。
被験者リスト。実験ログ。
インフォームドコンセントの書類。
真白が整えたのだろう。
彼女はそういう作業を好む。
分類。整列。番号付け。
世界をラベルで管理する。
「先生、警察から追加の質問があります」
彼女が言う。
「停電前後の行動について」
僕は椅子に座った。
同じ質問を何度も受けている。答えは変わらない。
変わらないはずだ。
「資料室にいた」
そう答える。
だがその言葉は、自分の中で空洞に響く。
証拠がない。
ノートは12時58分で止まっている。13時以降の記録はない。
つまり僕は、自分のアリバイを自分の記憶に依存している。
研究者として最も避けるべき状況だ。
「先生、自己観察は不可能です」
真白が言う。
「観察者と被験者は分離されなければなりません」
その通りだ。
だから僕は、自分を観察対象から外すことにした。
自分は犯人ではない。その前提を置く。
論理的ではない。だが必要な前提だ。
前提がなければ、推論は始まらない。
僕はホワイトボードに三つの円を描いた。
被害者。
真白。
僕。
矢印で関係を結ぶ。
動機。機会。手段。
動機――
僕にはない。
笹倉とは学術的対立があったが、殺意に至るものではない。
真白には――
不明。
彼女の過去を僕は知らない。履歴書に書かれている以上のことを。
だがそれは助手としては普通だ。
手段――
凶器は実験用のメス。研究室にある。
誰でも使える。
だが僕は血が苦手だ。それは事実だ。
機会――
停電の五分間。
僕の記憶は空白。
真白にはログによるアリバイ。
つまり論理的には僕が最も疑われる。
だがその結論に至るたび、思考が停止する。
自分が犯人である可能性を、前提として置けない。
それは心理的防衛だと理解している。
理解しているが、乗り越えられない。
「先生、仮説を置きましょう」
真白が言う。
「どんな?」
「外部犯」
僕は首を振る。雪がそれを否定している。
「設備トラブルによる誤作動」
「ログは正常です」
「第三の人物」
「監視カメラに映っていません」
すべて否定される。
論理的に。僕自身の論理で。
ホワイトボードの円の中で、僕の名前だけが濃くなる。
その視覚的な印象が不快だった。
僕はマーカーを置いた。
窓の外を見る。雪が降っている。
白い粒が連続して落ちる。時間のように。
そのとき、奇妙な感覚がした。
昨日も同じ雪を見た。今日も見ている。
だがその間の時間が曖昧だ。
講義をした。
警察と話した。
食事をした。
そのはずだ。
だがその記憶の密度が薄い。
まるで要約された文章のようだ。
重要な部分だけが残り、細部が消えている。
それはまさに、偽記憶実験の被験者が示すパターンだった。
僕は被験者ではない。研究者だ。
その区別を保つ必要がある。
「先生、記録を取りましょう」
真白がICレコーダーを差し出す。
「今からの会話をすべて」
良い提案だと思った。記憶に頼らないために。
僕はスイッチを入れた。
赤いランプが点灯する。
「今、何時だ」
「14時12分です」
彼女が答える。
僕は時計を見る。同じ時刻だ。
安定している。
僕は深呼吸した。
「僕は犯人ではない」
自分に言い聞かせる。
その言葉が録音される。
後から聞き返せば、客観的な記録になる。
それは安心をもたらすはずだ。
だが同時に、奇妙な疑問が浮かんだ。
この録音を後で聞くのは誰だ?
僕か。
警察か。
真白か。
記録は誰のために存在する?
観察者のためだ。
ならば観察者は誰だ。
その問いに答えられなかった。
ICレコーダーの赤いランプが、やけに明るく見えた。
そのとき、研究室のドアがノックされた。
警察だった。
追加の事情聴取。
僕は立ち上がる。
ICレコーダーをポケットに入れる。
記録を持ち歩くことで、自分を保てる気がした。
廊下を歩く。
右側に真白がいる。
いつも通り。
警察官が僕を見る。真白には視線を向けない。
だがそれは、単に僕に話しかけているだけかもしれない。
そう解釈した。
取調室で同じ質問が繰り返される。
「停電中はどこにいましたか」
「資料室です」
ICレコーダーがポケットの中で動いている。
記録が残る。それが安心を生む。
「誰かに会いましたか」
僕は考える。
真白がいた。
だがそれを言う必要があるか?
助手が隣にいるのは当然だ。
「いいえ」
そう答えた。
その瞬間、ポケットの中のICレコーダーが妙に重く感じた。
記録と発言が一致していない。
だがそれは重要ではない。
助手の存在は事件と無関係だ。
そう判断した。
取調室を出ると、真白が言った。
「先生、安定しています」
何が、とは聞かなかった。
安定している。その言葉は心地よい。
研究者にとって、安定は価値だ。
だがその安定が、何の上に成り立っているのか、
そのときの僕は考えなかった。
ICレコーダーの赤いランプは、まだ点灯していた。




