第二章 雪のアリバイ
吹雪で閉ざされた研究所。
監視カメラも入退室記録も完全なはずなのに、観測室の内部ログだけが欠落している。
密室状態の中で「誰が観測したのか」が論理的に特定できなくなる。
研究所に続く坂道は、冬になると完全に白くなる。
除雪はされるが、朝のうちだけで、午後にはまた積もっていく。
轍の跡が固まり、その上に新しい雪が乗り、過去と現在が層になっているように見える。
警察が現場検証を終えた翌日、僕は再び研究所に向かった。
立入禁止のテープはまだ残っているが、職員としての許可証があれば入れる。
玄関の前で足を止めた。雪の表面は平滑で、靴跡がない。
昨日のものも消えている。
つまり、誰も来ていない。
それを確認してから扉を開けた。
中は暖房が落ちていて、空気が冷たい。
白い廊下が静かに続いている。
監視カメラは入口の上に一台だけ。古い型で、録画は警備室のHDDに保存される。
警察はその映像をすでに回収している。僕も確認した。
事件当日の出入りは三人だけだった。
12時02分 笹倉
12時10分 僕
12時14分 真白
その後、誰も出入りしていない。
裏口は雪で完全に塞がれていた。非常口も外から開けることはできない。
窓はすべて二重ロック。
外部侵入は論理的に不可能。
つまり内部犯行。
その結論は、研究者としては美しい。条件が限定され、解が絞られる。
だが同時に、その解の中に自分が含まれていることを意味する。
僕は廊下を歩いた。足音が反響する。
右側に気配を感じる。真白がいるのだろうと思った。
「先生、ログを確認しましょう」
彼女の声がする。
僕は頷いた。警備室に向かう。
警備室の机には発電機の稼働ログのコピーが置かれていた。
警察が残していったものだ。
停電は13時42分。
発電機起動は13時43分。
復旧は13時47分。
そしてその間、発電機室のドアセンサーは一度だけ開閉している。
13時43分。
つまり停電直後に誰かが発電機室に入り、起動操作をした。
その人物は―― 真白だ。
彼女のIDカードが記録されている。完璧なアリバイだ。
停電中、彼女は発電機室にいた。だから実験室で犯行はできない。
僕はそのログを何度も見返した。数字は変わらない。
「先生、ログは事実です」
真白が言う。
「記憶は不安定です」
その言葉は正しい。
だが同時に、記録が絶対に正しいとは限らない。
僕はそう反論しようとしたが、やめた。それは自分に不利な論理になるからだ。
研究室に戻る途中、実験室の前で足が止まった。
床の血痕は清掃されている。だが完全には消えていない。
薄い影のように残っている。
そこを避けて歩いた。
僕は血が苦手だ。それは本当だ。
学生時代、解剖実習で気分が悪くなったことがある。刃物を持つと手が震える。
だから僕がメスを握って人を殺すなど、現実的ではない。
そのはずだ。
その「はず」という言葉が、頭の中で反響する。
研究室の机に座り、タイムラインを書き直した。
12:02 笹倉入館
彼は厚手のコートを着ていた。雪が肩に残っていた。
12:10 僕入館
コーヒーを淹れた。
12:14 真白入館
彼女はいつも時間通りだ。
12:30 打ち合わせ
実験内容の確認。
13:00 実験開始
13:42 停電
13:43 真白、発電機室
13:47 復旧
13:50 僕、死体発見
完璧な構造だ。論理的に破綻がない。
だが、その中に僕の行動がない。
停電中の五分間、僕はどこにいた?
資料室。
いや、廊下。
いや、トイレ。
どれも確信がない。記憶が選択できない。
「先生は観察していなかっただけです」
真白が言う。
観察していない出来事は、記録されない。
それは僕の理論だ。
だがそれは同時に、観察していない行為は“存在しない”ことになる。
危険な論理だ。
僕は立ち上がり、資料室に向かった。
自分がそこにいた証拠を探すために。
資料室の机には、僕のノートが開いたまま置かれていた。
最後の記述は12時58分。
その後は空白。
つまり13時以降、ここにはいない。
論理的にそうなる。
だが僕の記憶では、ここにいたはずだ。
記録と記憶が矛盾している。
どちらが正しい?
研究者としては、記録を優先すべきだ。
だが人間としては、記憶を信じたい。
その葛藤が、妙に心地よかった。
問題を解いている感覚があったからだ。
「先生、外部侵入の可能性は?」
真白が問う。
僕は首を振った。
雪がすべてを否定している。
研究所の周囲は開けた敷地で、足跡が残らないはずがない。
つまり密室。
密室は美しい。論理的に閉じている。
だがその閉じた空間の中で、僕の記憶だけが開いている。
それが不快だった。
警察は外部侵入説を形式的に検討した。
窓、換気口、天井裏。
だがすべて否定された。
僕はその報告書を読んだ。完璧だった。
だからこそ、残る選択肢は一つしかない。
内部犯行。
容疑者は二人。
だが真白にはアリバイがある。
ログという形で。ログは嘘をつかない。
少なくとも機械は嘘をつかない。
人間が嘘をつく。
その論理は正しい。
だがそのとき、ふと疑問が浮かんだ。
ログを確認したのは誰だ?
コピーを持ってきたのは警察だ。
だが元データを最初に見たのは――
僕だ。
停電復旧後、発電機が動いているか確認するために、警備室に入った。
そのときログ画面を見た。
その記憶はある。
だがそのとき、真白はどこにいた?
僕の右側にいた。いつも通り。
ならば発電機室にはいない。
だがログでは彼女が発電機室にいる。
矛盾だ。
だがその矛盾を、僕は深く考えなかった。
ログがあるからだ。
記録があるからだ。
記録は事実を保証する。
そう信じた。信じることにした。
研究者として、論理を優先するのは当然だ。
そのとき、真白が言った。
「先生、アリバイは構造です」
僕は意味を理解できなかった。
「構造?」
「時間と位置の関係です」
彼女はホワイトボードに図を描いた。
研究所の見取り図。
実験室。資料室。発電機室。警備室。
それぞれの位置と移動時間。
「停電は五分です」
彼女が言う。
「実験室から発電機室まで走れば二分」
「操作に一分」
「戻るのに二分」
「理論上は可能です」
つまり――
停電中に犯行と発電機操作を一人で行うことは可能。
だがそれは真白のアリバイを崩す論理でもある。
僕は首を振った。
「ログがある」
それがすべてだ。ログが彼女を発電機室に置いている。
論理はそれに従うべきだ。
彼女は何も言わなかった。ただ、口元をわずかに上げた。
その表情が、初めて不気味に見えた。
外を見ると雪が降り始めていた。
静かに。音もなく。
白い粒が積もっていく。すべての痕跡を覆い隠すように。
研究所は再び孤立する。密室が完成する。
その密室の中で、僕の記憶だけが空白を抱えている。
僕はノートを閉じた。
そして思った。
もしこの事件が論理パズルだとしたら、僕は解く側にいるのか、解かれる側にいるのか。
その答えはまだ出ていなかった。
だが一つだけ確かなことがあった。
停電の五分間に、何かが起きた。
そして僕はそれを、観察していない。




